『インサイド・ヘッド』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。
(1)本作は、『脳内ポイズンベリー』を見た際に、アメリカでも類似の映画があるとして取り上げられていたことから、興味を持っていました。
字幕版だからいきなり本作が映し出されることになるのだろう、と期待していたら、やっぱりそんなことはなく、まず監督の挨拶があり、次いでDREAMS COME TRUEの主題歌「愛しのライリー」が歌われ、そして日本人の顔の写真が次々と映し出され、最後に短編映画『南の島のラブソング(LAVA)』が上映された上で(注1)、やっとこさ本作となります。
本作(注2)の冒頭では、「人の頭のなか、どうなっているか知ってる?」とのナレーションがあって、赤ちゃんのライリーの顔が映しだされます。両親がライリーを覗き込みますが、まずライリーの頭の中にヨロコビ(Joy:黄色)の感情(emotion)が生まれ、頭の中の司令室(Headquarters)で彼女がボタンを押します。
すると、ライリーは笑い、黄色い玉(ball)が作られ、レールを転がります。それはどうやら記憶の玉のようです。
33秒経つとカナシミ(Sadness:青)が現れ、彼女がボタンを押すとライリーは泣き出します。
ついで、ライリーの頭の中の司令室には、イカリ(Anger:赤)、ビビリ(Fear:ラベンダー)、ムカムカ(Disgust:ライトグリーン)といった感情が登場してきます(注3)。
彼らがボタンを押すことで記憶の玉が作り出されますが、特別な記憶には特別な玉(core memories)が作られます。そして、それらはいくつかの島にまとめて蓄えられて(注4)、全体でライリーの個性(personality)が形成されます。
さて、ライリーは、米国中部のミネソタ州でずいぶんと楽しい生活を送ってきましたが(注5)、11歳の時に、父親の転職で、一家は西部のサンフランシスコに引っ越すことになります。
ライリーも転校せざるを得ず、その感情は大きな影響を受けることになります。
特に、それまでヨロコビは、カナシミがやたらと動き回らないよう注意を払ってきたのですが、どうも手に負えなくなってしまったようです。さあ、一体どんなことが起きるのでしょうか、………?
本作は、すぐ前に見た『脳内ポイズンベリー』とずいぶんと類似した設定がとられてはいるものの、主人公の年齢が同作に比べてずいぶんと幼いことなどいろいろ違いもあり、さらにアニメだけあって大層冒険心あふれる映像ともなっていて、それなりに楽しめる作品に仕上がっていると思いました。
(2)本作を見ると、どうしても『脳内ポイズンベリー』と比べたくなってしまいます。
例えば、『脳内ポイズンベリー』が実写であるのに対し本作はアニメですし、また『脳内ポイズンベリー』では、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考面を擬人化したキャラクターが登場するのに対し、本作では「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」といった感情面を擬人化したキャラクターが登場します。
さらに、上で申し上げたように、『脳内ポイズンベリー』の主人公(真木よう子)は30歳であり、これに対して本作の主人公(と言っても、真の主人公はヨロコビでしょう)は11歳とかなり幼いことから、『脳内ポイズンベリー』で引き起こされる事件が主人公をめぐる恋愛であるのに対して、本作ではライリー一家の引越しとなっています。
そんなところから、本作では、ヨロコビとカナシミの大冒険がなかなか面白いとはいえ(注6)、クマネズミとしては、やはり『脳内ポイズンベリー』に軍配を上げたくなってしまいます。
もう少し申し上げれば、
a.本作のように、それぞれの感情をキャラクターとして擬人化して描こうとすれば、これは『脳内ポイズンベリー』でも同じこととはいえ(注7)、それぞれのキャラクターが、ライリーと同じようにその頭の中にさらに5つの感情を持つことになってしまうのではないか、でもそれでは至極複雑なプロセスになってしまうのではないのか(その5つの感情が更にそれぞれ5つの感情を持つとしたら、…)、と思えます(注8)。
その上、本作では、ライリーのみならず、父親とか母親の脳内の状況をも描き出しているので、確かにその方が正確でしょうが、かなりうっとうしい感じがしてしまいます。
b.本作では、『脳内ポイズンベリー』で中心的な役割を果たしている「理性」(西島秀俊)が見当たりません。
この点は、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注11」で触れましたように、制作者たちが、もしかしたら、「理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張」したイギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒューム以来の考えに従っているのかもしれません。
でも、ヒュームの言うように、たとえ「理性は情念の奴隷である」としても(注9)、人の頭の中に「理性」が全然見当たらないわけのものでもないと思われます。
劇場用パンフレットに掲載されているエッセイ「感情は自分の思い通りにならない。だから感情たちの動きは面白い」において、筆者の心理学者・植木理恵氏は、「人は小学校5年生くらいになると、からだと共に、頭の中の機能も急速に発達します。その時、それまで物事を「好き」「嫌い」といった具体的かつ単純に全て解決できていたものが、急に「抽象的」な考えが頭の中に忍び込んでくる」と述べているところ、その“「抽象的」な考え”こそが「理性」の働きによるものではないでしょうか?
