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プラトンとアリストテレス/ルカーチ『社会的存在の存在論プロレゴメーナ』

■旧暦10月5日、土曜日、、達磨忌、波郷忌

(写真)無題

蜜柑がバケツに3杯分も届いたので、配っている。庭の蜜柑の木になったものだという。次郎柿もよくなったらしい。柿は好物なので、配らない! 


ふるさとや世のはじまりに蜜柑あり

次郎柿種の周りがやはらかき




夕方から、I先生の哲学塾に出る。今日は、プラトンとアリストテレスの話だった。プラトンとアリストテレスは、学生時代に、多少は読んだが、今日のように、哲学史の中に系統的に位置づける作業をしてもらえると、理解が進む。プラトンがイデアを生む存在として創造者を想定し、キリスト教神学の先駆けになった、という話は初めて知った。プラトンの考え方の基礎にあるものが、精神的なものだったのに対し、アリストテレスの考え方の基礎は動物だったという話も、なんだが、示唆的だった。その後の西欧の理論史は、この二人を批判的に継承する歴史とも言えるわけだから、植民地主義や資本主義を通じて、「西欧」が世界化していくプロセスを考えれば、プラトンとアリストテレスの話を聴くというのは、世界の端緒を垣間見るような思いがする。

後半、ルカーチの『社会的存在の存在論のプロレゴメーナ』のポーランド語版というのを先生が朗読して、その場で、日本語にしてくれたが、内容的には、非常に面白い。今日のレクチャーで、やはりな、と思ったのは、フッサールに始まる現象学には、「歴史」がないのではないかと、感じていたが、ルカーチは、現象学は、自然と社会を排除している、という批判をしている。存在のもつ社会性が現象学からは消えていると。

今、検討しているテキストは、メルロ-ポンティの肉の存在論に「技術性」が欠如しているという点が一つの中心的な論点になるが、これと、ルカーチの現象学批判-社会性・自然性の欠如-をどう考えるかが、作業として浮上してきたことになる。ルカーチのプロレゴメーナは、「労働」「再生産」「理念・イデオロギー」「疎外」といったカテゴリーで世界を読み解く社会的存在の存在論の入門篇となるもので、非常に示唆に富んでいる。時代を根源的に考えていく上では、不可避のテキストだろうと思う。
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