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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

たかが世界の終わり

2017年02月24日 | 洋画(17年)
 『たかが世界の終わり』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)昨年のカンヌ映画祭でパルム・ドールに次ぐグランプリを獲得した作品ということで(注1)、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、「しばらく前に 世界のどこかで」との字幕が映し出され、客室乗務員の「お客様、シートベルトの着用を」との声掛けが。
 そして、飛行機に乗っている主人公のルイギャスパー・ウリエル)の顔が大きく映し出されて、モノローグ。
 「あれから時が過ぎた、正確には12年だ」。
 「僕は、あの人達と再び会おうと思った」、「理由はいくつもある」、「長い不在の後、自分が来た道を辿ろうと」。
 「僕の死を告げるために」、「僕という存在の幻想」。
 「自分であり続けたら、どうなるのだろう」。
 「私の家には居場所がない」、「家は救いの港じゃない」、「それは深くえぐられた傷跡だ」。

 ルイはタクシーに乗ります。
 他方で、料理をする手が大写しになります。
 時計が1時を知らせます。

 ルイの妹のシュザンヌレア・セドゥ)が、「ママ、ルイ兄さんが来た!」「間に合わない」と言って慌てます。



 母親(ナタリー・バイ)は、「おしゃれしたい。息子に久しぶりに会うのだから」と呟きます。

その2人に、兄のアントワーヌヴァンサン・カッセル)の妻のカトリーヌマリオン・コティヤール)を加えた3人の女が待ち構えていると、タクシーを降りたルイが入口のドアから入ってきます。



 シュザンヌがルイに抱きついて「タクシーは高いんじゃ?」と言い、母親が「カトリーヌは始めてでしょ」と紹介すると、ルイは「会えて嬉しいよ」とカトリーヌに挨拶し握手をします。すると、シュザンヌは「なんで握手?大統領みたい」と訝しがります。
 さらに母親は、「シュザンヌとも会っていないの?」「そんなこと考えもしなかった。私たちって、変わった人生を送っているんだ」と付け加えます。

 こんな風にして、実家に戻ったルイを中心に会話が続きますが、さあ、どのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公の若い作家が、ある秘密を家族に伝えようとして、12年ぶりに家族のもとに戻ってきたものの、相変わらずの母親と長兄、それに次兄の主人公のことをよく覚えていない妹、さらには主人公と初対面の長兄の妻との錯綜した関係に巻き込まれ、言い出すタイミングを失ってしまい、云々という物語。主人公と家族それぞれとの間で熱のこもった会話がなされ、戯曲の映画化という点が感じられはするものの、おざなりな家族の絆を描く他愛のないホームドラマとは異なるリアルさを味わうことができます。

(2)本作の登場人物は男2人と女3人の5人で、舞台も大部分がルイの実家だけとされていて、随分とシンプルな作りになっています。
 内容も、登場人物たちの会話がもっぱらです。
 こうなると、戯曲が原作なのだなとすぐに気が付きますが、案の定、ジャン=リュック・ラガルス(注3)の戯曲(1990年)が原作になっています。

 同じように戯曲が原作で、家族間の葛藤を描いた映画作品としては、『8月の家族たち』が思い浮かびます(注4)。
 同作では、夫のベバリーサム・シェパード)が失踪してしまったバイオレットメリル・ストリープ)が、次女のアイビージュリアン・ニコルソン)を呼び、それから長女のバーバラジュリア・ロバーツ)、三女のカレンジュリエット・ルイス)などが次々と母親の元へやってきます。
 ただ、バイオレットは口腔癌を患っていて、様々な抗癌剤を飲んでいるだけでなく、鎮痛剤の中毒にも陥っています。それで情緒が大層不安定で、暑い中をわざわざやってきた家族や親類たちに酷い言葉を投げかけたりします。

 そんなところから、本作とこの『8月の家族たち』は雰囲気が類似しているように感じられます。
 本作においても、12年ぶりに実家に戻ってきた弟ルイに対し、待ち構えていた家族はさかんに話をしますし(注5)、特に兄アントワーヌが威圧的な態度を取ります(注6)。



 また、同作においては、ベバリーの葬儀に遅れて来た従弟のリトル・チャールズベネディクト・カンバーバッチ)は、次女のアイビーと付き合っていることを皆の前で言うつもりでしたが、本作のルイと同じように、なかなか言い出せないまま時間が過ぎていきます。

 とはいえ、異なっている点も多そうです。
 例えば、登場人物の会話の分量は両作ともトテモ多いのですが、本作の主人公であるルイについては、例外的に、ごくわずかの台詞しか設けられておらず、家族とのコミュニーケーションの大部分は、台詞以外のもので表現しています(注7)。
 この点は、演劇と比べて映画の利点を活かせるものと思います。

