映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

無伴奏

2016年04月06日 | 邦画(16年)
 『無伴奏』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)予告編を見て良さそうに思えたので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、表紙に「DESIGN」とある大型のデッサン・ノートに、ポール・ニザンの言葉(注2)が書きつけられます。
 次いで、「We shall Overcome」(注3)の歌が流れて、高校3年生の響子成海璃子)の顔が大写しになり、ジュリー仁村紗和)とレイコ酒井波湖)と一緒になって、「制服廃止闘争委員会」の文字が大きく書かれた黒板の前で、カーディガンやブラウスなどを脱いでシュミーズ姿になります。
 そして、響子が、脱いだ服を手にかざしながら、「こんな古ぼけた制服を着ることが身だしなみを整えることでしょうか?」「おしゃれをする権利を取り戻しましょう!」などとクラスメイトに向かってアジります(「1969.4」の字幕が出ます)。



 その後、3人は、大学の構内に入り、反帝学評の集会に行き、響子が「私たちも闘争委員会を結成しました」と言うと、活動家の学生は「俺達の部室を使ってもいいぞ」と言い、カンパ資金を渡してくれます。

 さらに、3人は街なかを歩いていて、響子は路上で「篝火」という詩集を学生から買います。そして3人は、レイコの案内で喫茶店「無伴奏」のある地下に降りていきます。

 中に入ると、バロック音楽が流れていて、学生らがスピーカーの方を向いて座って聴いています。ジューリーが「なにこれ」と言うと、レイコは「シーッ」と制し、コーヒーを3つ注文します。
 その時、大学生らしき男2人と若い女1人のグループが入ってきて、一方の男(池松壮亮)が響子の隣に座ります。



 渉が響子の手にする詩集を見て、「詩集買ったの、百円も出して?」と言うものですから、響子は「150円。50円はカンパのつもり」と答え、それに対し渉がさらに、「変わった人だな、これを書いたのはうちの大学の玉沢」と言うと、今度は連れの女(エマ遠藤新菜)がその詩集を取り上げて声に出して読み「なにこれ?」と言い、一緒に来た男(裕之介斎藤工)も「相変わらずマスターベーションの詩だな」と批判します。

 店の中には、喫茶店の入り口に掲げられている黒板に渉が書き込んだパッヘルベルの「カノン」(注4)が流れますが、さあ、この後、響子、渉、裕之介、エマの関係はどのようになっていくのでしょうか、………?

 映画の舞台は、1969年から1970年の大学闘争時代の仙台。自分の通う高校で騒ぎを起こしている主人公の女子高生が、女の子を連れている男子大学生2人と知り合い、その内の一人と恋仲になるというストーリー。学園闘争、大学闘争、名曲喫茶などで時代の雰囲気を出していますが、それらはあくまでも背景であって、映画で専ら描かれるのは4人の男女の特異な恋愛関係といえ、さらにはミステリー的な要素もあって、とても興味深い作品に仕上がっているなと思いました。

(2)映画の冒頭で描かれる響子たちの制服闘争は、原作小説では本作のように具体的に描かれてはいませんし、またポール・ニザンの言葉も原作小説では引用されていないように思います。
 とはいえ、このような映像にしたのも、原作小説を実写化するにあたり、それが舞台とする時代(1969年~1970年)の雰囲気をより一層画面に出そうと制作者側が努めたことによるものではないかと思われます(注5)。
 その結果、実際の状況に一段と近づけたかどうかは、当時を知らない者にとっては判断しようがありません(注6)。
 とはいえ、本作に登場する4人の言動が当時の雰囲気と密接に絡み合っているように見えるために、そうした努力は一定の意味を持ってくるでしょう。

 例えば、「無伴奏」で流れている曲について渉が響子に「この曲、知ってる?」と聞いたのに対し、響子が首を振ると、渉は「こんな曲も知らないの?」という感じで曲名を告げます。馬鹿にされたように思って、響子は「知らないとおかしいですか?」と口をとがらせますが、こういった知的教養を巡るやりとりは、今の時代では余り考えられないのではないでしょうか(注7)?
 また、響子が初めて渉や裕之介が暮らす茶室(注8)に行った際、先に来ていた裕之介が響子に、「“にじり口”の意味、知ってる?」と尋ね、響子が首を振ると、裕之介は「あそこで“俗世”と決別するんだ」と説明します。一緒にいたエマも「つまり、ここは“異界”なの。きっと響子も気にいるわよ」と言います。
 こんな気障っぽい会話も、今の時代には合わないに違いありません(注9)。

 このように会話を通じても、当時の雰囲気を出来るだけ醸し出そうとすることによって、響子、エマ、渉、裕之介の4人の関係(特に性的な)をよりリアリティのある背景の中で描き出すことになるものと思います(注10)。



 そして、4人の性的な関係ですが、響子と渉とのぎこちない有様、そしてエマと恋仲になっているはずの裕之介の響子を見る目に何かを感じさせるたりするのも、当時の時代がしからしめる部分があるのかなと見る者に思わせておいて、最後の方で驚くような事態が暴露され、なるほどなと見る者が納得できるという、ある意味でサスペンス仕立てになっていて、劇映画としてもなかなか面白く作られています。

 結局は、本拠地の東京に戻ることになる響子の、“異界”の地としての仙台(注11)で短期間に経験した非俗的なエピソードにすぎないといえばそれまでながら、起きた事件の特異さ(注12)からその後の響子に大きな爪痕を残したに相違なく(注13)、響子がそれからどのような道を歩んで現在があるのか興味がもたれるところです。

