駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

医療でのリエゾンの大切さ

2016年02月28日 | 診療

        

 街中に医院を開いてもうすぐ27年目になる。二十年以上続けて診ている患者さんも多い。そうした患者さんの中には通院出来なくなり、やがて寝たきりになって家で亡くなられる方もおられる。

 こうした場合は、高齢でもあるし患者さん家族とも気心が知れているので、自然に在宅で看取ることが出来る。しかし、癌の末期で、つい先日まで総合病院で抗がん剤治療(通院あるいは入院)をしていたのだが、効果がなく弱ってこられ自宅での看取りを希望される場合には、紆余曲折があることも少なからずある。

 先ず抗がん剤が効かなくなり死期が迫っていることを、ご本人は恐らくなんとなく分かっておられるのだろうが、それを家に帰りたいあるいはもう病院は嫌としか表現されないので、結局家族が斟酌してあの時ああ言っていたからとか病院を嫌がるのだからと病院の主治医と相談して、在宅でお願いしますと紹介されてくる。送ってこられる総合病院の医師とは親しい場合が多いし少なくとも顔見知りなので、医学的な受け渡しには問題は少ないのだが、見知らぬ家族や患者さんとの出会いには戸惑うことも多い。

 先ず患者さんは相当弱っておられ、返事は出来るが会話は難しく、歩けなくなっていることが多い。そうした場合一週間もすると食べ物が喉を通らなくなり、帰ってきて十日二週間で亡くなって仕舞う。数回しか往診診察できていないこともあり、家族とさほど親しくなれず、まして患者さんとは碌に話したこともないわけで、どうしても不全感が残る。やはり、一ヶ月ないとこうした終わり方で良かったと見送ることは難しい。

 緩和ケアの医師は別にして、癌と闘っている医師はどうしても死を治療する心構えが不十分で、全く悪気はないのだが、もう打つ手がないのでと店じまいをされてしまう。看取ろうとする医師医療者との間のリエゾンが欠けているのだ。恐らく何とかして一日でも長くと戦う姿勢と、槍や矛を収め静かに見送ろうとする姿勢の共存は難しいのだろうと思う。

市井で患者の生涯と付きあっている臨床医としては、もう少し早く避けられない死を視野に入れた医療をと考えてしまう。今はかなり改善されてきたが、総合病院と街中の医院は対等な関係が築きにくかった事情もある。世の中が変わって来ているので、もう少し積極的に発言しようと考えている。

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2 コメント

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ホスピス (Mrs.W)
2016-02-29 04:38:36
家に帰りたいと言うお気持ちはわかりますが、
末期の患者さんと御家族が少しでも安らげる様に
ホスピスが必要かなぁと思ったりします。
ドクター達が手を尽くして下さった後は
心のケアーへとでしょうか...?
宗教心の強いコチラでは死後も天国へと言う気持ちがあるので、考え方も大分違うのでしょうけど。

P.S.
暖かいコメントありがとうございました。
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違うようです (arz2bee)
2016-02-29 11:43:54
 日本にもホスピスはありますがそれほど多くなく、選択される方は少ないです。
 患者さんはなぜか自宅へ帰りたいという方が比較的多く、そうした患者さんを引き受けています。
 心のケアーはなかなか難しく、ただお話することが殆どです。
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