 また、本作では、男女関係はアントワーヌとカトリーヌの夫婦だけですが(注8)、『8月の家族たち』においては、バイオレットとベバリーを始めとして何組も登場し、同作は個々人の話というよりも、むしろ男女関係の問題を描いているとも言えそうです(注9)。

 それに、『8月の家族たち』では、リトル・チャールズをめぐる重大な秘密が明かされたりしますが、本作においてはそういうようなことは起こりません(注10)。

 なにはともあれ、それに、本作においては、主人公を演じるギャスパー・ウリエル以下の俳優が、『8月の家族たち』においても、メリル・ストリープなどの俳優が、それぞれ精魂込めて演じていて、戯曲を映画化した作品という感じがするとはいえ、そして取り立てて言うほどの事件が起こるわけではないものの(特に本作の場合)、見る者は圧倒されます。

(3)渡まち子氏は、「ウリエル、セドゥ、コティヤール、カッセル、そして母親役のナタリー・バイと、仏映画界を代表する実力派が演じるだけあって、繰り返される顔のアップや膨大なセリフの応酬も、しっかりと受け止めて演じていて見応えがある」として75点を付けています。
 前田有一氏は、「徹頭徹尾重苦しく、似たような体験をした人にはたまらないストレスとトラウマ再帰の危険性がある。相変わらず、体調万全の時にしか見られない、そんなグザヴィエ・ドラン監督作品である」として60点を付けています。
 中条省平氏は、「最高の見どころは、フランスを代表する名優5人がくり広げる丁丁発止の演技合戦だ。やり過ぎの限界寸前まで盛りあげる各自の技に、さすが芸達者! と声をかけたくなる出来栄えなのである」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「飛び切り上手な映画なんですが、私にはどこか芝居くさい印象が残りました。ヘンな言い方ですが、俳優が良すぎるんです」と述べています。
 金原由佳氏は、「世界の政治が急激に不寛容へと傾く今、家族という小さな単位での「受容」について考えを巡らすのは無駄ではない」と述べています。


(注1)2016年のパルム・ドールはケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(日本では3月18日より公開)に与えられています。

(注2)監督・脚本はグザヴィエ・ドラン
 原題は「Juste la fin du monde」(英題は、「It’s only the end of the world」)。
 原作はジャン=リュック・ラガルスの戯曲『Juste la fin du monde』(邦訳はこちら:ちなみに、フランス語の舞台はこちら)。

 なお、出演者の内、最近では、レア・セドゥは『美女と野獣』、マリオン・コティヤールは『エヴァの告白』、ヴァンサン・カッセルは『五日物語―3つの王国と3人の女―』で、それぞれ見ました。

(注3)簡単なプロフィールはこちら(英語ではこちら)。

(注4)同作は、トレイシー・レッツの戯曲〔『August: Osage County』(2007年)〕が原作となっています。

(注5)例えば、カトリーヌは、ルイに「子どもたちに会わせたかった。あなたが来るなら、折角の機会だから。長女は8歳」とか、「いままで手紙を送ってくれた。なんて優しいんだと思った」と話すと、夫のアントワーヌは「ルイが退屈しているのがわからないか?」と遮ります。カトリーヌが「いつも退屈させてしまうの」と謝ると、ルイは「そんなことはないよ。子供の話を聞かせて。僕と同じ名前にしたとか。その話を聞いた時は感動した」と応じます。すると、アントワーヌは「俺のせいにするな。話したかったら早く話せ。ルイは子供が大好きなんだ」と怒ります。



 なお、カトリーヌは、話の中で、「子供にルイと名付けたのは、あなたに子供がいないから」と失言してしまい、すぐに「まだ、子供ができるけど」と付け足したりします。
 総じて、カトリーヌは、ルイにきちんと向かい合っているように思われます。
 ただ、ルイが「実は、今日は…」と話しかけると、カトリーヌは「何も言わないで。話すならあの人に話して」と言うので、仕方なしにルイは「雑談をしようと思っただけ」と応じます。

(注6)タバコを買いに行こうとして車の中で2人だけになった時に、ルイが「飛行場に着いた時に、すぐさま家には来ずに、しばらくカフェにいた」「夜明けに家に入ったら、皆が騒ぐだろうと思った」「何もしないで待っていたことは、兄さんならわかってくれるだろうと思った」と話すと、アントワーヌは、「相変わらずだな。カフェのことを事細かく話して、人を混乱させる」、「そんな話、俺が興味を持つとでも?俺が隣りにいるから作ったのだろう」、「俺のことなど考えたはずはない」、「お前は、俺を操る術を知っていると思っている。だが、俺は簡単にはいかない」、「ちっぽけな世界にいて、自分が特別だと思うな」などと激しく言い募ります。
 アントワーヌは、ルイと向かい合った当初から大層苛ついており、挙句は、「この家に泊まっていったら良いのに」という母親の声を無視して、無理やりルイを帰らそうとします。

