電脳筆写『 心超臨界 』

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( L・ヒューズ )

悪魔の思想 《 横田喜三郎――皇室弾劾の論拠――「てっていした民主主義」/谷沢永一 》

2024-08-10 | 04-歴史・文化・社会
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おそらく、智力に秀でて賢明な横田喜三郎は時間をかけて世界のさまざまな類例をじっくり観察する手間をはぶいて、その明敏にして聡明きわまる頭の中で「てっていした民主主義」という、この世にない理想形態を「えいやっ」とばかりひねりだしたにちがいありません。なぜなら、ごく普通の常識で考えた場合、横田喜三郎のこの論理は成りたたないのです。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p138 )
反日的日本人第1号・横田喜三郎(よこたきさぶろう)への告発状
第5章 栄達のため、法の精神を蹂躙(じゅうりん)した男

  横田喜三郎
  明治29年生まれ、東京帝大卒。東大教授、最高裁長官を歴任。昭
  和56年、文化勲章受賞。“東京裁判史観”の初代煽動者。平成5
  年没。

  東京裁判は無理矢理に行なわれた私刑(リンチ)でした。基準とすべ
  き拠(よ)るべき法律がなかったからです。開廷を命じたマッカーサ
  ーはのちに帰国したとき、東京裁判は間違いだったと証言しました。
  しかるに、その違法であり無法である東京裁判を、これこそ正当で
  あると全面的に支援し、そのためにあらゆる屁理屈(へりくつ)を総
  動員して、東京裁判を神聖化し合理化しようと努めたのが横田喜三
  郎です。進駐軍に身をすり寄せて阿(おもね)った第1号がこの東京
  帝国大学法学部教授でした。

5-11 皇室弾劾の論拠――「てっていした民主主義」

横田喜三郎のその著作は『戦争の放棄』(昭和22年10月20日・国立書院)です。その第1章には次のように記されています。

  民主主義のてっていという点から見れば、日本の新憲法などは、ま
  だまだ不十分であり、微温的というべきものである。一つの例をあ
  げてみれば、天皇制を維持したこと、つまり君主制を保存したこと
  がそうである。天皇が君主であるということは、いうまでもない。
  しかし、君主の存在は、てっていした民主主義とは、あいいれない
  ものである。君主は人民に対立するもので、人民に対して特別な地
  位に立ち、特別な身分を有し、また特別な権限を有する。しかも、
  君主は一般に世襲である。すくなくとも、天皇は世襲である。かよ
  うに、特定の人が世襲によって特別な地位、身分、権利を有するこ
  とは、民主主義の根本理念に反する。けだし、民主主義の根本理念
  は平等ということにある。いっさいの人が平等なものと認められ、
  平等な機会を与えられ、平等な権利と義務を有することにある。
                   (『戦争の放棄』6頁~7頁)

昭和22年という時点において、日本をのぞく世界中の一国のこらず例外なく「てっていした民主主義」を施行していたはずはありませんから、つまり、「てっていした民主主義」は、世界史のある時期においてのみ、特定のごくわずか少数の国々だけに出現していたにちがいありませんから、それはいつの頃の、どこの国と、どこの国との事例ですかと聞きかえさなければ話が前に進みません。しかし、そういう具体に徹した教えを乞う丁寧な会釈(えしゃく)は、横田喜三郎にとって最も望ましくない迷惑な質問でありましょう。

おそらく、智力に秀でて賢明な横田喜三郎は時間をかけて世界のさまざまな類例をじっくり観察する手間をはぶいて、その明敏にして聡明きわまる頭の中で「てっていした民主主義」という、この世にない理想形態を「えいやっ」とばかりひねりだしたにちがいありません。なぜなら、ごく普通の常識で考えた場合、横田喜三郎のこの論理は成りたたないのです。

通常の民主主義は、それほどかたくなに定義する必要のない漠然とした政体であり、融通無碍に運用される多様性(ヴァラエティ)のある組織であること言うまでもありません。

民主主義とはかくあるべしなどという細則を定めた厳格な世界憲法があるわけではなく、その国その国の独自な伝統にしたがって、個性的に施行されます。イギリスや、オランダ、デンマーク、タイ、ベルギーなどのように王室を戴いている民主主義国家もあって、君主と民主主義は両立していますよね。大統領制もその国によりけりで、アメリカのように強い権限を持つ国もあれば、フランスやドイツのようにお飾り帽子(シャッポ)の国もあるという次第で、一概に言えません。

こういう具体例にわずらわされないために、横田喜三郎の考えだした決め手言葉が「てってい」です。この、いくらでも極端にふくらませることのできる「てっていした民主主義」という概念に照らして、やっとのこと天皇制否定の論理が紡ぎだされるという仕掛けです。横田喜三郎の進んで認めるところによれば、民主主義にも「てってい」もあれば、また「微温的」もあり、そして、おそらくその中間になおいくつもの段階があるのでしょう。

そのように、世の中のいろいろ国柄さまざまであるのなら、あまりにも熱すぎる湯はむしろ体に毒でしょうから、わが国は健康に適した「微温的」でゆくのも、これまた結構じゃありますまいか。アメリカは大統領制の民主主義、イギリスは王室のもとの民主主義、わが国は皇室を戴く民主主義、それぞれ国情に即した方針を採ればいいでしょう。世界史に関する横田喜三郎の該博な薀蓄(うんちく)によれば、他国では「君主は人民に対立するもの」だそうですが、わが国では、皇室が国民に「対立」した事例がないことをお忘れなきよう願いたいものです。

横田喜三郎によれば「いっさいの人が平等」であることがいたって望ましいのだそうでしょうけれども、わが国の特殊性は皇室を別格として「いっさいの人が平等」という社会構造です。それによって、国民がなにか大きく被害を蒙ってきましたかね。そして、その意味で「平等」な国民の絶対多数は皇室を崇敬しております。この国民感情を横田喜三郎は断乎として無視しようとするのでしょうか。

日本人への論難と、攻撃と、糾明と、弾劾の愛想尽かし へつづく
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