今朝見た夢のメモ。そこはどこかの大学(?)の大教室で、席にぎっしりと老若男女の聴講生が座っている。それぞれの机には数枚に亘って文字と譜例で埋められた詳細なレジュメが乗っている。やがて教壇に、若々しい足取りの作曲家別宮貞雄先生が登壇。講義タイトルは《わが音楽人生》。先生は、〈まずは聴いてください〉と言われて、人生最初に作られたというピアノ曲のレコードを教室に流され、解説された。そのあと、〈今回は主に映画音楽作品の話をします〉と仰有り、手掛けられた映画音楽作品について、映像を伴って詳しく解説を加えられて行った。。という夢を見た。先生のお話はすごく具体的で、じつに興味深く面白かった。
寝床から起き出してから、しごとに出掛ける前はひたすら、トマ作曲オペラ『ミニョン』の美しいアリア〈君よ知るや南の国〉で心の洗濯。歌唱の入る主要部もよいけれども、前奏部分が本当に素敵だ。今日もこれからしごとなれば、もはや時間なし。〈欠詠〉するよりかはまだましか。。
ブルネグロのお城前なる風船屋 《春の谷》から通ひてをりぬ
《春の谷》はメロンパン産地 太古より王党派びと棲む
《春の谷》公会堂前《幼き姫さま自転車初乗り》の像
女系王制反対派ミラレス執政官茶色い車でお城へ入る
お城の空 青き風船にこつそりとパセリ型発信器とゴマ式カメラ
短歌メモ七首。(歌誌『塔』3月号掲載)
和蘭水夫ら維納(ウィーン)酒場にて〈ジパングは仙人薬草と黄金の國〉と喚きてをりぬ
耳疾にて悩みてをれば〈仙人薬草〉に飛び付きぬ 作曲家は和蘭水夫捕まへて
和蘭の港にて船に乗り込みぬ 皮革(かは)鞄には真つ新(さら)な五線紙の束、束
作曲家は長崎奉行所の一室に閉ぢ込められたり 五面の筝と
〈交響曲〉を五面の筝用に書き直すのに三日掛かりぬ あの作曲家は
作曲家は将軍さまに謁見賜りぬ 江戸郊外川崎の里に邸宅も得て
仙人薬草は川崎にてひそかに栽培されてをり、と将軍さまはひそと小声で
昨晩は結局、一首も出来なかった。今朝、しごとの前に逆立ちするようにして漸く一首だけ絞り出した。あとは、いかに王党派《メロン》を絡めていくか、だ。
ブルネグロのお城の前の風船屋 《春の谷》から通つて来てをり
しごとから帰って来て、チラシを裏返して短歌十首をそこになんとか書き付けようとペンを持つもコソリともカサリともそよがずさやがず、目の前の空中を睨み付けて一言半句を物質化させガサリと掬いとるしかないかと、ペンを匙に持ち替えて待つも、春めいてゴールデンウィーク並みの陽気の窓の外の夕闇を、もはや季節外れの石焼き芋軽トラックが気だるく〈いーしやきーもー〉という声を流して通り過ぎていった。と、チラシ裏に書いてみる。本当は短歌を詠みたくて机に向かったのだが、小説書き出しのような一文がふと浮かんだわけだ。石焼き芋のところは、遠藤周作氏の『深い河』から借用した。
しごとの前。今朝は、先日亡くなられた礒山雅先生追悼の先生ご出演の再放送ラジオ番組にしづかに耳を傾けた。先生は、1月27日の昼間に埼玉県久喜で行われた合唱コンクールの審査員を務められ、その帰路、都内の路上で積雪に足を滑らせ転倒、後頭部強打、病院に緊急搬送されるも約1ヶ月余り意識戻られることなく入院を続けられて亡くなられたという。あらためて合掌。
昔は、作るからには時代を経ても残っていくようなよい作品を作ることがとにかく大事で、あれこれ筆名をいじくるのは愚の骨頂、なんて嘯いていたが、最近、これまで本名で作品を作られていた方が筆名にされる例をいくつか目にし、成る程その名前も良いなと思い、自分だったら泰明や泰夫という名を筆名に名乗りたいなと漠然と思い始めた。なんというか、心変わりというものかもしれない。そういうわけで、ささやかな筆名を、折に触れてすこし考えてみようかなと思っている。
昨日は、昼間、青山墓地のお墓におまいりした。この墓は青山墓地ができたときに高祖父が建てた分家墓で、曾祖父の曾祖母、曾祖父母、曾祖父の姉弟、祖父たちが眠っている。墓は一種の通信所と思っている。いつも見守って下さっていることへの感謝を伝えた。
ちっとも望んだことではないのだけれども。職場にmonsterのように生意気なタメ語で話す新人が来てこちらは教えなければならなくなって教えているけれども、ちっともわかってくれなくてこちらもいらいらしてきてついついきついことばを吐いてしまう。約束ごととして、ことばはブーメランとなって私に戻って来るものだから、ここのところの精神的な疲れはこれまでになくひどい。ぐったりだ。とはいえ、〈教えること〉がたしかに私にさまざまな知恵や気付きを与えてくれるのは事実。それは有難いと思うのだが。疲れる。
