杉並さんぽの途中、区立図書館の建物が黒川紀章と知り見物に寄ったらガンジー像を見つけた。図書館の地下にはガンジーとチャンドラ・ボースの展示があり、興味深く見学。その時に杉並区和田3丁目の蓮光寺にチャンドラ・ボース胸像もあるのを知る。
和田ってどこにあるの?杉並区に土地勘がなく図書館では諦めたのですが、さんぽの途中角川庭園でいただいたすぎなみ景観ある区見マップ和田・堀ノ内編を眺めてたら、蚕糸の森公園と妙法寺の途中に蓮光寺チャンドラ・ボース像と書かれてるのを見つけました。ラッキー!
15時50分、蓮光寺到着。
本堂の階段横にチャンドラ・ボース像があった。
説明板発見:蓮光寺
当寺は、頂光山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊です。
「文政寺社書上」によれば開創は、文録3年(1594)、両国矢ノ倉(現中央区東日本橋)で、開基は、源受院日宝と言われています。
正保元年(1644)には、朝倉新寺町(現台東区元浅草)に、境内地を拝領して移転し、境内には円理院・受教院・専玄房などがあり、寺運の隆盛があったと伝えられますが、文化3年(1806)に、火災により焼失したので、詳細なことは明らかではありません。
当寺で有名な「開運大黒天」は、浅草新寺町時代の地名の俗称にちなんで、通称「土富店の大黒天」とも言われ、江戸庶民の信仰をあつめました。
この「大黒天」は、当初、日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫ったものと伝えられております。また、開基日宝が、小湊巡錫の折に、庄屋の娘の難産に会い、祈祷して助けました。その際に、床柱が光を発しこの家に伝来、不明となっていた「大黒天」が再び発見され、これをもらう受けて江戸に持ち帰り、蓮光寺建立の際、奉安したものと伝えられます。
本寺は、江戸時代旗本寺としても、栄ました。なお昭和50年記念碑としてネタジ・スバス。チャンドラボースの碑が建立されています。
胸像の後ろに「当寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸福とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ、プラサット大統領
仏陀の使命が人類に平和をもたらすように祈ります
1957年10月13日ジャワハルラル、ネルー首相
御仏の光が「真心と平和に向かって人々のために永久に永遠を導かれんことを
1963年6月26日 インディラ、ガンジー首相」
もう1枚
「インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュ チャンドラボースの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います 2001年12月9日 パジパイ首相」
ヒンズー語だと思うけども、パジパイ首相の言葉が彫られてます。
記念ノートが置いてあって、何の気なしにページをめくると、参拝に訪れた英語とヒンズー語で埋まってました。
「たぶんヒンズー語」と書いてるのは訳があって、ヒンドゥー語はインドの人々の18%の母語です。ヒンドゥー語を話す人でも30%ほど。公用語も一応ヒンドゥー語ですが、22の言語は普通に使われていて、お札にも多くの言語が印刷されています。ノートの文字を見てもそれがどの言語か私には判別できませんでした。
よっぽどノートを撮影しようか?と思ったのですが、おそらく参拝者の気持ちが書いてあるので自重しました。
ところで、スバス・チャンドラ・ボースさんをご存知ですか?
WIKIによりますと、イギリス領インド帝国ベンガル州生まれ。生没年:1897年−1945年8月18日(48歳没)。没地:台湾台北市 信教:ヒンドゥー教
インドの独立運動家です。
当初はガンジーと一緒にイギリスからのインド独立の活動をしてました。しかし、無抵抗主義を貫くガンジーと袂を分かち、やがてドイツのヒトラーやムッソリーニと連携してインドの独立を進めようとしたものの挫折。次は社会主義思想のソ連と。そして枢軸国の一つで独立を保っている日本へ。
マレー作戦の後、インド国民軍はインドの軍事的方法による解放を目指して、日本軍によるインパール作戦に参加。インパール侵攻失敗後、インド国民軍は主にビルマで連合軍と戦った。
1945年8月15日日本の敗戦で、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となり、ボースは延安で中国共産党と協力を得るか、ソ連と協力するためにソ連が占領した満州へ向かおうとした。
1945年8月18日午後2時、ボースは台湾の松山空港から大連へ向かう予定の爆撃機に乗り込んだ。しかし離陸直線に機体が故障で落ちた。全身おおやけどを多い台北の日本陸軍病院へ。
遺体を東京に送るように命じられたが、夏季の上にやけどの損傷が激しく、現地で火葬。
1945年9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれた。
9月18日、蓮光寺で葬儀が行わた。
ちなみに遺骨は蓮光寺に保存されていたが、2006年にボースの兄の孫に返還されている。」
とありました。
ふと疑問に思うのは、ヒンドゥー教徒って火葬したら遺灰をガンジス河に流すのが作法だよね。すでに遺骨は返還されたようですが、長らく蓮光寺に置いてたのはどうなんだろうなあ〜?インド旅行したら、日本で一番有名なインド人、ガンジーさんのお墓もなかったんだよね。もちろんガンジーさんの遺灰も死後ガンジス河に流されたとガイドさんが言ってました。ええ。
だから、飛行機事故死は陰謀で、ボースさんは生きてソ連に向かった!という説もあるようで。
悩んでも仕方ないので、次行ってみよう。
和田ってどこにあるの?杉並区に土地勘がなく図書館では諦めたのですが、さんぽの途中角川庭園でいただいたすぎなみ景観ある区見マップ和田・堀ノ内編を眺めてたら、蚕糸の森公園と妙法寺の途中に蓮光寺チャンドラ・ボース像と書かれてるのを見つけました。ラッキー!
