verse, prose, and translation
Delfini Workshop
L・Wノート:断片(Zettel)(3)
■旧暦10月30日、日曜日、
(写真)バーゼル市立美術館(欧州最古の市立美術館)
昼ごろ起きる。昼飯後、久しぶりに新聞をじっくり読む。とくに予定のない日なので、いつもの喫茶店まで、散歩。新聞2紙を読む。今日の朝日に、皓星社が梓会出版文化賞の新聞社学芸文化賞受賞の記事が載っている。これは、主要新聞社・通信社の文化部長が選考委員を務める賞で、今回が7回目。朝日新聞によると、「ハンセン病文学全集をはじめ重く困難なテーマに正面から立ち向かった」という授賞理由が述べられている。皓星社からは、ぼくも2冊翻訳書を出してもらい、関係者の一人として、とても嬉しい。とくに、準備・調査期間を除き、編集作業だけで10年にも及んだ「ハンセン病文学全集」実現の困難さは、ぼくも、身近にいて、ある程度、聞き及んでいたので、なおさらである。
『生きて死ぬ知恵』再読。薄い本で、堀文子さんの絵も好きなので、何回も読んでいるが、ここに、翻訳された般若心経の世界は、要素還元論の世界だなと改めて思った。存在を原子や素粒子の世界に還元してしまい、その濃淡で世界を一元的に考えるというスタンスは、すっきりして、気分はいいのだが、要素が集合すると、要素に還元できない何かが生じるから、やっかいなのだし、面白いのだろう。しかし、何かリセットしたい心境のとき、読むと実にツボにはまるのである。
☆
46. ≫Ich habe die Absicht, morgen zu verreisen.≪ - Wann hast du die Absicht? Die ganze Zeit; oder intermittierend?
46.「わたしは、明日旅立つ意図を持っている」-きみは、その意図をいつ持っているのか。終始持っているのか、それとも、断続的に持っているのか。
■ヴィトゲンシュタインは、「意図」とは何かと、その意味を問う代わりに、意図をいつもっているのか、と問う。この疑問は、「意図」は、終始、個人の心の中に存在するという一般常識をひっくり返すためであるように思える。AbsichtはAbsehen(あらかじめ見る)から派生している。この派生経緯は、「意図」の使用法が、もともと、「見ること」と関連していることを示しているのではないだろうか。「わたしは始終彼女を見ていた」という使用法は成り立つが、その意味は、「頻繁に見ていた」ということで、「始終」は強調的に使われている。
ところで、ドイツ語には、第三者の意図を表すsollenという言葉がある。Absichtを使わずに、「意図」を表現できる使用法だが、この場合、第三者の「意図」はいつ存在するのか。それが語られたときなのか。第三者から、その意図を聞かされた話者は、それをsollenで表現するまで、その「意図」をどこに持っているのか。「心の中」に持っているのか。
Ich soll ihm das Buch bringen.
わたしは、この本を彼に届けるように言われている。
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