例えば、ライリーは家を出てミネソタに戻ろうとしますが、旅費がないために母親のハンドバッグからクレジットカードを盗んで、それで切符を買ってバスに乗り込みます。確かに、家出をしようという行為は感情によるものとしても、長距離バスの切符を購入するためにクレジットカードが必要だという判断、そしてそれを母親の目を盗んでハンドバッグから抜き取ってしまうという行為などは、理性的であり、客観的な冷静な認識に基づいたものではないでしょうか?
c.本作には、『脳内ポイズンベリー』でキャラクターとして登場している「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」も、キャラクターとしては見出されません。
ただし、「記憶」は、本作では玉となって貯蔵されていて、必要に応じて取り出せるシステムになっています。
また、もしかしたら、「ポジティブ」は「ヨロコビ」に、「ネガティブ」は「カナシミ」に相当するかもしれません。とはいえ、映画の中での「ポジティブ」「ネガティブ」は「思考」の一種であり、「感情」として描かれていないようにも思われます(注10)。
更に言えば、「衝動」が本作における「感情」全体に相当するのかもしれません(注11)。
それに、『脳内ポイズンベリー』には「本能」として「黒いちこ」が登場しますが、「本能」になると本作の範囲をはるかに超えたものといえるでしょう(注12)。
全体として本作の作りは大企業的で規模が壮大ではあるものの、中小企業的な感じが否めない『脳内ポイズンベリー』の方が、本作の及ぶ領域を超えてしまっているようにも思えるところです(注13)。
(3)渡まち子氏は、「頭の中の感情たちを主人公にしたファンタジー・アニメーション「インサイド・ヘッド」。映像も美しいが、何と言っても物語が深い」として80点をつけています。
前田有一氏は、「水城せとなの「脳内ポイズンベリー」を彼らがリサーチ済みだったかどうかはともかく、映画として先を越されてしまったのは事実。しかも、対象年齢が異なるとはいえ純粋なコメディーとしての面白さで、あちらより劣るのだから後発としては残念感が漂う」として60点をつけています。
藤原帰一氏は、「そう、これは人間にとって悲しみとは何かという、哲学的な問いを抱えた映画なのです。子ども向けのアニメで哲学、ですよ。すごいすごい」と述べています。
読売新聞の大木隆士氏は、「擬人化された感情が、冒険を繰り広げる。発想の卓抜さと巧みな話術に脱帽だ」が、「もちろん、感情は五つだけではない。人間の気持ちは、微妙で複雑な感情から成っている。テーマパークのような頭の中は明快だが、その分、深みには少々欠ける気がした」と述べています。
(注1)最近、各地の火山活動が活発化しているようにみえる日本においては、短編『LAVA』は、時宜にかなった作品と言えるかもしれません!
