『沈黙-サイレンス-』を吉祥寺オデヲンで見ました。
(1)予告編を見て映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、暗闇の中でしばらく虫の声がします(注2)。
その後タイトルが流れて、熱湯が地下から湧き出ているところ(雲仙地獄)のそばで、キリシタンに対する拷問が行われている光景が映し出されます。
時代は1633年。
侍姿の役人が「どうしてゼウスが助けにこないんだ?」と言ったり、「始めろ」と部下に命じて、キリシタンに熱湯を柄杓で浴びせかけたりします。
その光景を無理やり見せられている神父のフェレイラ(注3:リーアム・ニーソン)が語ります。
「我々の布教は迫害の中で潰えてしまった」、「柄杓に穴を開けて、熱湯が少しずつ流れるようにして、苦痛を長引かせる」、「信者たちは棄教を拒み、むしろ拷問を受けることを求めた」、「彼らの勇気は、潜伏する神父に希望を与えた」。
次いで、1640年のマカオ。
フェレイラ神父からの手紙を読むヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)。「フェレイラの消息は不明だ。これが最後の手紙だ」と言います。
ロドリゴ神父(注4:アンドリュー・ガーフィールド)が「不明とは?」と尋ねると、ヴァリニャーノ神父は「この手紙は、何年もかかってようやくここに届いた」と答え、さらにロドリゴ神父が「彼は生きているのでは?」と問うと、ヴァリニャーノ神父は「彼は棄教したそうだ」と言います。
それを聞いたもう一人の神父のガルペ(アダム・ドライヴァー)は「ありえません」と言い、ロドリゴ神父も「師は誰よりも強い方です」と言います。
さらに、ヴァリニャーノ神父が「棄教したのは事実だと判断している」と言うと、ガルペ神父は「我々を欺くための嘘かもしれません」と付け加え、ロドリゴ神父は「フェレイラ神父を探しに行かなくてはならない」と呟きます。
これに対して、ヴァリニャーノ神父が「そんなことは許可できない」と答えると、ロドリゴ神父は「手紙は恐ろしいことしか書かれていない。フェレイラ神父の身がどうなっているのかはわからない」、「彼の魂を救出する以外の選択肢はありえない」と許可を求めます。
ついに、ヴァリニャーノ神父は「君たちが日本に入る最後の神父だ」と言って、認めます。
こうして、ロドリゴ神父とガルペ神父は日本に向かいますが、彼らの運命はどうなるのでしょう、………?
本作は、遠藤周作の原作をハリウッドの著名監督が映画化したものながら、江戸時代初期の日本の有様を、日本人が見ても余り違和感なしに見ることができる作品ではないかと思いました。ただ、キリスト教布教のために日本にやってきたイエズス会神父を主人公として、信仰とは何か、神とは何か、などといったことを追求しているために、クマネズミのような無宗教の人間が見た場合に、本作をどう受け止めたら良いのか、なぜ今こうした映画が制作されるのか、など疑問に思えるところが出てきます。それにしても、出演する日本の俳優は実によく演っているなと感心しました。
(2)本作の公式サイトの「プロダクションノート」の「ロケハン」で、スコセッシ監督が「台湾は、(舞台となる長崎に)地形的に似ていたし、天候も似ていました。山や海のそばの景色は我々が求めていたものでした」と述べているとあるように、本作は、日本ではなく、台湾におけるロケで制作されたものです。
にもかかわらず、映画の雰囲気は、まさに江戸初期の日本を思わせるものが作り出されているように感じました。
さらに、本作に登場する浅野忠信以下の日本人俳優の演技が、それぞれ登場人物の役柄にピッタリとはまり込んでいるので、まるで邦画を見ているような感じとなり、見ていて違和感を覚えませんでした。
特に、キチジロー役の窪塚洋介や井上筑後守に扮したイッセー尾形の説得力ある演技はすごいなと思いました。
総じて言えば、2時間半を超える長尺ながら、最後まで引き込まれてしまいました。
ただ、クマネズミは特定の宗派に属していないいわゆる無宗教派ですので、本作のあれこれについてよくわからない感じがつきまとってきてしまいます。
例えば、
イ)「踏み絵」ですが、どうしてこれがキリシタンであるかどうか選別するための道具になるのか、実際のところよくわからない感じがします。
よくは知りませんが、江戸時代の日本以外の国や地域でこうしたことが行われたとは思われません。どうして当時の日本の信徒たちだけが、真のキリシタンなら踏み絵を踏んではならないなどと考えたのでしょうか(注5)?
