教師論そのもの

2010年06月07日 23時59分59秒 | 日記
このところ、毎週月曜日はブルーマンデーと化しています。
理由は様々、週の初めにしていちばん時間割がしんどい(それでも1・3~5限)、友人にあまり遭遇しない、などなど。
それでもちゃんと授業には出て単位を取らなければならないので、どうにかこうにか頑張ろうとしています、管理人の星です。


今日の5限「教師論」は学級通信についての内容でした。
学級通信と言えば私は高3の卒業式まで受け取っていた覚えがありますが、それらはイベントや提出物の締切を伝える、本来の「通信」としての役割は十分に果たしていたと思います。また、時折クラス全員の感想文が掲載されるなど、「学級」としての要素ももちろんありました。批判的に書いた意見が歪められたこともありましたが。

今回のレジュメにも含まれていた、先生の中学校教師時代の学級通信のコピーは、クラスの枠を超えて保護者とも交流を持とうとしている、より多くの読者に向けて書いているという、それはそれは画期的で素晴らしいものでした。
しかし、クラスの問題に対する保護者の意見を掲載したり、不登校問題についても学級通信で解決を試みるなど、
個人的な意見としては、いまの時代に出来るかどうか微妙な内容もあったことは事実です。

もし自分が教師なら、あそこまで踏み込めるだろうか?
後々まで文章として残る、クラスの全員に配布される紙媒体に、敢えて不登校に対する事柄意見を載せることが出来るだろうか?
人間関係が希薄化している現代においては有効な手段かもしれないが、果たしてそのスタイルは生徒や保護者に受け入れられるだろうか?
そういうことを載せて、不登校やいじめがより加速する要因になりはしないだろうか?
…もちろん当事者には了解を得た上で載せられていたのだと思いますが、どうしてもそれらが疑問に残りました。

今回見た学級通信はほんの一部に過ぎませんから、断片的に見て判断をしているかもしれません。
ひとりの問題を、クラスの生徒だけでなくその保護者にも広く認識をしてもらうことで、解決に繋がることももちろんあると思います。
でも、学級通信をそこまで大きくする必要性や、詩などを用いて感情論に訴えかけることが、今ひとつ分かりませんでした。

ならばどうしたら良いか?
いまの自分には分かりません。
もっともっと、教職の授業を受けて考える中で見つかるのかもしれないし、実際にケースバイケースである現場に入ってから、長い時間をかけてようやく分かることなのかもしれない。


写真は紙屋川。
何か癒しがほしい。街を歩きたい。