15時50分、蓮光寺到着。
本堂の階段横にチャンドラ・ボース像があった。
説明板発見:蓮光寺
当寺は、頂光山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊です。
「文政寺社書上」によれば開創は、文録3年(1594)、両国矢ノ倉(現中央区東日本橋)で、開基は、源受院日宝と言われています。
正保元年(1644)には、朝倉新寺町(現台東区元浅草)に、境内地を拝領して移転し、境内には円理院・受教院・専玄房などがあり、寺運の隆盛があったと伝えられますが、文化3年(1806)に、火災により焼失したので、詳細なことは明らかではありません。
当寺で有名な「開運大黒天」は、浅草新寺町時代の地名の俗称にちなんで、通称「土富店の大黒天」とも言われ、江戸庶民の信仰をあつめました。
この「大黒天」は、当初、日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫ったものと伝えられております。また、開基日宝が、小湊巡錫の折に、庄屋の娘の難産に会い、祈祷して助けました。その際に、床柱が光を発しこの家に伝来、不明となっていた「大黒天」が再び発見され、これをもらう受けて江戸に持ち帰り、蓮光寺建立の際、奉安したものと伝えられます。
本寺は、江戸時代旗本寺としても、栄ました。なお昭和50年記念碑としてネタジ・スバス。チャンドラボースの碑が建立されています。
胸像の後ろに「当寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸福とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ、プラサット大統領
仏陀の使命が人類に平和をもたらすように祈ります
1957年10月13日ジャワハルラル、ネルー首相
御仏の光が「真心と平和に向かって人々のために永久に永遠を導かれんことを
1963年6月26日 インディラ、ガンジー首相」
もう1枚
「インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュ チャンドラボースの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います 2001年12月9日 パジパイ首相」
ヒンズー語だと思うけども、パジパイ首相の言葉が彫られてます。
記念ノートが置いてあって、何の気なしにページをめくると、参拝に訪れた英語とヒンズー語で埋まってました。
「たぶんヒンズー語」と書いてるのは訳があって、ヒンドゥー語はインドの人々の18%の母語です。ヒンドゥー語を話す人でも30%ほど。公用語も一応ヒンドゥー語ですが、22の言語は普通に使われていて、お札にも多くの言語が印刷されています。ノートの文字を見てもそれがどの言語か私には判別できませんでした。
よっぽどノートを撮影しようか?と思ったのですが、おそらく参拝者の気持ちが書いてあるので自重しました。
ところで、スバス・チャンドラ・ボースさんをご存知ですか?
WIKIによりますと、イギリス領インド帝国ベンガル州生まれ。生没年:1897年−1945年8月18日(48歳没)。没地:台湾台北市 信教:ヒンドゥー教
インドの独立運動家です。
当初はガンジーと一緒にイギリスからのインド独立の活動をしてました。しかし、無抵抗主義を貫くガンジーと袂を分かち、やがてドイツのヒトラーやムッソリーニと連携してインドの独立を進めようとしたものの挫折。次は社会主義思想のソ連と。そして枢軸国の一つで独立を保っている日本へ。
マレー作戦の後、インド国民軍はインドの軍事的方法による解放を目指して、日本軍によるインパール作戦に参加。インパール侵攻失敗後、インド国民軍は主にビルマで連合軍と戦った。
1945年8月15日日本の敗戦で、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となり、ボースは延安で中国共産党と協力を得るか、ソ連と協力するためにソ連が占領した満州へ向かおうとした。
1945年8月18日午後2時、ボースは台湾の松山空港から大連へ向かう予定の爆撃機に乗り込んだ。しかし離陸直線に機体が故障で落ちた。全身おおやけどを多い台北の日本陸軍病院へ。
遺体を東京に送るように命じられたが、夏季の上にやけどの損傷が激しく、現地で火葬。
1945年9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれた。
9月18日、蓮光寺で葬儀が行わた。
ちなみに遺骨は蓮光寺に保存されていたが、2006年にボースの兄の孫に返還されている。」
とありました。
ふと疑問に思うのは、ヒンドゥー教徒って火葬したら遺灰をガンジス河に流すのが作法だよね。すでに遺骨は返還されたようですが、長らく蓮光寺に置いてたのはどうなんだろうなあ〜?インド旅行したら、日本で一番有名なインド人、ガンジーさんのお墓もなかったんだよね。もちろんガンジーさんの遺灰も死後ガンジス河に流されたとガイドさんが言ってました。ええ。
だから、飛行機事故死は陰謀で、ボースさんは生きてソ連に向かった!という説もあるようで。
悩んでも仕方ないので、次行ってみよう。
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