非常にセンスあふれるアニメと思いましたが(火山島と火山島との恋なんて!)、ただ舞台とされるのがハワイだとすると、「マントルの高温岩体の噴出口であるハワイ・ホットスポット上を海洋地殻が移動することにより形成したと考えられている」ことからしたら(Wikipedia)、このアニメのストーリーのようなことは起こりにくいのでは、と少々疑問を感じました。
(注2)監督・原案・脚本は、『カールじいさんの空飛ぶ家』のピ―ト・ドクター。
共同監督・原案はローニー・デル・カルメン。
原題は『Inside Out』。
なお、邦題のように「インサイド・ヘッド」とすると、「頭の内部」とはならずに「内部の頭」といった意味になって、よくわからなくなってしまうのではないでしょうか〔原題だと「裏返しにする」という意味で、頭の裏側を明らかにするといったような意味合いになるものと思われます(さらに、この原題について深読みしたければ、例えば、このサイトの記事のようにも考えられるでしょうが、クマネズミは、なにもそこまで考えることもないのではと思ってしまいます)〕
(注3)ムカムカについては「毒を防ぐ」(“She basically keeps Riley from being poison, physically and socially”)、イカリについては「不公平が我慢ならない」(“He cares very deeply about things being fair”)、ビビリについては「危険から身を守る」(“He's really good at keeping Riley safe”)、などと説明されます。
(注4)司令室の窓から見ると、『家族島(Family Island)』、『正直島(Honesty Island)』、『ふざけ島(Goofball Island)』、『ホッケー島(Hockey Island)』、『友情島(Friendship Island)』といったものが見えます。
ただ、これらの島からライリーの個性が形成されているとすると、彼女は嘘も吐かないし意地悪もしない極めて品行方正な女の子ということになりますが、いくら11歳だとしてもそんなものでしょうか?
(注5)ヨロコビの頑張りによって、頭の中の貯蔵所には、黄色い記憶の玉がずいぶんとたくさん蓄えられています。
(注6)その冒険を通して、ヨロコビは、それまでよそよそしく対処してきたカナシミの存在意義を見出して、感情の5つのキャラクターが一致団結するようになるのですから、ストーリーとしてなかなか良く出来ているなと思いました。
(注7)『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「(2)ロ」をご覧ください。
(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、プロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「もしもそれぞれのキャラクターがひとつの感情しか持ち合わせていなかったら、90分の映画として物語を語れなかったと思います」と述べています。
(注9)このヒュームの言明について、立命館大学教授・伊勢俊彦氏は、論文「ヒュームの情念論における人格と因果性」(このURL)において、「この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた」が、「情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである」と述べています。
(注10)尤も、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注6」で触れましたように、それらを「感情」とみなす評者も存在しますが。
(注11)ただ、『脳内ポイズンベリー』における「衝動」の役割が小さいために、よくわかりませんが。
(注12)例えば、本作においては、赤ん坊が泣くのはカナシミが登場してボタンを押すからだとされていますが、それよりも「本能」に従って泣いているのだ、とする方がしっくりするのですが。
(注13)ただし、このサイトの記事によれば、上記の「注8」で触れたプロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「この映画は、心の中が舞台であって、頭の中が舞台ではありません」と言っています。
すなわち、記者に従えば、「本作のタイトルは『インサイド・ヘッド(頭の中)』だが、ピクサーのフィルムメイカーが描こうとしたのはヘッドではなく心」であり、例えば、「“考えの列車”は、頭の中を走っている乗り物で、ライリーの思考はこの列車に乗って、彼女の感情や行動を決める司令部にやってくる」というわけです〔このサイトの記事によれば、“考えの列車”(train of thought)とは、頭の中を走り回って、空想や事実、意見、記憶といったものを運搬している列車のようです〕。
確かに、そうであれば、『脳内ポイズンベリー』のように「理性」がキャラクター化されていないのもわからないわけではありません。
でも、こうした見解によれば、時折“考えの列車”によって運ばれてくる「思考」を踏まえて、5つの感情が司令室で行動のボタンを押すことになるわけでしょうが、心と精神との関係とはそんなものなのでしょうか?
