goo

L・Wノート:断片(Zettel)(4)noncommunicativeをめぐって


■旧暦11月11日、木曜日、

(写真)スイス国有鉄道

朝から、仕事に入る。介護関係の手配や連絡、立ち会いなど。老人の体調は日々変化し、それに対応して手を打っていかなければならない。ケアマネやヘルパーさんたちの協力が有り難い。午後、久しぶりにウォーキング。気分が良かった。夕方、少し、眠る。夜、仕事。



32. Stell dir einen deiner Bekannten vor! Nun sag, wer es war! - Manchmal kommt das Bild zuerst und der Name danach. Aber errate ich den Namen nach der Ähnlichkeit des Bildes? - Und wenn nun der Namen dem Bild erst nachfolgt, - war die Vorstellung jenes Menschen schon mit dem bild da, oder war sie erst mit dem Namen vollständig? Ich habe ja auf den Namen nicht aus dem Bild geschlossen; und eben darum kann ich sagen, die Vorstellung von ihm sei schon mit dem Bild gekommen. Werkausgabe Band 8 suhrkamp 1984

きみの知り合いを一人思い浮かべてくれ。思い浮かべたら、それが誰なのか言ってみてくれ。顔が最初に浮かんで、名前は後から出てくることもあるだろう。このとき、名前が出てくるのは、その人がその顔に似ているからなのか。顔が先で、名前が後から浮かんでくる場合、その人の観念は、顔と同時に存在するのか、それとも、名前が出て来て初めてその人の観念となるのか。わたしは、その顔から、名前を導き出したわけではない。まさにこの理由から、その人の観念は、顔が浮かんだときにすでに存在していたと言えるのである。


■このメモは、はじめ、ぼくには、よく理解できなかった。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を踏まえれば、名前が浮かんだときに当の観念が完成されると考えるはずだからだ。このメモは、ヴィトゲンシュタインの理論形成プロセスの揺らぎの一つなのだろうと、考えて、しばらく放っておいた。最近、大森荘蔵の『時は流れず』を読んでいて、このメモの意味を再度考える機会を得た。大森荘蔵は、「過去」を問題にする。大森の考え方を端的に言えば、「過去は社会的制作物」ということになる。このとき、その制作物が、個人的なものではなく社会的なものになるには、二つの条件をクリアする必要がある。一つは、複数の人間の想起が一致すること、二つは、現在世界への整合的接続があること。大森荘蔵の時間論は、今、関心を持っている「植民地の問題」や「ライ病の問題」との関連で、重要な論点を含むので、別途、ここで、詳しく検討する予定だが、今は、深く立ち入らない。

今、問題にしたいのは、大森荘蔵の概念、「知覚的図解」である。過去は、われわれの想起と切り離して考えられないが、実在する過去がアプリオリに存在して、それを後から、われわれが想起するのだという常識論を、大森は否定する。過去は、想起すると同時に作られるからだ。このとき、過去が過去になるのは、一人の想起ではなく、先の二つの真理条件を満たすことで、はじめて社会的な過去となる。過去とは、そもそも、社会的な過去である。この議論は、非常によくわかる。

大森は、このときの「想起の仕方」を問題にする。たとえば、昨日の天気を想起するとする。「昨日は雨だった」このとき、過去の想起とは、雨が降っている知覚映像が想起されるが、それは、常に、現在形であり、雨の匂いや、雨粒の様子を、知覚として、詳しく検討することはできない。過去の想起に伴い発生する知覚イメージを大森は「知覚的図解」と呼んでいる。この特徴は、夢の想起と同じように、画像は補助的なもので、過去の想起は、「昨日は雨だった」という言語命題で、初めて成立する。われわれが過去を想起する時、生々しい画像イメージが生じるのは、この言語命題を説明補助する役割を持つもので、過去の想起とは、言語命題の集合体だというものである。

大森荘蔵が、「知覚的図解」は過去ではない、とする論拠は、映像が現在形であること、知覚的映像の詳細を、目の前にあるように、詳しく検討できないこと(夢の在り方に対応している)がおもだが、こう言われても、なかなか、知覚的想起が過去ではない、とする議論は受け入れにくい。あれほど、昨日のようになまなましく、思い出せるのに、なぜ、これが過去ではないのか、あれほどの心の痛みをともなって映像が浮かぶのに、なぜ、過去ではないのか。

大森の議論の大筋は、納得できるが、知覚的想起が過去ではない、という説明が納得できない。そう思いながら読んでいた。問題は、その説明の仕方にある。知覚的想起が過去ではないのは、夢と同じように、noncommunicativeだからだ。それとしては伝達不可能だからだ。イメージはどこまでも鮮明だが、言語に変換することなく、そのまま、他者に伝えることができない。夢が、言語化されたときに、初めて夢として存在するように、知覚的想起は、言語化されて初めて、先の二つの真理条件をクリアする条件を整える。もし、人類が、言語ではなく、知覚で直接コミュニケーションできる生物だったら、知覚的想起は、即、真理条件の対象になるはずである。

知覚的想起は、noncommunicativeという点を、とりあえず、指摘しておきたい。さて、ヴィトゲンシュタインの断章に戻ると、ここで言われているdas Bild(像)やdie Vorstellung(観念)が、大森の云う知覚的想起に対応し、der Name(名前)が、命題に対応することは、比較的に見て取りやすいだろう。ヴィトゲンシュタインの問題は、どの時点で、観念が完成するのか、という問題だった。これを大森の問題意識で、言いかえれば、どの時点で、過去として完成するか、ということである。ヴィトゲンシュタインの答えは、観念が浮かんだとき。その理由は、像から名前を推理しなかったから。つまり、知覚的想起が起きたときに、過去は完成している。なぜなら、知覚的想起から命題を推理したわけではないから。知覚的想起と命題は切れている。云いかえると、ここでの、ヴィトゲンシュタインの議論は、観念がアプリオリに存在する、というプラトンの観念論に近い。

大森は、この反対である。名前が浮かんだとき、過去が完成する。理由は、観念や像は常に「現在形」であり、また、観念や像の詳細を想起することはできないから(ちょうど夢の中のように、花の匂いは思い出せない)。ただ、この理由は、なかなか、納得できる論拠ではないように思う。子どもの頃の自分や若かりし父の知覚想起など、過去の知覚的想起もあるし、「現在形」と言った時点で、知覚は命題化されてしまう。つまり、知覚と命題の関係を議論するときに、関係そのものが先に前提されてしまっている(そもそも、当該の命題(知覚的想起)が過去なのか現在なのかは、命題(知覚的想起)の時制が決定するというよりも、その命題(知覚的想起)の場面や文脈が決定するではないだろうか)。また、花の匂いのような知覚的想起もあるではないかと思えるからである。

知覚的想起は、それだけではnoncommunicativeであり、命題に変換されてはじめてcommunicativeになると説明された方が納得しやすい。大森の議論には、人間は社会集団の中で、活動するという前提があり、その意味では、現実的な議論であるが、ヴィトゲンシュタインの断章に出てくる人間は、単独者である。つまり、観念を伝達する必要のない人間が前提されている。この意味では、ここに登場した人間は、いかなる観念共同体にも属さない。その意味では「哲学者」なのだと思う。これは、また、マルクスが批判した意味での「哲学者」であり、ヴィトゲンシュタインその人のスタンスを現わしているのだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )