昨年6月に出版された畑中章宏著「廃仏毀釈ー寺院、仏像破壊の真実」(筑摩新書)を読んで、「神宮寺」について知ったことは収穫の一つだった。まず著作の中で廃仏毀釈の典型として取り上げられていたのは、延暦寺との関係がある日吉社(大津市)、薩摩藩、離島の隠岐、松本藩と苗木藩(中津川市)だった。廃仏意識は儒学者や国学者によって江戸の後期から準備されており、幕末に至っていっそう強まり、とくに水戸藩や薩摩藩では過激な寺院整理がなされていた。
6世紀に仏教が伝来し、平安時代には神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れたものであると考えられていた。神と仏は一体(神仏習合)であり、神社に隣り合わせてつぎつぎに「神宮寺」が建立されていった。伊勢神宮にも神宮寺があり、神宮の周辺にも数多くの寺院が立ちならんでいたが、ことごとく廃寺に追い込まれた。住吉大社には社務所の裏に「住吉神宮寺跡」の小さな石碑が立つのみだ。また鶴岡八幡宮寺にあった大塔なども取り除かれた。
一方的な被害者であるかのように描かれることもある仏教の側に非はなかったかも問い直す必要があると指摘する。廃仏毀釈では日本の神でも仏教の仏でもない境界的な性格の「権現」と「牛頭(ごず)天王」が矢面に立たされた。その結果権現を祀る山岳信仰は大きな打撃をこうむり、牛頭天王はスサノオに改められた。権現を信仰してきたところは神社になり、仏教色は排され修験道はその姿を一変させたという。
太平洋戦争の敗戦により明治国家体制が終焉を迎えたときに、分離を習合に戻すこともあり得た。仏教が忍従とともに苦境を乗り越えたこともあり、このことが根底的に問い直されることはほとんどなかった。それが分離の状態を自明のように思わせてしまっているという。廃仏毀釈を訓読みすれば「仏を排して釈を毀(そし)る」だ。読後に郷里の薩摩藩における廃仏毀釈について、さらに詳しく知りたいと思った。