★★★☆☆☆
象のロケット:インサイド・ヘッド
(1)本作は、『脳内ポイズンベリー』を見た際に、アメリカでも類似の映画があるとして取り上げられていたことから、興味を持っていました。
字幕版だからいきなり本作が映し出されることになるのだろう、と期待していたら、やっぱりそんなことはなく、まず監督の挨拶があり、次いでDREAMS COME TRUEの主題歌「愛しのライリー」が歌われ、そして日本人の顔の写真が次々と映し出され、最後に短編映画『南の島のラブソング(LAVA)』が上映された上で(注1)、やっとこさ本作となります。
本作(注2)の冒頭では、「人の頭のなか、どうなっているか知ってる?」とのナレーションがあって、赤ちゃんのライリーの顔が映しだされます。両親がライリーを覗き込みますが、まずライリーの頭の中にヨロコビ(Joy:黄色)の感情(emotion)が生まれ、頭の中の司令室(Headquarters)で彼女がボタンを押します。
すると、ライリーは笑い、黄色い玉(ball)が作られ、レールを転がります。それはどうやら記憶の玉のようです。
33秒経つとカナシミ(Sadness:青)が現れ、彼女がボタンを押すとライリーは泣き出します。
ついで、ライリーの頭の中の司令室には、イカリ(Anger:赤)、ビビリ(Fear:ラベンダー)、ムカムカ(Disgust:ライトグリーン)といった感情が登場してきます(注3)。
彼らがボタンを押すことで記憶の玉が作り出されますが、特別な記憶には特別な玉(core memories)が作られます。そして、それらはいくつかの島にまとめて蓄えられて(注4)、全体でライリーの個性(personality)が形成されます。
さて、ライリーは、米国中部のミネソタ州でずいぶんと楽しい生活を送ってきましたが(注5)、11歳の時に、父親の転職で、一家は西部のサンフランシスコに引っ越すことになります。
ライリーも転校せざるを得ず、その感情は大きな影響を受けることになります。
特に、それまでヨロコビは、カナシミがやたらと動き回らないよう注意を払ってきたのですが、どうも手に負えなくなってしまったようです。さあ、一体どんなことが起きるのでしょうか、………?
本作は、すぐ前に見た『脳内ポイズンベリー』とずいぶんと類似した設定がとられてはいるものの、主人公の年齢が同作に比べてずいぶんと幼いことなどいろいろ違いもあり、さらにアニメだけあって大層冒険心あふれる映像ともなっていて、それなりに楽しめる作品に仕上がっていると思いました。
(2)本作を見ると、どうしても『脳内ポイズンベリー』と比べたくなってしまいます。
例えば、『脳内ポイズンベリー』が実写であるのに対し本作はアニメですし、また『脳内ポイズンベリー』では、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考面を擬人化したキャラクターが登場するのに対し、本作では「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」といった感情面を擬人化したキャラクターが登場します。
さらに、上で申し上げたように、『脳内ポイズンベリー』の主人公(真木よう子)は30歳であり、これに対して本作の主人公(と言っても、真の主人公はヨロコビでしょう)は11歳とかなり幼いことから、『脳内ポイズンベリー』で引き起こされる事件が主人公をめぐる恋愛であるのに対して、本作ではライリー一家の引越しとなっています。
そんなところから、本作では、ヨロコビとカナシミの大冒険がなかなか面白いとはいえ(注6)、クマネズミとしては、やはり『脳内ポイズンベリー』に軍配を上げたくなってしまいます。
もう少し申し上げれば、
a.本作のように、それぞれの感情をキャラクターとして擬人化して描こうとすれば、これは『脳内ポイズンベリー』でも同じこととはいえ(注7)、それぞれのキャラクターが、ライリーと同じようにその頭の中にさらに5つの感情を持つことになってしまうのではないか、でもそれでは至極複雑なプロセスになってしまうのではないのか(その5つの感情が更にそれぞれ5つの感情を持つとしたら、…)、と思えます(注8)。
その上、本作では、ライリーのみならず、父親とか母親の脳内の状況をも描き出しているので、確かにその方が正確でしょうが、かなりうっとうしい感じがしてしまいます。
b.本作では、『脳内ポイズンベリー』で中心的な役割を果たしている「理性」(西島秀俊)が見当たりません。
この点は、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注11」で触れましたように、制作者たちが、もしかしたら、「理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張」したイギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒューム以来の考えに従っているのかもしれません。
でも、ヒュームの言うように、たとえ「理性は情念の奴隷である」としても(注9)、人の頭の中に「理性」が全然見当たらないわけのものでもないと思われます。
劇場用パンフレットに掲載されているエッセイ「感情は自分の思い通りにならない。だから感情たちの動きは面白い」において、筆者の心理学者・植木理恵氏は、「人は小学校5年生くらいになると、からだと共に、頭の中の機能も急速に発達します。その時、それまで物事を「好き」「嫌い」といった具体的かつ単純に全て解決できていたものが、急に「抽象的」な考えが頭の中に忍び込んでくる」と述べているところ、その“「抽象的」な考え”こそが「理性」の働きによるものではないでしょうか?