本作でも、キチジローの家族は、どうしても踏み絵を踏まなかったためにキリシタンだと判定されて、火あぶりの刑などを課せられたりします(注6)。
でも、こんな外形的なことにどうして信徒たちは酷く拘ったのでしょうか?
本作からすると、キリシタンを取り締まった役人たちの方も、踏み絵自体にそれほど重きをおいてはいないような気もしますが、どうなのでしょう(注7)?
ロ)キリシタン弾圧のトップだった井上筑後守(注8)は、大変狡猾な人間として描かれ、キリシタンを一人一人捕まえることよりも、むしろ外国からやってきて潜伏している神父を捕まえて、皆の前で転向させること(「転びバテレン」)を重視します(注9)。
そして、井上は、フェレイラ神父やロドリゴ神父を転向させますが、ロドリゴ神父に対し、「キリスト教は「石女」であり、子を産めず、妻になれん」、「醜女の深情ほど嫌なものはない」、「沼地には何も育たない」、「お前が持ち込んだものは、日本で得体のしれぬものに変わった」、「お前は私に負けたのではない。日本という沼地に負けたのだ」などと言います。
ただ、日本の状況が井上の言うとおりであるとすれば、特段に危険視して厳しい弾圧などせずとも放っておけば、キリスト教は自ずと実害のないものになっていったのではないかと思われますが、どうなのでしょう(注10)?
ハ)本作は、原作の遠藤周作の小説をかなり忠実に映画化しているように思われます。
ただ、ラストの部分で本作は、原作と比べて、かなり西欧的な物語(注11)になってしまっているようにも思われます。
原作小説のラストは「切支丹屋敷役人日記」とされ、岡田三右衛門となったロドリゴ神父が64歳で亡くなったことが候文で完結に記載されているに過ぎませんが、本作では、それが映像化されるだけでなく、ロドリゴ神父が死ぬまでその内面では棄教していなかったことが示されます。
ただ、本作のラストの画面のようにすれば、確かにわかりやすいとは言え、本作の始の方で、日本の隠れキリシタンは形あるものを信仰の証にしたがっていると批判的に言われていることからしたら、ロドリゴ神父の信仰も、かなり日本的に変質してしまったのではないかとも考えられるところですが、どうなのでしょうか?
とはいえ、本作はハリウッド映画であり、エンターテインメント作品ながらも、大層重厚に作られており、見る者にあれこれ考えさせる要素をたくさん抱えていて、それだけでも評価するに値するように思ったところです。
(3)渡まち子氏は、「体重を落として壮絶な姿を見せるモキチ役の塚本晋也の命がけの熱演や、狡猾でいながら真実を射抜く目を持ち清濁併せ持つ長崎奉行役のイッセー尾形の深みのある演技には、心を打たれた」などとして80点を付けています。
宇田川幸洋氏は、「「完全映画化」という宣伝文句をうたっても文句は出ないだろう。原作のストーリーに忠実で、かつ映画として見ごたえ十分の力作である」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
佐藤忠男氏は、「アメリカで映画にしたのだが、日本の風俗習慣などの描きかたの違和感は少なく、むしろ、外国人の見方の加わったところが新鮮で、感銘の深い作品になった」と述べています。
小林よしのり氏は、「ものすごく面白かった。3時間弱もの時間を、一回も緊張感を途切れさせず、食い入るように没入して見てしまった。スコセッシの熟練した力量に感心した」と述べています。
(注1)監督は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ヒューゴの不思議な発明』などのマーティン・スコセッシ。
脚本は、ジェイ・コックスとマーティン・スコセッシ。
原作は、遠藤周作著『沈黙』(新潮文庫)。
原題は「SILENCE」。
なお、出演者の内、最近では、アンドリュー・ガーフィールドは『わたしを離さないで』、リーアム・ニーソンは『スリーデイズ』、アダム・ドライバーは『ヤング・アダルト・ニューヨーク』、浅野忠信は『淵に立つ』、窪塚洋介は『Zアイランド』、塚本晋也は『SCOOP!』、小松菜奈は『バクマン。』、村人ジュアン役の加瀬亮は『アズミ・ハルコは行方不明』、笈田ヨシは『最後の忠臣蔵』で、それぞれ見ました。
