映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

セトウツミ

2016年07月16日 | 邦画(16年)
セトウツミ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判の若手俳優の2人が出演する作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、運河を走る船から見られる景色が次々と映し出された後(注2)、暗転して、整備された河川敷に設けられている横に長い階段に学ランを着た高校2年生の2人が座っています(注3)。
 そして、「第1話 セトとウツミ」の字幕。

 2人のうちの一人、瀬戸菅田将暉)が「明日からのテスト嫌やな」と言うと、もう一人の内海池松壮亮)が「暑いな、5月やのに」と応じます。
 以下二人の会話。

 瀬戸「このポテト、長ない?」、「こんなジャガイモあるか!」。
 内海「あるやろ、別に」。
 瀬戸「暑いな」。
 内海「もうすぐ塾行かな。お前はええな、大学行けへんのやろ。行かれへんのか?」。
 瀬戸「お前は人を見下してる。全員アホに見えてんのやろ」、「この間も鳴山に言われたろ」。

 鳴山成田瑛基)が、内海に「お前の顔付きが嫌や」と言う場面が挿入されます。



 瀬戸「顔に出ている。人を小馬鹿にしてる」、「笑ってる」。
 内海「元々こんな顔や」。
 瀬戸「神妙な面持ちをしてみろ」。
 内海は、神妙な顔をします。
 瀬戸「笑ってる!」
 今度は内海が瀬戸に要求しますが、どっちもどっち。
 瀬戸「俺が深刻な話をするから、神妙になれや」。
 内海「ええよ」。
 瀬戸「ウチで買っている猫のミーニャンの具合が悪くなって、医者に聞いたら、余命わずかだから好きなモノ食べさせてと言われた。それでオカンがいいモノ食わせたら、2年以上生きてる。これがキッカケで、ウチの親、今度離婚する」。
 内海の顔を見て、瀬戸が「さっきよりニヤけてる」。

 こんな調子で2人の会話は続いていきますが、さあどうなるのでしょう、………?

 本作は、同名の漫画を実写化した作品。瀬戸と内海という2人の高校生が、放課後の暇な時間にいつもの場所でいつものようにダベ゙っている姿を映し出している75分の映画。構成する8話それぞれはゆるくストーリがあり、全体としてもなんとなく物語があるように思えますが、印象に残るのは何しろ二人の他愛のない関西弁の喋り。それだけながら、何とも言えない味わいが醸し出されており、さらには人間のリアルな一面が鋭くえぐり取られているようにも思えてくるのですから不思議な作品です。

(2)映画を見終わって、この映画と原作はどんなふうに違っているのか興味が湧いてきました。というよりも、こんなことを描いているマンガが本当に存在するのか、少々疑問に思えたところです。それで、とりあえず第1巻を購入して読んでみました。

 すると、驚いたことに、映画は原作のマンガそっくりなのです!まるで映画の絵コンテを見ているような感じでした(もちろん、絵の出来上がり具合は、殴り書きの絵コンテとは比べ物になりませんが)。特に、描かれている大部分が、階段に座って2人が喋っている姿であり、動きが極端に少ないために、本作と原作マンガの類似性が高まるように感じられます。



 と言っても、当然のことながら、ソコソコ異なってはいます。
 例えば、冒頭の瀬戸の台詞「明日からのテスト嫌やな」に対する内海の台詞ですが、本作では、上記(1)に書いたように「暑いな、5月やのに」とされているのに対し、マンガでは「暑いしなぁ」となっていて、瀬戸の台詞に対する関連付けがはっきりしています。
 他方、第1話のラストでは、父親に会った鳴山が「父さん、今までありがとう」と言うのですが、それを見ている内海の顔付きを見て、本作の瀬戸は「メチャ神妙な面持ちやで」と内海に向かって言い、内海も瀬戸に「おまえもな」と言い返しますが、マンガではそうした2人の台詞は書き込まれておりません。
 それに、本作では、上記(1)で書いたように、内海に「お前の顔付きが嫌や」と鳴山が言う場面がきちんと回想風に挿入されますが、マンガでそれに対応するのはほんの1コマに過ぎません。

 これらは、映画とマンガの作り方の違いから来ているものでしょう(注4)。
 さらに言えば、マンガの一つ一つのコマ割りと、映画で対応するそれぞれのショットも、細かく見ていくと違っているものと思います。
 それに、マンガが基本的にモノクロなのに対し本作はカラーですし、また2人が座る階段の後ろは車の行き交う道路であり、本作ではそうした車の音などもふんだんに取り入れられています(注5)。

