映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

蜜のあわれ

2016年04月21日 | 邦画(16年)
 『蜜のあわれ』を新宿バルト9で見ました。

(1)二階堂ふみが主演の作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、花が咲いている庭の木がカーテン越しに映しだされ、また老作家大杉漣)が原稿を書いている机の上には、花が活けてある花瓶が置かれています。
 その向こうでは、ソファーに寝そべりながら赤子二階堂ふみ)が本を読んでいます。
 赤子は「人を好きになるということは楽しいものでございます」と読み上げると、その本を放り出して庭の方に行きます。
 原稿を書くのを止めた老作家は、赤子の姿を眺めながらスケッチをし出します。
 それを見て赤子は、「おじさま、またサボってる」「あたいの絵なんて、一文にもならない」と言います。老作家が、「雑誌に口絵を頼まれている、金になるんだ」と答えると、赤子は「どれだけ?」と尋ねます。老作家が「2千円」と答えると、赤子は、「あたいの取り分は?モデルと画家で山分けするのでは?」と言います。老作家は、仕方なく財布から千円札を出して赤子に渡します。



 すると、赤子は「お出かけ!」と言い、さらに「おじさま、「人を好きになるということは楽しいものでございます」と言ってみて。一遍、男の人の口から聞いてみたいの」とせがみます。
 ですが、老作家は、「言えない。男には言えないことがあるんだ」と断ります。
 すると、赤子が「小説家でも言えないことがあるの?」と皮肉るので、老作家は、「小説家だからこそ、と考えられないかね」と言い返します。

 赤子は、「こんなところにいたら殺されちゃう」と言いながら外出しようとします。
 老作家は、「気をつけるんだよ。道は5時になると2つに別れる。分かれ道で迷うと戻ってこれない」と注意します。
 赤子は、「5時の道で迷わないようにします」と言って外出してしまいます。
 残った老作家は、「人を好きになるということは」とつぶやきながら、スケッチの続きを描きます。
 そこに書かれているのは金魚。

 これでタイトルが映しだされ、ここから物語が展開していきますが、さあこの二人はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、室生犀星の小説を実写化したもので、金魚から変身した少女と、老作家、老作家を慕う幽霊の女との間の三角関係を描いたファンタジー。昭和30年代の前半を舞台としていますが(注2)、あまり古さを感じさせません。それに、芥川龍之介を登場人物としたり、萩原朔太郎を人の口に上らせたりするのは、原作に見られないだけに、その必要性があるのか疑問で、体当たり的演技を披露する二階堂ふみはダンスまでこなし実によくやっており、共演の大杉漣も堅実な演技を見せているものの、クマネズミにはどうも乗りきれませんでした。

(2)本作の原作を、映画を見終わってからザッと読んでみました。
 原作は、全編が会話のみから出来上がっている一風変わった小説となっています(注3)。情景描写(脚本で言えばト書き)が全くなされないために、誰が話しているのか把握しにくい場面が出てくるほどです(注4)。

 ただ、こうした原作を実写化するのは、シナリオが出来ているも同然と思えますから、簡単そうに見えます。ですが、むしろ登場人物の置かれている状況についてほとんど何も書き込まれていないため、映画の設定をどのようにするかについて映画制作者の実力が問われてしまう怖さを持ってもいるようです。

 原作と本作との違いをほんの少々見てみましょう。
 始まり方や終わり方の相違を除いても(注5)、例えば、
a.本作で何回も口に上る「人を好きになるということは楽しいものでございます」というフレーズは、本作では、赤子が読む本の中に書いてある言葉とされますが、原作の場合は、女性の雑誌編集者が俳優宛に書いた手紙の中の言葉とされています。
b.本作では、アクタガワ高良健吾)という幽霊が登場したり、萩原朔太郎の名前が飛び交ったりしますが、原作小説ではそうなっておりません。



c.老作家を慕う幽霊の田村ゆり子真木よう子)と赤子との関係が、本作では濃密に描かれています(注6)。



d.原作にも田村ゆり子以外の女性が何人か登場しますが、老作家の恋人のような存在〔本作における丸田丸子韓英恵)のような〕としては描かれておりません。
e.本作に登場する金魚屋の辰夫永瀬正敏)は中年男ですが、原作では「金魚屋のおじいさん」とされています(注7)。



 さて、こうした種々の改変の内問題と思われるのは(注8)、bのアクタガワと萩原朔太郎を本作が取り上げている点や、dの丸田丸子の登場ではないでしょうか。
 確かに、芥川龍之介などを本作に登場させて、彼らが老作家のことをどのように話しているのか(注9)を映画の中で描けば、老作家の文壇における位置づけなどがある程度見る者にわかるでしょう。
 でも、本作は原作者の室生犀星の伝記的映画ではないはずであり、室生犀星自身とされる老作家と芥川らとの関係など無用の知識ではないかと思われます(注10)。

 また、老作家の実際の生活ぶりを描き出すためには、丸田丸子のような恋人の存在は意味があることでしょう。ですが、老作家が赤子を創り出したのは、そうした若い女性との実際の恋がうまくできなくなくなったからではないでしょうか?本作における老作家と丸田丸子との関係は結局破綻してしまうとはいえ、彼女が当初からいるのであれば、老作家は赤子を創り出さなかったのではないでしょうか?