また、イッセー尾形は『太陽』における昭和天皇役がとても印象的です(この拙エントリの「注5」をご覧ください)。
(注2)ラストでも同じように虫の声が。
(注3)実在の人物(この記事が参考になります)。
(注4)ロドリゴ神父のモデルになったのは、実在したジュゼッペ・キアラとされています。
(注5)トモギ村の人質になって捕らえられると決まっていたモキチ(塚本晋也)から、「踏み絵を踏めと役人に言われたらどうすれば?踏まないと村人が大変な目に合うだろう」と尋ねられた時、ロドリゴ神父は「踏めばいい」と答えますが、ガルペ神父は「そんなことはできない」と答えます。聖職者であっても、「踏み絵」に対する姿勢は異なってしまうようです。
(注6)キチジローは、家族と一緒にいた時も、またイチゾウ(笈田ヨシ)やモキチらとともにトモギ村の人質として捕らえられた時も、簡単に踏み絵を踏みます。ただ、彼は、「モキチも俺の家族も強かった。俺は弱い。弱い者の居場所はどこだ?」と言って、ロドリゴ神父に「告解」(confession:コンヒサン)をします。
でも、踏み絵を踏むか踏まないかで、人の強さ弱さが判定できるのでしょうか?
(注7)上記「注6」のイチゾウやモキチら(3人目の名前はわかりません)は、踏み絵を踏む時の態度が怪しいとして、十字架につばを吐くことや、「マリアは娼婦」と言いことを強要され、それができないために水磔の刑に処せられます。取り締まる役人の方も、踏み絵でキリシタンかどうかうまく選別できないことをよく知っていたようです。
なにしろ、役人が踏み絵に際して、「形だけのこと。端の方にチョット足を乗せるだけでよい」などと村人に言ったりするくらいなのですから。
(注8)実在の人物(この記事が参考になります)。
(注9)井上筑後守の部下の通辞(浅野忠信)も、大層賢そうな役人で、ロドリゴ神父がフェレイラ神父と同じように転向するであろうことを見抜きます。
(注10)実際には、Wikipediaのこの記事によれば、「1605年には、日本のキリシタン信徒は75万人にもなったといわれている」とのこと。
ただ、フェレイラ神父が、「ザビエルは、デウスを「大日」とした」とロドリゴ神父に語ったように(ただ、Wikipediaのこの記事によれば、「後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされ」て、使わなくなったようです)、隠れキリシタンたちが信じているキリスト教は、本来のものからかなり変質していたようです。
本作では、その他、隠れキリシタンたちが、信仰の証として形あるものを重視することや、洗礼の儀式で天国(パライソ)が出現すると信じること、「死ねば病気も年貢もない天国に行ける」と信じること〔捕らえられたモニカ(小松菜奈)が口にします〕、「告解(コンヒサン)」をすれば罪が消えると信じること(キチジロー)、などが変質している点として描かれているように思われます。
(注11)幾多の危難を乗り越えて一つの信念を貫き通した英雄譚とでも言うような。
★★★★☆☆
象のロケット:沈黙 サイレンス
(1)予告編を見て映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、暗闇の中でしばらく虫の声がします(注2)。
その後タイトルが流れて、熱湯が地下から湧き出ているところ(雲仙地獄)のそばで、キリシタンに対する拷問が行われている光景が映し出されます。
時代は1633年。
侍姿の役人が「どうしてゼウスが助けにこないんだ?」と言ったり、「始めろ」と部下に命じて、キリシタンに熱湯を柄杓で浴びせかけたりします。
その光景を無理やり見せられている神父のフェレイラ(注3:リーアム・ニーソン)が語ります。
「我々の布教は迫害の中で潰えてしまった」、「柄杓に穴を開けて、熱湯が少しずつ流れるようにして、苦痛を長引かせる」、「信者たちは棄教を拒み、むしろ拷問を受けることを求めた」、「彼らの勇気は、潜伏する神父に希望を与えた」。