〈以下、引用部分〉
慶応四年三月十六日、甲府から戻った新選組が浅草今戸の銭座を引き払って布陣していた五兵衛新田を、勝海舟配下の軍事方の一人、松濤権之丞が訪れています。
この松濤は田安家の臣で、幕府内部の恭順工作を担当していたのだけれども、その彼に五兵衛新田を訪れる前日、勝から書面を持って以下の命令が達せられている。
急便を以て申入れ候。さて船橋・松戸・流山辺へ脱走の者、甚だ多勢相集まり居る候旨、粉々相聞え候。猶亦(なおまた)御尽力、精々取締り方、然るべく候。尤も官軍も追々入府(江戸入り)従って御処置振り相貫き、条理相立ち、聊(いささか)も不審の廉(かど)これ無く候様、呉々も御取り斗らい然るべく候。若(もし)万一炮器(ほうき)等持参の者もこれ有り候はば取揚げ置き、自民へ対し暴挙これ無く、手に余り候はばひそかに召捕り御処置等も苦しからず、御恭順の処へ対し軽挙これ有り或いは殺伐の事これ無き様、呉々も御心得専一に存じ候。右再応申入れ候。
頓首
三月十五日
安房
権之丞殿其外御出役衆
書面にある船橋、松戸、流山はいずれも代官支配地で、多くの領民が幕府歩兵に徴発され、長州征伐のさいは、地域の豪商から多くの献金がなされた。
このような土壌の特性が脱走兵の温床となっており、これらが軽挙をしないように鎮撫せよと、勝は松濤に命じているんですよ。
つまり、近藤は松濤から船橋・松戸・流山辺に跋扈する脱走兵取締りの協力を要請され、これに応じて流山へ陣を張った。
ところが四月三日、流山において近藤が香川敬三率いる東山道先鋒総督府軍宇都宮斥候隊によって身柄が拘束され、板橋の本営に連行されてしまう。
そして、松濤が板橋本営に連行された近藤勇へ宛て、
昨日は不慮の事件、御察し申し候。就いては江戸御趣意の旨、御同様、異心なき趣、御演舌の由、承知仕り候間、勝房州よりの達書、御待ち具し候いて確証を以って十分に仰せ立てられ候様仕りたく、別紙は房州(勝)の直書に付き分明相分り申すべく候。此の段、取り急ぎ
粛白
(慶応四年四月)四日
大久保大和(近藤勇)様
松濤権之丞
御所一披
という書簡を認め、先の三月十五日に勝から下された船橋・松戸・流山辺に跋扈する脱走兵取締りの命令書とともに新選組隊士相馬主計に届けさせた。
近藤に、江戸(恭順派)の方針通りに脱走兵の鎮撫に努めていたのだと、勝から達せられた命令書をもって押し通せと奨めているんですよ。
ただ、土方歳三が勝の元を訪れて流山の顛末を語ったのが四日であり、松濤が認めた手紙の日付も四日。
したがって、手紙と勝からの命令書を相馬をもって板橋の東山道先鋒総督府軍本営板橋本営に届けさせたのは、松濤の独断と考えるのが妥当。
つまり、勝はかかわっていない。
もっとも、板橋本営では大久保大和が近藤勇であることがすでに看破されており、流山から付き添っていた野村利三郎とともに、相馬も東山道先鋒総督府軍によって捕縛され、松濤の苦肉の策も水泡にきっしてしまったんですけど。
補足
慶応四年四月三日、下総流山の陣を東山道鎮撫総督府軍の宇都宮斥侯隊に包囲された近藤は、投降したというのが通説。
しかし投降したのではなく、「流山へ布陣している理由を問い質すから越谷本営まで出頭するよう」求められ、これに応じたんです。
このとき、宇都宮斥侯隊は流山に布陣しているのが新選組だとは知らず、近藤も旧幕臣・大久保大和として野村利三郎と村上三郎を従え同行するのですが、越谷本営に着いたさい、「大久保大和守は近藤勇ではないか」と言い出す者が現れた。
それは、彦根一小隊隊長の渡辺九郎左衛門で、彼は京都で近藤を見知っていたんですよ。
これにより、近藤は板橋の総督府に連行されるのだけれども、このさい土方以下を落とすように言い含め、村上を流山へ返した。
そして、この翌日に土方が勝の元を訪れ流山の顛末を語った。
土方が勝の元を訪れた正にこの日、越谷から板橋本営に身柄を移された近藤は、新政府の探索方として従軍していた元御陵衛士の加納鷲雄と武川直衛によって、「大久保大和守は近藤勇」であると看破され、捕縛されてしまったんです。
〈引用部分、以上〉