goo

L・Wノート:断片(Zettel)(2)


■旧暦10月28日、金曜日、

(写真) in Basel

実質的な第一詩集の編纂作業に入った。来年の秋冬出版をめざしている。この詩集は、英語版から日本語にしたものと、日本語版から英語にした作品の二種類からなり、日英二つの言語で構成する。作業は、基本的にぼく一人でやるのだが、たとえば、英語版から日本語版への翻訳を別の人がやったら、面白いかもしれないなどと考えている。作業は、難航が予想されるが、面白い経験になると思っている。今回は、出版社の好意で、超長期ローンを組めたが、売ることも強く意識している。効果的なpromotionをいかに行うか、も考えながらの編集になる。



ヴィトゲンシュタインは、「断片」に入ったら、とたんに、わかりにくくなった。何らかの著作を意識したものではなく、メモの集積なので、当然と言えば当然だが、中には、どうしてもヴィトゲンシュタインの思考とは思えないものもある。一つの理論が形成されていくプロセスの紆余曲折が垣間見える。ヴィトゲンシュタインの著作のスタイルは、断章形式で、古くは、ラシュフコー、パスカルから、ニーチェに至る系譜に位置づけられる。これと対照的なのが、ヘーゲルからマルクスを経由する系譜で、体系性を重んじる。思想の内容という点でも、この二つは対照的。断章形式(とくにヴィトゲンシュタインの場合)は、その順番に最大限の注意が払われている。これは、インターネットの時代にも合った面白い形式だと思う。

45. Absicht(Intention) ist weder Gemüzsbewegung, Stimmung, noch Empfindung, oder Vorstellung. Sie istkein Bewußtseinszustand. Sie hat nicht echte Dauer. Wittgenstein Werkausgabe Band 8 Suhrkamp 1984

意図とは、情緒でもなく、気分でもなく、感情や観念でもない。それは、意識状態ではない。意図には、本当の意味で持続がない。

■いわんとするところはわかるが、そもそも「意図」なる日本語は、翻訳語ではないかと思い、調べてみた。文献上最初に、「意図」が現れるのは、1928年の歩兵操典綱領である。「常に上官の意図を明察し大局を判断して」。軍隊マニュアルに初めて出てくる。やはりなと思ったが、完全に近代の言葉、しかも、軍隊に関する言葉である。「意図」の日本的な使用法が浮かび上がって来るようではないか。ヴィトゲンシュタインの「意図」は個人の「意図」である。日本で文献に初出したときには、「上官の意図」に変貌している。他者、しかも、上位の他者の意図、さらには、下位の者が明察すべき対象という点で、きわめて示唆的ではないだろうか。近代、軍隊、意図。

文学に最初に現れるのは、堀辰雄の「風立ちぬ」(1936-1938)である。「私の意図したところは、これならまあどうやら自分を満足させる程度には書けてゐるやうに思へた」。戦争に協力した文学者は数多いが、文学というものが、内在的にもっている、「全体への動員に対する拒否」が現れているように、ぼくには思えた。その根拠は「私」なのだろう。

ヴィトゲンシュタインの洞察は、「意図」には持続がない、というところにあるが、これを先の軍隊の使用法に当てはめると、上官の意図は隠されており、しかも、持続的であることが前提されている。だから、それを明察しなければならないし、できるわけである。上官は、上司と言い換えても同じであろう。問題になっているのは、「わたしの意図」ではなく「上官の意図」である。

命題の前半で、ヴィトゲンシュタインは、「意図」は、なんらかの「心の状態」ではないと言っている。このことの意味は大きいのではないか。つまり、言語ゲーム(行為を含む)の中で、意図の意味か、決まるのであれば、意図の明察は、訓練と一体である。つまり、意図はアプリオリに他者の心の中に存在するのではなく、共同で作りだされるものに変わる。もちろん、その共同性は平等で民主的なものではない。



Sound and Vision










コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

12月2日(木)のつぶやき

22:59 from web
Thank you Beez for the rt. :-) @beezknez I've just started editing my poetry book. the first one in both Japanese and English.
by delfini_ttm on Twitter
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )