チューは、「宇宙は巨大な網の織物であり、その無限な数の網目のひとつずつにそれぞれ鏡があり、お互いにお互いを映し合っている」という『華厳経』の説く宇宙モデルと、自分の理論がまったく同じ概念であることを知って、愕然(がくぜん)とします。なお、『華厳経』では、「部分が全体で、全体が部分」ということを、「一即一切(いつそくいつさい)、一切一即」と表現しています。 . . . 本文を読む
人間が最初につきあう自分以外の人は、親です。それを徹底的に大切にしろ、とはどういうことか。親のほうは「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という教えだと考えているかもしれません。でも、それは誤解です。親孝行は、子どもに対して「お前はお前だけのものじゃない」ということを実は教えていたのです。 . . . 本文を読む
科学的説明などまったくなかった時代に、先人たちは直感的に見抜いてしまった。あらゆる手段を講じ、男系男子による皇統の継承を護った。この事実が重要で、その歴史を今になってわれわれが放棄することなど、あってはならないのである。 . . . 本文を読む
クラウゼヴィッツは、国際環境を支配する闘争状態を三つに分けて考察している。①戦争は自然の本能ともいうべき憎悪と敵意を伴う「原始的な強力行為」である。②戦争は確実性と偶然が絡み合った「ばくち」である。③戦争は政治の道具としての従属的な性質を帯びることで「もっぱら打算を事とする知力の仕事」にもなる。 . . . 本文を読む
何年かまえのことですが、三越百貨店がツアーを募集して、ベルサイユ宮殿まで連れていって、そこでルイ14世のころとおなじ晩さん会をやりました。そのツアーに参加した人びと、要するに有閑マダムですけれども、そういう人たちは「見せびらかしの消費」のとりこになっているとしかかんがえられませんね。 . . . 本文を読む
たとえば、だ。不思議に思うのは、共産主義独裁国家の人間に土地や株式会社を売ることを自由主義の国が国内法で禁じていないことだ。われわれ日本人は、中国の土地や株式会社を買うことができない。なぜなら、あの国は私有財産を許さない国だからだ。こちらが私有化できないのに、なぜ中国人が日本の不動産や水源地を自由に私有化できるのか。なぜアメリカを中心とした資本主義国家がこれ認めているのか。侵略されているようなもので、どう考えても納得ができない。 . . . 本文を読む
ハーバード大に学ぶ日本人が少なくなった、支那人の方が多くなったと同大の女性学長がこの春、日本にやってきて言った。そこの留学生数で国のレベルが決まるみたいな口ぶりだが、さてそんな立派な大学なのか。早い話、そこの先生だ。その一人、ヘンリー・ゲーツ教授が「米国は黒人奴隷問題を恥じる必要はない」とニューヨーク・タイムズに書いていた。読んでびっくりだ。だって黒人奴隷はアフリカ人が売っていた。米国人はただそれを買っただけだと。覚醒剤は持っているけど悪いのは上野で売っていたイラン人だというのと似てないか。 . . . 本文を読む
これがどうして私が議論に負け、尻尾を巻いて逃げ出したことになるのか。角栄が金を受け取ったかどうかは当人と、それを取り調べている検察側しか主張できない。第三者にはっきり分かるのは、明々白々の憲法の規定が裁判所によってなぜか蹂躙(じゅうりん)されていたことなのだ。 . . . 本文を読む
米中貿易戦争の真っ只中にいるトランプ大統領は、何とかして中国企業の息の根を止めたくて仕方がありません。だから、中国に深入りし過ぎたソフトバンクに、もっともっと危ない商品を買わせたい。ソフトバンクにハイリスク商品を買わせることについて、ウォール街とトランプ政権の利害は、見事に一致するのです。 . . . 本文を読む
そして99年、ついに彼らの悲願が叶えられる時がやってきました。ビル・クリントン大統領が署名した「グラム・リーチ・ブライリー法(GLB法)」という法律によって、暗黒の水曜日の再来を防ぐために銀行の預金部門と投資部門を切り離していた規制が、とうとう取り払われたのです。まさに、「強欲資本主義元年」が幕を開けた瞬間でした。「金融工学」という、カネがカネを生むモラルなき錬金術が崇(あが)められる世界、かつて大恐慌前にアメリカを覆っていた狂気が、クリントンによって再び息を吹き返したのです。 . . . 本文を読む
米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。 . . . 本文を読む
おそらく、智力に秀でて賢明な横田喜三郎は時間をかけて世界のさまざまな類例をじっくり観察する手間をはぶいて、その明敏にして聡明きわまる頭の中で「てっていした民主主義」という、この世にない理想形態を「えいやっ」とばかりひねりだしたにちがいありません。なぜなら、ごく普通の常識で考えた場合、横田喜三郎のこの論理は成りたたないのです。 . . . 本文を読む
「東京裁判(とうきょうさいばん)」とは儀式化した復讐劇(ふくしゅうげき)であると言っていい。この裁判は戦争の勝者が既存(きそん)の法律によらずに敗者を裁(さば)いた一方的なものであって、その正当性からして疑わしい。 . . . 本文を読む
私は現実に関するテーマであれば、一般的抽象的論議よりも前に、たった一つの具体的で、個別の現実を解決することがなによりも大切だと考える。一つでもいい、現実を動かすことが緊急である。指をくわえて悪口だけを言っていても仕方がない。一歩でも前進させることが肝要だ。日本の知識人にはそのようなリアリスティックな思考力が欠けているとは、むかし田中美知太郎先生が口癖のようにおっしゃっていた。 . . . 本文を読む
生まれつき丈夫な人間が健康に無関心であるように、私たちは日本社会の統合という問題に無関心で来た。多くの人種、多くの言語、多くの宗教……という遠心的な諸力を抱え込み、しかも他国と地続きの諸外国では、片時も統合の問題から眼を離すことが出来ないのに、一つの人種、一つの言語、一つの無宗教、島国という恵まれた条件の下で、私たちは、統合は天然(てんねん)現象であるかのように考えてきた。 . . . 本文を読む