喰違門を抜けると、有名なホテルに着いた。
ホテルニューオータニです。実はここはかつて近江彦根藩井伊家の麹町屋敷があった場所です。
説明板発見:井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は特に有名です。
明治5年、この地は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。
そう言えば、以前都内に残る井伊家のあれこれを巡ったよな…。
井伊家の石燈籠(2008年12月26日)の記事桜田門近くにあった井伊家の屋敷跡。
桜の井(2008年12月26日)の記事江戸の名水。憲政会館の敷地の外に残ってます。
井伊家墓所全体図(2008年12月1日)の記事世田谷の豪徳寺は井伊家の墓所です。
豪徳寺紅葉散歩(2009年12月6日)の記事豪徳寺は紅葉の名所です。
豪徳寺の招福まねき猫(2008年11月30日)の記事豪徳寺はまねき猫の発祥地の一つでもあります。
井伊直弼のお墓(2008年12月1日)の記事井伊直弼のお墓だけでなく、井伊家の墓所には代々の藩主6名の墓があります。
そう言えば、明治神宮もかつては井伊家の下屋敷だったんだよね。
ホテルの庭に、井伊家の屋敷の名残を探してみることに…。
地図ではちっともわかりませんが、ホテルの庭は、急坂の斜面でもありました。びっくりしました。
庭には、茶室があります。「なだ万」なんかもあったりして!!
おっ!?有望な石燈籠発見!由来がわかるかも~。
ん??でっかい木がある。これはもしやして~??
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
井伊家の庭だった時代から立っていた木を見つけました!!
説明板発見;カヤ*目通り幹囲294センチ、直径93.6センチ。樹高約17、6メートル
イヌマキ*目通り幹囲268センチ、直径85.4センチ。樹高約21、1メートル
旧牛込門から旧赤坂門までの延長4キロの国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテル・ニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ・タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期の遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されました。
千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されてない千代田区内にあって貴重なものです。 (平成21年4月1日、千代田区指定天然記念物)
またまた石燈籠が登場。どうやら庭のあちこちに石燈籠を配置してあるようで。
って!!
あれ?
この石燈籠の胴に刻んであるのは…。
大猷院殿!すなわち三代将軍 徳川家光の法名!!
あった~~っ!!
よ~く見ると、従五位下井伊兵部大輔の名前も見えます。
全文だと…。
「東叡山
大猷院殿 尊前
従五位下井伊兵部大輔
慶安五壬辰暦四月六日 藤原●」
これを解説すると…。
東叡山とは、寛永寺のこと。寛永寺は徳川将軍家の菩提寺で、歴代15人のうち6人が寛永寺には眠ります。
大猷院とは、徳川家光の諡号です。
従五位下井伊兵部大輔とは、井伊直継(1590年2月ー1662年8月)のこと。徳川四天王の一人、井伊直政の長男。
慶安5年は1652年です。前年慶安4年4月20日に家光が死去してます。
遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光輪王寺に葬られました。日光輪王寺にある大猷院廟は慶安4年(1651)の翌年かあら造営され、わずか1年2ヶ月で完成しました。
尊前とありますので、一度は寛永寺、もしくは輪王寺に置かれていた石灯籠なのかもしれません。大名がこぞって石燈籠を奉納したので、その一つだと思います。
などと…。感慨にうっかりふけっていたらダンナを見失った~~~。どこや~~~っ!!!
ニユーオータニの庭は高低差がかなりあり、斜面を降りてしまうと見えなくなるのだっ!!
