気心の知れた人達が久しぶりに集まった。集まりを始める前にメンバーの一人が最近偶然知り合ったという我が家の近くの個人宅に山野草盆栽の見学に連れ出してくれた。近くに住みながら私はこのお宅に気付いていない。2名は日が暮れて駆けつけることになっているので見学できたのは6名である。バス道路に面したお宅の敷地一面は数え切れない山野草で埋め尽くされている。四方のブロック塀の上も、南に面した一部屋も山野草に占拠されている。
私の知らない世界だった。山野草を育てているのは私達と同年輩の女性だ。関西から引っ越してきたこの家は借家だという。特に畳の部屋にある作品群は見事だった。招き入れられて菓子と抹茶をいただく。種苗を欲しがる者には封筒にその山野草名を記して渡してくださる。無報酬でもてなしてくださる女主人が不思議に思える。山野草を育てている長い静かな彼女の時間のことを思った。そして時折訪問客を迎え入れるのだ。
清々しい気分で引き揚げてさっそく宴の準備が始まった。持ち寄った食材が多すぎて混乱している。手持ち無沙汰の男どもは祭りでも宴でも始まるまでのこの時間がいいのだなどと言い合っている。そしてそれもいつか終わる時が来るのだと感傷的な物言いをしながら待つ。
このように年に二、三回集まるメンバーがいることはありがたいことだ。そうしたにぎやかな談笑の後で我が家に一人だけ取り残されて夜を迎えた。さすがにその落差に戸惑う。以前は祭りの後などは寂寥感にさいなまされることなどあったが今はそのようなことは無い。一人だけで静かに過ごす時はいいものだ。西行や円空や芭蕉や良寛さんなどはわび住まいの達人ではないかと考える。わび住まい良きかな。山野草を育てる心も少しはこのこととどこか通じているような気がしている。