 総じて言えば、原作の小説はファンタジー的色彩が濃いにもかかわらず、本作はむしろいわゆる「私小説」的色彩を強めている感じがします(注11)。
 好みの問題でしょうが、原作が映画『赤い風船』(1956年)にインスパイアされて書かれているとされていることもあり(注12)、もっとファンタジー色を強めた映画作りも考えられるのでは、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「映画は、金魚の少女を、二階堂ふみが演じたことで“勝ったも同然”で、犀星自身を投影している作家を無邪気に翻弄する小悪魔ぶりがあまりにハマッている」として60点をつけています。
 山根貞男氏は、「奔放な魅力の二階堂ふみと、渋みで輝く大杉漣。この2俳優の組み合わせが絶妙で、めったに見られない演技合戦が楽しめる」と述べています。



(注1)監督は、『シャニダールの花』や『生きてるものはいないのか』の石井岳龍
 脚本は港岳彦
 原作は、室生犀星の『蜜のあわれ』(講談社学芸文庫←単行本出版当初の題名は『蜜のあはれ』)。

 なお、出演者の内、最近では、二階堂ふみは『この国の空』、大杉漣は『25 NJYU-GO』、真木よう子は『脳内ポイズンベリー』、高良健吾は『きみはいい子』、永瀬正敏は『あん』、韓英恵は『ペタル ダンス』(DVD)、渋川清彦は『お盆の弟』でそれぞれ見ました。

(注2)例えば、本文の(1)で見られるような千円札が登場するのは戦後のことでしょう。

(注3)劇場用パンフレット掲載の高瀬真理子氏のエッセイ「室生犀星と「蜜のあはれ」」では、「「蜜のあはれ」は、昭和34年『新潮』1月号から4月号にかけて連載された作品で、最終章を除いて、全編会話体のみで構成された老境の作家と金魚との恋愛譚である」と述べられているところ、「最終章を除いて」とあるのは理解できません。ここは文庫版の「解説」で久保忠夫氏が述べるように、「『蜜のあわれ』は全編対話で終止している稀有の作品である」と述べる必要があります(あるいは、高橋氏は「後記 炎の金魚」を「最終章」と取り違えたのかもしれませんが)。

(注4)例えば、文庫版のP.74では、老作家、赤子、子供達、金魚屋のおじいちゃんの話が入り乱れていますし(もちろん、見分けがつくように書かれていますが)、またP.77の末尾の会話は赤子が老作家に対して行っているものであるのに対し、それにすぐに続くP.78の冒頭の会話は、赤子が田村百合子に対して行っているものです。

(注5)原作の冒頭は、「おじさま、お早うございます」という赤子の会話で始まりますし、終わりは、赤子が行ってしまった田村ゆり子に向かって、「田村のおばさま、暖かくなったら、また、きっと、いらっしゃい」云々の会話で終わります。これに対し、本作の冒頭は、本文の(1)に書いたとおりですし、本作の最後は、死んでいく老作家の回想の中で赤子と老作家が踊るシーンです。

(注6)本作では、田村ゆり子の手首の傷を赤子が舐め続けていると、田村は赤子にくちづけをします。

(注7)他に、本作には、バーテン(渋川清彦)とか医師の小沢上田耕一)、酌婦(若井堂聖子)といった人物が登場しますが、原作には出てきません。

(注8)いうまでもなく、原作の実写化にあたっては、原作に様々の改変の手が加えられることは当然のことでしょう(原作と映画とは別の作品であり、原作に忠実な映画というだけでは意味がないように思います)。

(注9)アクタガワは、萩原朔太郎が老作家について「昔の方が良かった」と言っていたことを、老作家に伝えます。
 ちなみに、「俳人としての芥川龍之介と室生犀星」と題したエッセイ(1938年)で、萩原朔太郎は芥川龍之介と室生犀星の俳句を比較して論じています(その中には、「室生犀星氏は、性格的にも、芥川氏の対照に立つ文学者である。彼は知性の人でなくして感性の人であり、江戸ツ子的神経の都会人でなくして、粗野に逞しい精神をもつた自然人であり、不断に燃焼するパツシヨンによつて、主観の強い意志に生きてる行動人である」などという興味深いフレーズが見受けられます)

(注10)特に、いわゆる文壇が消滅して久しい今となっては。

(注11)何しろ、本作では、老作家の最後のシーンを描いているだけでなく(そのために、老作家の残り時間の少ないことを匂わせる会話を医師・小沢に前もってさせています)、幽霊の田村ゆり子と老作家の目が合うシーン、果ては丸田丸子との交情シーンまで描かれているのです(結局はうまく行きませんでしたが)。

(注12)文庫版掲載の「後記 炎の金魚」には、次のようなことが述べられています(P.182)。「「赤い風船」を見た後に、こういう美しい小事件が小説にかけないものか知ら」と、「1ヵ月くらい映画「赤い風船」に取り附かれ」たが、「日々の忙殺は「赤い風船」の喜びもまた私の頭からあと形もなく飛散して了った」。ところが、小説を書き終わってこの「後記」を書く段になって「赤い風船」のことを思い出し、「お前が知らずに書いた「蜜のあわれ」は偶然にお前の赤い風船ではなかったか」などと判った。



★★★☆☆☆



象のロケット:蜜のあわれ

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