電脳筆写『 心超臨界 』

想像することがすべてであり
知ることは何の価値もない
( アナトール・フランセ )

生きるための杖ことば 《 閑古錐——松原泰道 》

2024-06-30 | 03-自己・信念・努力
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白隠和尚(1768年没)の頌(じゅ)に「徳雲(とくうん)の閑古錐幾たびか妙峰頂(みょうぶちょう)を下る。他の痴聖人を傭(やと)って雪を擔(にな)って共に井を塡(うず)む」(『毒語心経』)と。徳雲は修行を積んだ高僧だが、閑古錐と呼ぶ。徳雲は悟りの高峰ではおさまってはいずに、度々山をおりる。そして痴聖人とつれだって、雪を担(にな)って井戸を埋めにかかる……。


◆閑古錐(かんこすい)――毒語心経(どくごしんぎょう)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p194 )

「閑」とは、ひまというよりも、心の安らいだ状態をたたえる字である。「古錐」は使い古した錐(きり)をいう。先もまるくなって、誰も用いないから、閑である。新しい錐は役に立つが、ときには他を傷つけるきらいもある。古錐には、その憂いもないから心も安らぐ。

買い立ての錐は先鋭で有能で貴重な存在であるように、“やり手”とたたえられる人間は切れすぎて、ときには他者だけでなく自分をも傷つけるきらいがある。「閑古錐」は、この辺の呼吸を示唆するようだ。

錐は、穴をあける道具だから、はじめから先がまるくなっていては役に立たぬ。人間も若いうちは鋭角が多い方がいい。その鋭角の角が一つ一つとれて、初めて円熟の人格となる。「円とは、無限の多角形なり」との数学の定義に興趣を覚える。

古来、名将とうたわれた人は、必ずしも快刀乱麻の切れ味のよさがすべてではない。ときには無能力者のように思われもする。現代社会にあって、よき指導者となるにも、「閑古錐」の語から何かを学びとる必要があろう。こうした心境を、禅語で「痴聖人(ちせいじん)」になぞらえる。「痴」は、たんなる愚ではない。真・善・美・聖をふみ越えた大いなる愚の世界だ。

白隠和尚(1768年没)の頌(じゅ)に「徳雲(とくうん)の閑古錐幾たびか妙峰頂(みょうぶちょう)を下る。他の痴聖人を傭(やと)って雪を擔(にな)って共に井を塡(うず)む」(『毒語心経』)と。徳雲は修行を積んだ高僧だが、閑古錐と呼ぶ。徳雲は悟りの高峰ではおさまってはいずに、度々山をおりる。そして痴聖人とつれだって、雪を担(にな)って井戸を埋めにかかる……。

東洋の古い思想の中には、無だとわかっていても、なお努力をつづけるところに、人間の尊厳性を凝視したと思われるものがある。この考え方は現代においてこそ、じっくりと学ぶ必要があるのではなかろうか。
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