カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

再アップ記事(茄子の短歌)

2008-04-30 12:30:17 | Weblog
 メモ。再アップします。。。

2007年8月25日の日記より:茄子と死・その2
http://blog.goo.ne.jp/be-toven/e/f88da0aa51992aadff7ebaf39e935296

 先日、堂園さんと吉川さんのうたを一首ずつ引いて「茄子と死」という日記を少し書き付けました。その追記です。

<前回の日記から>
 短歌研究新人賞候補作の欄に目を移すと、作者名に知っている方の名前がちらほら散見され、これまた興味深いです。。候補作のなかから、堂園さんの『やがて秋茄子へと到る』の一首を引かせて頂きます。茄子と死が素材として詠まれていて私の目を引きました。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦

 茄子と死。吉川宏志さんの第二歌集『夜光』(2000年刊行)に、次のような一首があります。

死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り  吉川宏志

 堂園さんの一首は、吉川さんの一首を踏まえたものなのか、あるいはそうではないのか、その辺りのことはわかりませんが、茄子と死、これらふたつの関連がふたりの歌人に詠まれたということが興味深いです。

<以下は今回の日記>
 吉川さんの「死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り」のうたは、歌集『夜光』の中の「茄子の花」というタイトルの一連にあります。このうたの前には、

朝の蝉 安藤美保の事故死せし比叡の見ゆる町に暮らしつ  吉川宏志

の一首が置かれています。安藤さんは、大学院の夏の研究旅行で比良山を登山中、不慮の転落事故で亡くなられたのでしたが、まだ二十代前半というお年でした。亡くなられた後に遺歌集として歌集『水の粒子』が編まれました。とにかくうたをはじめとして文学に関する才能とセンスの非常に豊かな方だったようです。吉川さんの一首の「死ぬことを考えながら人は死ぬ」のセンテンスには、頭を強打して意識不明のまま亡くなられた安藤さんへの追悼の思いがつよく込められているように感じられます。

 ***

<2008年4月30日の日記>

 あらためて、堂園さんの秋茄子のうたを鑑賞してみたいと思います。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦

 日ごろから茄子を使った料理が大好物の私は、「いつの季節でも茄子は大層美味」と思っている口ですが、世間では古来より「秋茄子は嫁に食わすな」という言い習わしがあるほど(注1)、秋の茄子の実はことに充実していて美味しいと言われています。 それだけに、堂園さんのうたの「秋茄子」は、「生命力の横溢」の象徴としてのとくべつな「秋茄子」なのではないかと思います。そんな丸々と実った茄子を両手に持って秋の日差しに当てて光らせながら、作中主体は、こんなに生命力にあふれている茄子であり僕たちなのに、死んでしまうのはなぜだろう? と立ち止まって考えています。普通に生きていると、私たちは自分が今この瞬間にも死んでしまうかもしれない儚い存在のひとつであることをついつい忘れてしまいがちですが、思いがけないところで「死」を思い出すと、そのあまりの深さと暗さに思わず立ち止まってしまいます。

 堂園さんのうたは、そんな「死ぬ」という事実をあらためて読み手に突きつけてきます。

 惹かれる一首です。

(注1)出典:Wikipedia「ナス」より。
この言葉は「秋茄子わささの糟に漬けまぜて 嫁には呉れじ棚に置くとも(夫木和歌抄)」という歌が元になっており、嫁を憎む姑の心境を示しているという説がある。
また、「茄子は性寒利、多食すれば必ず腹痛下痢す。女人はよく子宮を傷ふ(養生訓)」などから、嫁の体を案じた言葉だという説もある。
さらに、そもそも「嫁には呉れじ」の「嫁」とは「嫁が君(ネズミのこと)」の略であり、それを嫁・姑の「嫁」と解するのは後世に生じた誤解であるとする説がある(『広辞苑』第三版、「あきなすび」の項)。しかし「嫁が君」は正月三が日に出てくるネズミを忌んで言う言葉であり、「秋茄子わささの~」の解としては(季節が合わず)やや疑問ではある。
コメント
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