(注7)公式サイトの「Production Notes」の「セリフがほとんどない主人公」では、「「確かに、ほとんど話さない役というのはとても手強い。でもそこにやりがいがあった」と打ち明けるウリエルは、否応なく迫る死に直面しているルイを、歩く死人、幽霊のような存在として表現しようとしたという。セリフが少ないために、ウリエルにとって微妙な演技をキャプチャーしてもらえるかどうかがすべてだった。「今回のような至近距離での撮影では、呼吸、まばたきのひとつひとつをカメラが捉えてくれるという感覚が素晴らしかった。」」と述べられています。

(注8)カトリーヌは、夫のがさつな態度に目を顰めたりはしますが、夫婦関係の危機にあるようには見えません。

(注9)なにしろ、『8月の家族たち』においては、冒頭の方で、主人公の夫が自殺してしまうのです。それに、長女・バーバラの夫・ビルユアン・マクレガー)は浮気していますし、バーバラから「頼りない男」となじられたりします。また、三女・カレンの婚約者・スティーブは、バーバラとビルの間の子供・ジーンにちょっかいを出すオカシナ男だったりします。

(注10)主人公のルイが同性愛者であることを示す映像(ルイが自分の部屋だったところに行き、もっと若い時分を回想したもの)が挿入されたり、そのことに兄のアントワーヌが気が付いていることもほのめかされたりはしますが(他の家族も気づいているようです)、ストーリーの展開に大きく影響を与えたりはしません。



★★★★☆☆



象のロケット:たかが世界の終わり


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6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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こんにちは (ここなつ)
2017-03-14 19:02:53
こんにちは。
ああ、確かに、「8月の家族たち」に似ていますね。特に家族のエキセントリックな様が、なんとも…。

かなり心が痛む作品でした。故郷とは、帰る者も残る者も、それぞれ互いを許容できない何かを抱えているような気がしてなりません。
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Unknown (クマネズミ)
2017-03-15 05:55:01
「ここなつ」さん、TB&コメントをありがとうございます。
クマネズミは、はっきりと故郷と呼べる場所を持たないので推測でしかありませんが、きっと、おっしゃるように「故郷とは、帰る者も残る者も、それぞれ互いを許容できない何かを抱えているような気」がするのだと思います。
ただ、つまらないことを申し上げれば、本作で描かれているのはいわゆる「実家」であって、隣近所などで構成される共同体としての「故郷」よりもずっと小さな単位のように思えます。
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Unknown (ふじき78)
2017-12-14 20:08:49
「8月の家族たち」ですか。

この記事を読んでて思いだしたのは「美女と野獣」です。レア・セドゥが美女でヴァンサン・カッセルが野獣だった奴。つまり、これは「美女と野獣とホモの弟とその母(とオブザーバー)」という物語。美女は野獣の弟に優しく接しようとしますが、野獣は心を閉ざしたままです。心を閉ざした野獣に愛は生まれない。おっ、適合してる。
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Unknown (クマネズミ)
2017-12-15 21:32:34
「ふじき78」さん、コメントをありがとうございます。
なるほど、『美女と野獣』ですか。
大層興味深いご指摘ですね。
ただ、本作が「美女と野獣とホモの弟とその母(とオブザーバー)」という物語だとすると、美女はレア・セドゥ、野獣はヴァンサン・カッセル、ホモの弟はギャスパー・ウリエルとなるのでしょうか?その場合、ヴァンサン・カッセルの妻のコティヤールはどのような位置づけになるのでしょう?あるいは、美女はコティヤールなのでしょうか?そうするとレア・セドゥはどうなるのでしょう?
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Unknown (ふじき78)
2017-12-16 21:42:37
妻のコティヤールは家族の輪の中に入らないのだけど、それゆえ一番冷静な目で関係を見ていられる「オブザーバー」ですね。

一応、大した登場頻度もない人物だけだからこの5人くらい出しとけばいいかなと思ったんですが。
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Unknown (クマネズミ)
2017-12-17 17:56:03
「ふじき78」さん、再度のコメントをありがとうございます。
なるほど、コティヤールは「オブザーバー」ですか。
確かに、コティヤールは「ホモの弟」のことを気にかけているようでいながらも、彼が肝心の話をしようとすると、“それは(「野獣」の)ヴァンサン・カッセルに話して”と言うのですから、家族の輪の中に入り込んでいるというわけでもなさそうです。
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