電脳筆写『 心超臨界 』

水の流れが岩と衝突するところ常に水の流れが勝る
力ではなくその持続性によって
( お釈迦さま )

「自由」を脅かすものは一体何か――西尾幹二

2022-09-12 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き本来の日本を取り戻そう!
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《 注目の論点 》
慰安婦はみな合意契約をしていた――マーク・ラムザイヤ―
太平洋艦隊で最も老朽化した艦艇を真珠湾に残した――ロバート・B・スティネット
東京裁判が始まる――渡部昇一
敗戦利得者――渡部昇一
GHQの日本占領――渡部昇一
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日本学術会議の言う「学問の自由」とは敗戦の日の思い出漂うムードを頼りにした消極概念で日本の現実に立脚していない。そもそも誰がどのようにしてメンバーに選ばれているか、はっきり分からない秘密集団だ。草創期には人名を出し組織解剖した桶谷繁雄東工大名誉教授による「日本学術会議は日本共産党の下部組織だ」という明確な証言もある(「月曜評論」昭和52年10月24日)。


◎「自由」を脅かすものは一体何か――西尾幹二・評論家
(「正論」産経新聞 R02(2020).11.18 )

◆日本学術会議をめぐり

日本学術会議のあり方が問われ出して以来、「学問の自由」という言葉が飛び交っている。しかし「自由」は果たして根本から問い質(ただ)されているだろうか。

一方、米国と中国の対立が深刻化して以来、日本のメディアはそこに必ず覇権争いの一語を添える。覇権争いは喧嘩(けんか)両成敗の意味を含む。日本のような中小国はどこまでも中立だという意識を伴う。自国の経済と安全保障の損得だけ考えていればいい、と。自分自身の問題をそこに見ない。だがそんなことで果たして「自由」の本質に立ち入れるだろうか。

そこで私はまず自由を脅かすものは一体何かという問いを掲げてみたい。日本では自由を脅かすものは国家だと頭から信じ込んでいる。だが自由を脅かすものは第一に自分自身であり、今の我々の享受している自由の内容である。

第二に国家の外にある何か強大なイデオロギー、宗教体系、合理的な仮面をつけた世界説明の闇、その他である。しかし先の大戦の敗北以来、大半の日本人は自由の敵は国家であり、自国の歴史であると単純に捉えがちである。こういう国民は実は少数である。

ごく大雑把(おおざっぱ)な図式になるが、イスラム圏やインドでは宗教の権威が政治より上位にあった。東アジアの歴史では逆に政治が宗教より上位にあった。それに対し西欧では宗教と政治の力が均衡し、絶え間ない衝突と葛藤が生じ、そこに近代的自由の必要が生じた。

即(すなわ)ち中世からずっとローマ教会は世俗の権力でもあり、領土を有し、武力を備えた、国家にも似た一大パワーであった。近代的な市民社会の自由の概念―「学問の自由」もその中に入る―は封建貴族や王権を倒せば直ちに得られるというものではなかった。その前に宗教権力が立ちはだかっていた。「自由」のための戦いは三つ巴(どもえ)の構造を示していたことになる。

例えばイタリア王国とローマ教皇ピウス9世の争いは長期にわたり、有名なラテルノの和解で一応の妥協が図られたのは何と20世紀に入ってからの1929年のことであった。

◆自由の敵は国家ではない

西欧では自由の敵は決して国家ではなく、まず宗教であった。宗教の武力に脅かされるというこの観点はわが国の近代史ではオウム真理教までみられなかった。「政教分離」はだからわが国では、国家の悪から宗教を守って、宗教に自由を保障する根の浅い、甘っちょろい概念であった。自由の側に戦いの試練もなく、血塗られた経験もない。

西欧の精神は時代が変わってもその本来の精神は変わらず、今では米国がその衣鉢を継いでいる。近代世界では宗教は次第に穏健になり、代わりに共産主義という現代の宗教がしつこい挑発を続けている。同時に自由は過剰であるという自己批判の精神も鋭敏になった。米国政府が中国共産党と全面対決の意志を示している最中、本年10月に米司法省が、巨大富を集中させるグーグルを反トラスト法(独占禁止法)違反で提訴した。外では共産主義と戦い、内では公正な競争を阻害する資本主義のマイナス面と戦う―これが西欧の文化伝統から出た「自由」の発露である。いずれも目前の現実と戦いそこから目を逸(そ)らさない。

一方日本学術会議の言う「学問の自由」とは敗戦の日の思い出漂うムードを頼りにした消極概念で日本の現実に立脚していない。そもそも誰がどのようにしてメンバーに選ばれているか、はっきり分からない秘密集団だ。草創期には人名を出し組織解剖した桶谷繁雄東工大名誉教授による「日本学術会議は日本共産党の下部組織だ」という明確な証言もある(「月曜評論」昭和52年10月24日)。

◆自由の本義に立ち還り議論を

最近ではノーベル賞学者も並べカムフラージュしているが、司令塔はあるに違いない。国会論争で共産党があれほどむきになるのは最後の利権だからだ。論戦は大いに結構だが、やるなら「自由とは何か」の本義に立ち還(かえ)ってやってもらいたい。いつまでも自由を脅かす敵は国家だ、という認識のレベルなら打ち切るにしくはない。

それに比べてみるなら菅義偉首相の多様性を尊重し、既得権益を排し、出身大学に偏りのない、民間にも目を配った、前例主義に捉われない、公正な競争を前提とした組織であってほしいというのは日本の今の現実に合っていて的確な「自由」の概念の表明である。

一方米国の大統領選の始末に目をやれば「自由」が見境もなく乱舞した混乱と見えるが、人種や洲権による「分断」はあの国の歴史の必然から出ていて現実である。トランプ氏は実にシェークスピアの『コリオレイナス』を思わせる千両役者である。われわれはしばらく推移を見守るがいい。今やロングランの大劇場だ。米国人らしい「自由」の自己表現であって、集票の不正で地に落ちた米国民主主義の信頼の回復は、見えない巨大悪に立ち向かうこの人の無私の情熱、恐れを知らぬ行動の如何(いかん)にかかっているといえよう。
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