例えば、ライリーは家を出てミネソタに戻ろうとしますが、旅費がないために母親のハンドバッグからクレジットカードを盗んで、それで切符を買ってバスに乗り込みます。確かに、家出をしようという行為は感情によるものとしても、長距離バスの切符を購入するためにクレジットカードが必要だという判断、そしてそれを母親の目を盗んでハンドバッグから抜き取ってしまうという行為などは、理性的であり、客観的な冷静な認識に基づいたものではないでしょうか?
c.本作には、『脳内ポイズンベリー』でキャラクターとして登場している「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」も、キャラクターとしては見出されません。
ただし、「記憶」は、本作では玉となって貯蔵されていて、必要に応じて取り出せるシステムになっています。
また、もしかしたら、「ポジティブ」は「ヨロコビ」に、「ネガティブ」は「カナシミ」に相当するかもしれません。とはいえ、映画の中での「ポジティブ」「ネガティブ」は「思考」の一種であり、「感情」として描かれていないようにも思われます(注10)。
更に言えば、「衝動」が本作における「感情」全体に相当するのかもしれません(注11)。
それに、『脳内ポイズンベリー』には「本能」として「黒いちこ」が登場しますが、「本能」になると本作の範囲をはるかに超えたものといえるでしょう(注12)。
全体として本作の作りは大企業的で規模が壮大ではあるものの、中小企業的な感じが否めない『脳内ポイズンベリー』の方が、本作の及ぶ領域を超えてしまっているようにも思えるところです(注13)。
(3)渡まち子氏は、「頭の中の感情たちを主人公にしたファンタジー・アニメーション「インサイド・ヘッド」。映像も美しいが、何と言っても物語が深い」として80点をつけています。
前田有一氏は、「水城せとなの「脳内ポイズンベリー」を彼らがリサーチ済みだったかどうかはともかく、映画として先を越されてしまったのは事実。しかも、対象年齢が異なるとはいえ純粋なコメディーとしての面白さで、あちらより劣るのだから後発としては残念感が漂う」として60点をつけています。
藤原帰一氏は、「そう、これは人間にとって悲しみとは何かという、哲学的な問いを抱えた映画なのです。子ども向けのアニメで哲学、ですよ。すごいすごい」と述べています。
読売新聞の大木隆士氏は、「擬人化された感情が、冒険を繰り広げる。発想の卓抜さと巧みな話術に脱帽だ」が、「もちろん、感情は五つだけではない。人間の気持ちは、微妙で複雑な感情から成っている。テーマパークのような頭の中は明快だが、その分、深みには少々欠ける気がした」と述べています。
(注1)最近、各地の火山活動が活発化しているようにみえる日本においては、短編『LAVA』は、時宜にかなった作品と言えるかもしれません!
非常にセンスあふれるアニメと思いましたが(火山島と火山島との恋なんて!)、ただ舞台とされるのがハワイだとすると、「マントルの高温岩体の噴出口であるハワイ・ホットスポット上を海洋地殻が移動することにより形成したと考えられている」ことからしたら(Wikipedia)、このアニメのストーリーのようなことは起こりにくいのでは、と少々疑問を感じました。
(注2)監督・原案・脚本は、『カールじいさんの空飛ぶ家』のピ―ト・ドクター。
共同監督・原案はローニー・デル・カルメン。
原題は『Inside Out』。
なお、邦題のように「インサイド・ヘッド」とすると、「頭の内部」とはならずに「内部の頭」といった意味になって、よくわからなくなってしまうのではないでしょうか〔原題だと「裏返しにする」という意味で、頭の裏側を明らかにするといったような意味合いになるものと思われます(さらに、この原題について深読みしたければ、例えば、このサイトの記事のようにも考えられるでしょうが、クマネズミは、なにもそこまで考えることもないのではと思ってしまいます)〕
(注3)ムカムカについては「毒を防ぐ」(“She basically keeps Riley from being poison, physically and socially”)、イカリについては「不公平が我慢ならない」(“He cares very deeply about things being fair”)、ビビリについては「危険から身を守る」(“He's really good at keeping Riley safe”)、などと説明されます。
(注4)司令室の窓から見ると、『家族島(Family Island)』、『正直島(Honesty Island)』、『ふざけ島(Goofball Island)』、『ホッケー島(Hockey Island)』、『友情島(Friendship Island)』といったものが見えます。
ただ、これらの島からライリーの個性が形成されているとすると、彼女は嘘も吐かないし意地悪もしない極めて品行方正な女の子ということになりますが、いくら11歳だとしてもそんなものでしょうか?