次いで、1640年のマカオ。
フェレイラ神父からの手紙を読むヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)。「フェレイラの消息は不明だ。これが最後の手紙だ」と言います。
ロドリゴ神父(注4:アンドリュー・ガーフィールド)が「不明とは?」と尋ねると、ヴァリニャーノ神父は「この手紙は、何年もかかってようやくここに届いた」と答え、さらにロドリゴ神父が「彼は生きているのでは?」と問うと、ヴァリニャーノ神父は「彼は棄教したそうだ」と言います。
それを聞いたもう一人の神父のガルペ(アダム・ドライヴァー)は「ありえません」と言い、ロドリゴ神父も「師は誰よりも強い方です」と言います。
さらに、ヴァリニャーノ神父が「棄教したのは事実だと判断している」と言うと、ガルペ神父は「我々を欺くための嘘かもしれません」と付け加え、ロドリゴ神父は「フェレイラ神父を探しに行かなくてはならない」と呟きます。
これに対して、ヴァリニャーノ神父が「そんなことは許可できない」と答えると、ロドリゴ神父は「手紙は恐ろしいことしか書かれていない。フェレイラ神父の身がどうなっているのかはわからない」、「彼の魂を救出する以外の選択肢はありえない」と許可を求めます。
ついに、ヴァリニャーノ神父は「君たちが日本に入る最後の神父だ」と言って、認めます。
こうして、ロドリゴ神父とガルペ神父は日本に向かいますが、彼らの運命はどうなるのでしょう、………?
本作は、遠藤周作の原作をハリウッドの著名監督が映画化したものながら、江戸時代初期の日本の有様を、日本人が見ても余り違和感なしに見ることができる作品ではないかと思いました。ただ、キリスト教布教のために日本にやってきたイエズス会神父を主人公として、信仰とは何か、神とは何か、などといったことを追求しているために、クマネズミのような無宗教の人間が見た場合に、本作をどう受け止めたら良いのか、なぜ今こうした映画が制作されるのか、など疑問に思えるところが出てきます。それにしても、出演する日本の俳優は実によく演っているなと感心しました。
(2)本作の公式サイトの「プロダクションノート」の「ロケハン」で、スコセッシ監督が「台湾は、(舞台となる長崎に)地形的に似ていたし、天候も似ていました。山や海のそばの景色は我々が求めていたものでした」と述べているとあるように、本作は、日本ではなく、台湾におけるロケで制作されたものです。
にもかかわらず、映画の雰囲気は、まさに江戸初期の日本を思わせるものが作り出されているように感じました。
さらに、本作に登場する浅野忠信以下の日本人俳優の演技が、それぞれ登場人物の役柄にピッタリとはまり込んでいるので、まるで邦画を見ているような感じとなり、見ていて違和感を覚えませんでした。
特に、キチジロー役の窪塚洋介や井上筑後守に扮したイッセー尾形の説得力ある演技はすごいなと思いました。
総じて言えば、2時間半を超える長尺ながら、最後まで引き込まれてしまいました。
ただ、クマネズミは特定の宗派に属していないいわゆる無宗教派ですので、本作のあれこれについてよくわからない感じがつきまとってきてしまいます。
例えば、
イ)「踏み絵」ですが、どうしてこれがキリシタンであるかどうか選別するための道具になるのか、実際のところよくわからない感じがします。
よくは知りませんが、江戸時代の日本以外の国や地域でこうしたことが行われたとは思われません。どうして当時の日本の信徒たちだけが、真のキリシタンなら踏み絵を踏んではならないなどと考えたのでしょうか(注5)?
本作でも、キチジローの家族は、どうしても踏み絵を踏まなかったためにキリシタンだと判定されて、火あぶりの刑などを課せられたりします(注6)。
でも、こんな外形的なことにどうして信徒たちは酷く拘ったのでしょうか?
本作からすると、キリシタンを取り締まった役人たちの方も、踏み絵自体にそれほど重きをおいてはいないような気もしますが、どうなのでしょう(注7)?