こういう時こそ文明の利器。携帯電話をかける。
「どこにいるの?」
「一番下~」と言うので追いかける。
普通の人はニユーオータニの建物に感動するのだけれど、今日ばっかりは庭の方が萌え度が高いのです。
庭と反対側のホテルの建物は、屋上に庭園がある模様~。でも次なる目的地は、大久保利通暗殺の碑がある清水公園です。
日本史 ブログランキングへ
ホテルニューオータニです。実はここはかつて近江彦根藩井伊家の麹町屋敷があった場所です。
説明板発見:井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は特に有名です。
明治5年、この地は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。
そう言えば、以前都内に残る井伊家のあれこれを巡ったよな…。
井伊家の石燈籠(2008年12月26日)の記事桜田門近くにあった井伊家の屋敷跡。
桜の井(2008年12月26日)の記事江戸の名水。憲政会館の敷地の外に残ってます。
井伊家墓所全体図(2008年12月1日)の記事世田谷の豪徳寺は井伊家の墓所です。
豪徳寺紅葉散歩(2009年12月6日)の記事豪徳寺は紅葉の名所です。
豪徳寺の招福まねき猫(2008年11月30日)の記事豪徳寺はまねき猫の発祥地の一つでもあります。
井伊直弼のお墓(2008年12月1日)の記事井伊直弼のお墓だけでなく、井伊家の墓所には代々の藩主6名の墓があります。
そう言えば、明治神宮もかつては井伊家の下屋敷だったんだよね。
ホテルの庭に、井伊家の屋敷の名残を探してみることに…。
地図ではちっともわかりませんが、ホテルの庭は、急坂の斜面でもありました。びっくりしました。
庭には、茶室があります。「なだ万」なんかもあったりして!!
おっ!?有望な石燈籠発見!由来がわかるかも~。
ん??でっかい木がある。これはもしやして~??
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
井伊家の庭だった時代から立っていた木を見つけました!!
説明板発見;カヤ*目通り幹囲294センチ、直径93.6センチ。樹高約17、6メートル
イヌマキ*目通り幹囲268センチ、直径85.4センチ。樹高約21、1メートル
旧牛込門から旧赤坂門までの延長4キロの国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテル・ニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ・タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期の遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されました。
千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されてない千代田区内にあって貴重なものです。 (平成21年4月1日、千代田区指定天然記念物)
またまた石燈籠が登場。どうやら庭のあちこちに石燈籠を配置してあるようで。
って!!
あれ?
この石燈籠の胴に刻んであるのは…。
大猷院殿!すなわち三代将軍 徳川家光の法名!!
あった~~っ!!
よ~く見ると、従五位下井伊兵部大輔の名前も見えます。
全文だと…。
「東叡山
大猷院殿 尊前
従五位下井伊兵部大輔
慶安五壬辰暦四月六日 藤原●」
これを解説すると…。
東叡山とは、寛永寺のこと。寛永寺は徳川将軍家の菩提寺で、歴代15人のうち6人が寛永寺には眠ります。
大猷院とは、徳川家光の諡号です。
従五位下井伊兵部大輔とは、井伊直継(1590年2月ー1662年8月)のこと。徳川四天王の一人、井伊直政の長男。
慶安5年は1652年です。前年慶安4年4月20日に家光が死去してます。
遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光輪王寺に葬られました。日光輪王寺にある大猷院廟は慶安4年(1651)の翌年かあら造営され、わずか1年2ヶ月で完成しました。
尊前とありますので、一度は寛永寺、もしくは輪王寺に置かれていた石灯籠なのかもしれません。大名がこぞって石燈籠を奉納したので、その一つだと思います。
などと…。感慨にうっかりふけっていたらダンナを見失った~~~。どこや~~~っ!!!
ニユーオータニの庭は高低差がかなりあり、斜面を降りてしまうと見えなくなるのだっ!!
こういう時こそ文明の利器。携帯電話をかける。
「どこにいるの?」
「一番下~」と言うので追いかける。
普通の人はニユーオータニの建物に感動するのだけれど、今日ばっかりは庭の方が萌え度が高いのです。
庭と反対側のホテルの建物は、屋上に庭園がある模様~。でも次なる目的地は、大久保利通暗殺の碑がある清水公園です。
日本史 ブログランキングへ