(注5)ヨロコビの頑張りによって、頭の中の貯蔵所には、黄色い記憶の玉がずいぶんとたくさん蓄えられています。
(注6)その冒険を通して、ヨロコビは、それまでよそよそしく対処してきたカナシミの存在意義を見出して、感情の5つのキャラクターが一致団結するようになるのですから、ストーリーとしてなかなか良く出来ているなと思いました。
(注7)『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「(2)ロ」をご覧ください。
(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、プロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「もしもそれぞれのキャラクターがひとつの感情しか持ち合わせていなかったら、90分の映画として物語を語れなかったと思います」と述べています。
(注9)このヒュームの言明について、立命館大学教授・伊勢俊彦氏は、論文「ヒュームの情念論における人格と因果性」(このURL)において、「この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた」が、「情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである」と述べています。
(注10)尤も、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注6」で触れましたように、それらを「感情」とみなす評者も存在しますが。
(注11)ただ、『脳内ポイズンベリー』における「衝動」の役割が小さいために、よくわかりませんが。
(注12)例えば、本作においては、赤ん坊が泣くのはカナシミが登場してボタンを押すからだとされていますが、それよりも「本能」に従って泣いているのだ、とする方がしっくりするのですが。
(注13)ただし、このサイトの記事によれば、上記の「注8」で触れたプロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「この映画は、心の中が舞台であって、頭の中が舞台ではありません」と言っています。
すなわち、記者に従えば、「本作のタイトルは『インサイド・ヘッド(頭の中)』だが、ピクサーのフィルムメイカーが描こうとしたのはヘッドではなく心」であり、例えば、「“考えの列車”は、頭の中を走っている乗り物で、ライリーの思考はこの列車に乗って、彼女の感情や行動を決める司令部にやってくる」というわけです〔このサイトの記事によれば、“考えの列車”(train of thought)とは、頭の中を走り回って、空想や事実、意見、記憶といったものを運搬している列車のようです〕。
確かに、そうであれば、『脳内ポイズンベリー』のように「理性」がキャラクター化されていないのもわからないわけではありません。
でも、こうした見解によれば、時折“考えの列車”によって運ばれてくる「思考」を踏まえて、5つの感情が司令室で行動のボタンを押すことになるわけでしょうが、心と精神との関係とはそんなものなのでしょうか?
★★★☆☆☆
象のロケット:インサイド・ヘッド
方や恋愛映画、こちらは対象が子供という事に見えますが、CGの作画だけが子供対象で内容は子供にはちょっと難しい感じがしました。
ピクサーは最近快活さがちょっと薄れて、高みを求めすぎてきている気がします。
アニメ本来のもっと楽しく夢を持った作品路線がいいのでは?
TBお願いします。
おっしゃるように、本作では「潜在意識」などまで登場しますから、「CGの作画だけが子供対象で内容は子供にはちょっと難しい」かもしれませんね。
「脳内ポイズンベリー」の黒いちこに値するキャラを出すためにはライリーが離婚した母親に近づく男を誘惑するみたいな設定にしないとダメそうなのだけど、その設定ってどう考えても児童ポルノだから、アメリカではキツイですね。
おっしゃるように、映画の「黒いちこ」のような姿形になって「本能」が登場するのは、ライリーがもっと大人になってからでないと無理でしょう!
ただ、「黒いちこ」にも幼児期があって、それが例えば赤ん坊時のいちこの夜泣きを引き起こさせたのではないでしょうか?
「脳内ポイズンペリー」と違い「理性」が出てこなかったことについてのヒュームを引っ張って来ての考察、さすがと思いました。腑に落ちました。ありがとうございます。
別の見方をすると、この作品は私にとって「子育て究極あるあるネタ」でしたので、「理性」は必要なかったかもです(笑)。
おっしゃるとおりかもしれませんが、最近の子供達のこまっしゃくれぶりを見ていると、もしかしたら幼児だって、それなりの「理性」が芽生えているかもしれません?!