ロ)キリシタン弾圧のトップだった井上筑後守(注8)は、大変狡猾な人間として描かれ、キリシタンを一人一人捕まえることよりも、むしろ外国からやってきて潜伏している神父を捕まえて、皆の前で転向させること(「転びバテレン」)を重視します(注9)。
そして、井上は、フェレイラ神父やロドリゴ神父を転向させますが、ロドリゴ神父に対し、「キリスト教は「石女」であり、子を産めず、妻になれん」、「醜女の深情ほど嫌なものはない」、「沼地には何も育たない」、「お前が持ち込んだものは、日本で得体のしれぬものに変わった」、「お前は私に負けたのではない。日本という沼地に負けたのだ」などと言います。
ただ、日本の状況が井上の言うとおりであるとすれば、特段に危険視して厳しい弾圧などせずとも放っておけば、キリスト教は自ずと実害のないものになっていったのではないかと思われますが、どうなのでしょう(注10)?
ハ)本作は、原作の遠藤周作の小説をかなり忠実に映画化しているように思われます。
ただ、ラストの部分で本作は、原作と比べて、かなり西欧的な物語(注11)になってしまっているようにも思われます。
原作小説のラストは「切支丹屋敷役人日記」とされ、岡田三右衛門となったロドリゴ神父が64歳で亡くなったことが候文で完結に記載されているに過ぎませんが、本作では、それが映像化されるだけでなく、ロドリゴ神父が死ぬまでその内面では棄教していなかったことが示されます。
ただ、本作のラストの画面のようにすれば、確かにわかりやすいとは言え、本作の始の方で、日本の隠れキリシタンは形あるものを信仰の証にしたがっていると批判的に言われていることからしたら、ロドリゴ神父の信仰も、かなり日本的に変質してしまったのではないかとも考えられるところですが、どうなのでしょうか?
とはいえ、本作はハリウッド映画であり、エンターテインメント作品ながらも、大層重厚に作られており、見る者にあれこれ考えさせる要素をたくさん抱えていて、それだけでも評価するに値するように思ったところです。
(3)渡まち子氏は、「体重を落として壮絶な姿を見せるモキチ役の塚本晋也の命がけの熱演や、狡猾でいながら真実を射抜く目を持ち清濁併せ持つ長崎奉行役のイッセー尾形の深みのある演技には、心を打たれた」などとして80点を付けています。
宇田川幸洋氏は、「「完全映画化」という宣伝文句をうたっても文句は出ないだろう。原作のストーリーに忠実で、かつ映画として見ごたえ十分の力作である」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
佐藤忠男氏は、「アメリカで映画にしたのだが、日本の風俗習慣などの描きかたの違和感は少なく、むしろ、外国人の見方の加わったところが新鮮で、感銘の深い作品になった」と述べています。
小林よしのり氏は、「ものすごく面白かった。3時間弱もの時間を、一回も緊張感を途切れさせず、食い入るように没入して見てしまった。スコセッシの熟練した力量に感心した」と述べています。
(注1)監督は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ヒューゴの不思議な発明』などのマーティン・スコセッシ。
脚本は、ジェイ・コックスとマーティン・スコセッシ。
原作は、遠藤周作著『沈黙』(新潮文庫)。
原題は「SILENCE」。
なお、出演者の内、最近では、アンドリュー・ガーフィールドは『わたしを離さないで』、リーアム・ニーソンは『スリーデイズ』、アダム・ドライバーは『ヤング・アダルト・ニューヨーク』、浅野忠信は『淵に立つ』、窪塚洋介は『Zアイランド』、塚本晋也は『SCOOP!』、小松菜奈は『バクマン。』、村人ジュアン役の加瀬亮は『アズミ・ハルコは行方不明』、笈田ヨシは『最後の忠臣蔵』で、それぞれ見ました。
また、イッセー尾形は『太陽』における昭和天皇役がとても印象的です(この拙エントリの「注5」をご覧ください)。
(注2)ラストでも同じように虫の声が。
(注3)実在の人物(この記事が参考になります)。
(注4)ロドリゴ神父のモデルになったのは、実在したジュゼッペ・キアラとされています。
(注5)トモギ村の人質になって捕らえられると決まっていたモキチ(塚本晋也)から、「踏み絵を踏めと役人に言われたらどうすれば?踏まないと村人が大変な目に合うだろう」と尋ねられた時、ロドリゴ神父は「踏めばいい」と答えますが、ガルペ神父は「そんなことはできない」と答えます。聖職者であっても、「踏み絵」に対する姿勢は異なってしまうようです。
(注6)キチジローは、家族と一緒にいた時も、またイチゾウ(笈田ヨシ)やモキチらとともにトモギ村の人質として捕らえられた時も、簡単に踏み絵を踏みます。ただ、彼は、「モキチも俺の家族も強かった。俺は弱い。弱い者の居場所はどこだ?」と言って、ロドリゴ神父に「告解」(confession:コンヒサン)をします。
でも、踏み絵を踏むか踏まないかで、人の強さ弱さが判定できるのでしょうか?
