あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

多摩霊園、坂の上の雲の登場人物の墓所巡り

2015年04月12日 00時34分59秒 | 墓所巡り
多摩霊園はとても広い。ようやく着いたものの、空模様はますます怪しい。これは~私でも知ってる人に限ってまわろう!
ついでに周る順番も最短コースでっ!!

山本五十六のお墓。(所在:7区ー特種ー1側ー2番)
山本五十六は、日本海海戦で負傷した若き日の名将。 彼が生まれた時、父親が56才だったから「五十六」と命名された。
日露戦争では、少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に乗艦。敵砲弾の炸裂により、左手の人差し指と中指を欠損。左大腿部に重傷をおう。

東郷平八郎のお墓(所在:7区ー特種ー1側ー1番)
東郷平八郎は、日露戦争の連合艦隊司令長官として旗艦の「三笠」に乗艦。ロシアのバルチック艦隊を撃破。
当初は青山霊園に埋葬する予定だったが、広い敷地が見つからず、急遽多摩霊園に変更。それ以降、元帥と同じ場所に眠りたいという者が増え、多摩霊園の人気が急上昇した。
ちなみに、山本五十六と東郷平八郎の墓は隣り合わせにあります。探すの簡単でしたっ!

西郷従道(さいごうつぐみち)のお墓。(所在:10区ー1種ー1側-1番)
西郷隆盛の実弟で、名は「じゅうどう」とも呼ばれる。第一次伊藤博文内閣の海相に就任以降、海軍の整備や改革に尽力。海軍大臣時代、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜粋して大いに腕を振るわせ、結果的に日本海軍を日清・日露の勝利に導いた。
ところで…。記事を書くにあたり、iPhotoで画像を拡大して気付いたのですが、上の画像は西郷家のお墓ではありますが、従道のお墓しゃなかったかも?墓石に名前が刻まれてません。ここは敷地の入口に鍵扉があって中に入って確認出来なかったのね。つーか、この時前のメガネをかけてたからして、墓石が読めなかったんだよね。失敗でした。たぶん西郷家の墓石の90度隣に従道のお墓もあったと思うんだ。
次は…。

黒木為禎(くろきためもと)のお墓。(所在:8区-1種-2側ー15番)
日露戦争では、第1軍司令官として鴨緑江から奉天まで連戦し、ロシア軍からはクロキンスキーと畏怖された。猪突猛進の気質が禍いして、長州閥の軍中央部のうけが悪く、鹿児島出身の黒木は元帥になれなかったそうです。

高橋是清のお墓。(所在:8区ー1種ー2側-16番)
共立学校路ダイアの正岡子規や秋山真之の英語教師。
日露戦争前後は日銀の副総裁で、イギリスに駐在して戦費の調達に奔走。苦心の末、8億2000万円の外貨募集に成功。
たしか、以前小金井の江戸東京たてもの園を訪問した時に、是清の屋敷を見学しました。
高橋是清邸(2011年5月19日)の画像
その時に、主屋部分は多摩霊園の休憩所に移築された後、たてもの園に移築されたというのを知りました。
ちなみに、黒木為禎と高橋是清のお墓も隣り合わせに立っていて、見つけ易かったです。

西園寺公望のお墓。(所在:8区ー1種ー1側ー16番)
日露戦争後、軍部が推す桂太郎と立憲政友会を基盤とする西園寺が交互に首相につく「桂園時代」が到来。
京都出身の公卿で、フランスのソルボンヌ大学で法律を学ぶ。軍部の台頭を危惧した最後の元老。

児玉源太郎のお墓。(所在:8区-1種-17側ー1番)
陸軍大学校の設立に尽力した。日露戦争では、前任の田村怡与造(たむらいよぞう)の急死にともない、内相から異例の降格人事となり参謀本部次長に志願。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀課長も務め、満州軍総司令官の大山巌を補佐した。
旅順攻略にてこずっていた第3軍の乃木希典から指揮権を代わり、内地から搬送した28サンチ榴弾砲を用いて203高地をわずか半日で陥落させた。
彼のお墓だけは絶対に参拝したかったのだっ!広い多摩霊園では一番東にあってそれ以外の人を諦めても後悔しないっ!
こんな所に203高地の石が(2012年1月14日)の記事江の島にある児玉神社の記事です。
ラッキー入れた~(201年8月28日)の記事中国・旅順にある児玉グラウンドと呼ばれた旧旅順運動場の記事です。
時刻は12時32分。たったこれだけしかお墓めぐりが出来なかったのに、30分もかかってた!まあ、多摩霊園も要再訪物件ですが。

多摩霊園の外国人墓地区画です。多摩霊園の東の道を南下してたら、桜の下の墓石が見えた。園内にも桜が多く咲いてました。墓参り客も多かったな~。
東から多摩霊園を出て今度は人見街道を東へ。
コメント (6)
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