(3)荻野洋一氏は、本作に関するやや長めの論評において、「この映画には、未熟で愚かな若者たちの、非常なる悲しみが宿っている。だがそれは、主人公が知ってはならないことを知ってしまう悲しみではなく、知ってし まったのに、その知りえた事実から置いてけぼりを食ってしまう悲しみである。主人公は決定的に何かから取り残される存在なのである」などと述べています。



(注1)監督は、『太陽の坐る場所』の矢崎仁司
 脚本は、武田知愛・朝西真砂。
 原作は、小池真理子著『無伴奏』(集英社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、成海璃子は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、池松壮亮は『シェル・コレクター』、光石研は『恋人たち』で、それぞれ見ました。

(注2)池澤夏樹=個人編集 「世界文学全集 1-10」(河出書房新社,2008年)所収の「アデン、アラビア」(小野正嗣訳)では、「僕は二十歳だった それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。何もかもが若者を破滅させようとしている」とされていますが、晶文社刊の『ポール・ニザン著作集 巻1』(篠田浩一郎訳、1966年)では、「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ」となっています。
 本作が設定している年代からすれば、響子たちが目にするとしたら後者でしょう。
 でも、本作も(エンドロール・クレジットで見ると)、また本文(3)で触れる荻野氏も前者によっています(尤も、内容に相違がないので、何の問題もありませんが)。

(注3)例えば、この動画

(注4)同曲は、三声に通奏低音を伴うものですから、響子、エマ、渉、裕之介の4人の関係を暗示しているとも言えるでしょう。

(注5)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、矢崎監督は、「物語の設定が50年近く前の仙台ということで、……今の仙台だけでは撮影は不可能でした。それで、あの当時の風景を捜すのに、車で1日1,500キロも移動した日もありました」などと述べています。
 劇場用パンフレット掲載の「ロケ地マップ」によれば、例えば、本作で印象的な竹林は、栃木市にある岡田記念館のものとのこと(なお、『太陽の坐る場所』についての拙エントリの(3)で触れましたように、矢崎監督が山梨県出身だからなのでしょう、ロケ地には山梨県の3箇所が使われています。)。

(注6)例えば、劇場用パンフレット掲載の「美術」によれば、喫茶店の「無伴奏」は、当時実在したもので、本作の撮影にあたっては、神奈川県の綱島に当時の店内をできるだけ忠実に再現したセットを作ったとのこと。でも、その喫茶店の実際を知らない者にとっては、これで当時の雰囲気が出ているのかどうかは判断できないところです。
 とはいえ、制作者側が払ったいろいろな努力が見る者に伝わってくる画面だと思いました。

(注7)大学闘争のバリケードの内側では、吉本隆明著『共同幻想論』を手にする学生が多かったともいわれているようです。

(注8)渉は、実家は仙台の老舗の和菓子屋ですが、今は裕之介の下宿先(裕之介は大きな屋敷の中にある茶室で暮らしています)に居候をしています。

(注9)実際には、渉と裕之介は、この茶室を茶室としてではなく生活の場として使っているのですから、裕之介の説明は頭でっかちのものといえるでしょう。
 なお、裕之介の「にじり口」についての説明は、原作小説においては物語を語る「私」によって説明されています(文庫版P.81)。さらに言えば、響子が買った詩集について裕之介が口にする批判も原作小説には見当たらず、こうした詩集の路上販売に対して「自分がひねり出した小汚い排泄物を路上で売るなどという馬鹿げた行為」などと「私」が述べたりしています。
 これらのことも、当時の雰囲気の一端を裕之介に担わせるための制作者側の方策なのでしょう。

(注10)この記事に掲載されている原作者の小池真理子氏のコメントにおいては、「試写を観ながら、私は客席で胸熱くし、自分自身のあの時代を思い返していました。時代背景の何もかもが、繊細に丁寧に描かれていて、私自身がスクリーンの中のどこかに隠れ、あの時代を生き直しているような感覚を味わいました」と述べられています。
 ちなみに、原作小説の「あとがきにかえて」においても、小池氏は、「私はただひたすら、かつての自分を思い出し、かつての自分をモデルとして使いながら、時代をセンチメンタルに料理し、味わってみようと試みた」と述べています(文庫版P.283)。

(注11)仙台という「茶室」に入るための響子にとっての「にじり口」は、下宿していた伯母・愛子藤田朋子)の家ということになるのでしょう。なにしろ、愛子は、響子の父親・孝一光石研)と違って、口では「門限は7時」とか「厳しく管理する」等と言っていながら、実際には響子を放任しているのですから。

(注12)響子が茶室で目にすることになるものは、現在では一応受け入れられつつあるといえるでしょうが、当時にあってはまだまだ特異なものだったのではと思われます(特に女子高生にとっては)。

(注13)当初、父親と母親と妹が東京に行くための電車に乗って出発した後、伯母とともに残された響子の顔付きと、1年以上経って東京に戻ることになり伯母の家を出発する時の響子の顔付きとの違いはどうでしょう、もっと言えば、レイコに連れられて「無伴奏」に最初に入った時の響子の胸のトキメキと、最後に「無伴奏」に立ち寄った際に幻影を見た時の響子の眼差しとは、一体どのように違うことになるのでしょうか?



★★★★☆☆



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