(注7)上記「注6」のイチゾウやモキチら(3人目の名前はわかりません)は、踏み絵を踏む時の態度が怪しいとして、十字架につばを吐くことや、「マリアは娼婦」と言いことを強要され、それができないために水磔の刑に処せられます。取り締まる役人の方も、踏み絵でキリシタンかどうかうまく選別できないことをよく知っていたようです。
なにしろ、役人が踏み絵に際して、「形だけのこと。端の方にチョット足を乗せるだけでよい」などと村人に言ったりするくらいなのですから。
(注8)実在の人物(この記事が参考になります)。
(注9)井上筑後守の部下の通辞(浅野忠信)も、大層賢そうな役人で、ロドリゴ神父がフェレイラ神父と同じように転向するであろうことを見抜きます。
(注10)実際には、Wikipediaのこの記事によれば、「1605年には、日本のキリシタン信徒は75万人にもなったといわれている」とのこと。
ただ、フェレイラ神父が、「ザビエルは、デウスを「大日」とした」とロドリゴ神父に語ったように(ただ、Wikipediaのこの記事によれば、「後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされ」て、使わなくなったようです)、隠れキリシタンたちが信じているキリスト教は、本来のものからかなり変質していたようです。
本作では、その他、隠れキリシタンたちが、信仰の証として形あるものを重視することや、洗礼の儀式で天国(パライソ)が出現すると信じること、「死ねば病気も年貢もない天国に行ける」と信じること〔捕らえられたモニカ(小松菜奈)が口にします〕、「告解(コンヒサン)」をすれば罪が消えると信じること(キチジロー)、などが変質している点として描かれているように思われます。
(注11)幾多の危難を乗り越えて一つの信念を貫き通した英雄譚とでも言うような。
★★★★☆☆
象のロケット:沈黙 サイレンス
硬軟織り交ぜた弾圧、懐柔も何か凄まじかった。
しかし日本人に違和感のない作りには驚嘆しました。
こちらからもTBお願いします。
「日本人に違和感のない作りには驚嘆」とありますが、日本人俳優の頑張りも然ることながら、監督以下の制作陣の本作にかける情熱も並大抵のものではなかったように思います。
しかし、踏絵を踏むことは、「棄教」とみなさるでしょうから、踏むに踏めないのでしょうね。
この小説を発表した時代でも、宣教師が転んだことに協会側から反発があったそうです。
布教を進めた後に、植民地化する戦略を秀吉や家康が危険視したので、キリスト教を黙認するわけにはいかなかったのでしょう。
一神教の教義に厳しいでキリスト教なのに、日本には八百万の神が棲む国ですから、育ち難い環境だと思います。
殉死しなくてもよさそうなのに、死後の天国行きにあこがれて進んで死んでいったのでしょうか・・・?
おっしゃるように、「踏絵は時の権力者が踏ませるために作った道具にすぎない」わけですから、踏んでも構わないはずと思います。したがって、「踏絵を踏むことは、「棄教」とみなさる」としても、それは外見であって、肝心の内面で信仰を維持すればいいわけですから、「踏むに踏めない」ということにはならないのではないか、と思えてしまいます。何しろ、本作では、モキチから「踏み絵をどうすれば?」と尋ねられた際に、ロドリゴ神父が「踏めばいい」と言うのですから。
踏み絵を踏まないために殉教者が随分出たのは、おっしゃるように、「死後の天国行きにあこがれて進んで死んでいった」ようにも思われます(本作において、モニカがそのようなことを口にします)。ただそれは、あるいは仏教の「極楽浄土」に近い思い込みなのかもしれません。