 こうしたことから、マンガはマンガであり、映画は映画だな、と今更ながら気が付くこととなり、その点からも、本作を見たのは意味あることだったなと思っています。

 つまらない問題点を挙げてみましょう。
 本作の大部分は階段に座った2人の会話とはいえ、その2人以外の登場人物がいないわけではありません。
 例えば、上記(1)にも登場する先輩の鳴山です。また、徘徊老人となっている瀬戸の祖父(牧口元美)も現れます。
 ですが、一番に挙げるべきは、お寺の住職の娘の樫村一期中条あやみ)でしょう。なにしろ、彼女は内海を憎からず思っているものの、内海は無視し続け、逆に瀬戸が恋しているのに彼女は瀬戸を無視するのですから。
 こうした人達によって、本作にいろいろな綾がつけられもします。
 ただ、ピエロの格好をしたバルーンアーティストのバルーンさん(宇野祥平)については(注6)、本作で流れる音楽がタンゴという点(注7)と合わさって、映画を見ている者に、“人生哀歌だな”といった箸にも棒にもかからないつまらない想いを引き起こしかねず、目くじらを立てるほどのことはありませんが、なくもがなと思えてしまいます。

 それと、瀬戸と内海を演じる菅田将暉と池松壮亮ですが、この2人に優る若手俳優は見当たらず、まして本作において2人とも素晴らしい演技を披露しているので問題はないとはいえ、23歳の菅田と26歳の池松では(特に池松の場合)、いくらなんでも高校生というのは無理筋ではないかと思えるところです(注8)。

(3)渡まち子氏は、「大きな事件は起こらない。激しいケンカなどのアクションもなければ、障害を乗り越える情熱的な恋愛もない。そんなユルい物語がめっぽう面白いのだから、映画というのは見てみないとわからないのだ」として80点をつけています。
 山根貞男氏は、「全体が75分。シンプルな設定のもと、17歳の青春をめぐる状況が、ユーモラスに切実に描き出されるのである。こんな青春映画はめったになかろう」と述べています。



(注1)監督は、『まほろ駅前狂騒曲』や『さよなら渓谷』などの大森立嗣
 原作は、此元和津也氏のマンガ『セトウツミ』(秋田書店)。

 なお、出演者の内、最近では、池松壮亮は『無伴奏』、菅田将暉は『二重生活』で、それぞれ見ました。

(注2)このサイトの記事によれば、堺を巡る観光船「観濠クルーズ」での景色とのこと。東京暮らしのクマネズミは、最初のうちは、お台場周辺のウォーターフロントの景色ではないかと思ってしまいました。

(注3)上記「注3」の記事によれば、大阪府堺市の「ザビエル公園」前の「内川」とのこと。

(注4)本作の第1話のラストですが、それに対応する原作マンガの場面では、2人の神妙な顔が大きく描かれているだけです。とはいえ、その前に2度ほど描かれている“神妙な面持ち”にうまく関連付けられて描かれているため、特段の説明抜きで十分に意味を持ってきます。
 他方、映画で“神妙な面持ち”の呼応関係を維持するのは、出来なくはないでしょうが難しいように思えます。それで、説明する台詞を入れたのだと想像されます。

(注5)原作マンガの冒頭の「マジ雲は必ず雨」では、瀬戸が何か喋ると、オートバイの騒音「ブオオオオオ」が重なって聞こえなかった内海が、「えっ」と聞き返します。それで、瀬戸が「こないだ親知らず抜いた」ともう一度言うと、内海は「二度聞き史上、一番しょうもなかったわ」と応じます。

(注6)バルーンさんは、映画では第6話の「出会いと別れ」に登場しますが、原作マンガでは第1話「ムカーとスッキリ」から登場しています(なお、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事によれば、宇野は「大森監督から「ベラルーシ人として演ってくれ」と言われました」と述べています)。



(注7)この記事によれば、大森監督は、「音楽って、映画の様相を変えちゃうくらい強いものなので、明るいけれど、少しだけ憂いみたいなものが出るといいなと思っていたら、なんとなくタンゴが浮かんだ」と語っています。

(注8)20歳前の俳優が瀬戸と内海役を演ってみたらどんな感じになるのか興味深いとはいえ(ちなみに、樫村役の中条あやみは19歳です!)、そのような作品に一般人がアクセスするのは難しいことでしょう(制作されたとしても、期間限定の深夜興行になるのがせいぜいでしょうから)。



★★★★☆☆




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