新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2017年3度目の関西旅行記 #3-3

2018-01-06 15:54:22 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #3-2」のつづきです。

当日のダイジェストに書いたように、私は気になっていた奈良国立博物館での「正倉院展」の混雑具合を見てみようと、Twitterで検索してみました。
すると、

あれま、相当な混雑を予想していたのに、「待ち時間は10分です。館内の混雑はありません。」とは、さすがは月曜日です(正倉院展開催期間中の奈良博は休館日なし)

こりゃLucky と、正倉院展を初めて観覧することにして、奈良博に向かいました。
正倉院展毎年に開催されているとはいえ、集客数ハンパない と聞いていましたし、正倉院展のためだけ年休をとって奈良にやって来るまでの決心はありませんでしたから…

そんでもって、私は興福寺から奈良博に向かったのですが、いつもなら登大路園地を突っ切るところ、今回は東金堂の東側を通り、興福寺本坊前を通って奈良博へ行きました。
思い起こせば、このルートを通ったのは初めてだったかも。

そんな興福寺⇒奈良博のルートわけで、東金堂のすぐ裏手原生林のような趣きだったとは知りませんでした。

私のほかに通る人は少なく、鹿ちゃんもの~んびり…

R169を横断したところに、「正倉院展」専用敷地案内図がありました。

正倉院展は2日前始まったばかりだというのに、敷地案内図には枯れ草がこびりついていまして、恐らく前日・前々日の風雨のせいで薄汚れてしまったのでしょ

それはともかく、臨時券売所コインロッカー手荷物預かり所、さらには入場待ちテントまであったりして、奈良博の正倉院展に対する気合いが感じられました。

「正倉院展」敷地案内図

そりゃ、毎年正倉院宝物虫干しに合わせて開催されている正倉院展は、奈良博にとって最大年中行事ともいうべきものですからねぇ…

でも、この日は入場待ちテントの出番はありませんで、鹿ちゃんたちが悠然と闊歩するのみでした。

「入場待ちテント」と鹿

と、上に載せたGoogle Mapをつけたところに説明板がありました。

「春日東西両塔跡」だそうで、

春日塔跡は春日大社の一の鳥居を入った参道の左側(現在の奈良国立博物館構内)に、東西に並ぶ2基の塔跡である。神仏習合思想にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構であり、両塔のありし日の偉容は多くの春日宮曼荼羅に描かれている。

ですって

さっそく「春日宮曼荼羅」を見つけてきました。

左にのせた「春日宮曼荼羅」こちらから拝借してきたもので、

本図は近年まで行われていた奈良市の中心部、南市の春日講の本尊として伝来したものである。旧箱の箱書から少なくとも慶長19年(1614)にはこの春日講本尊であったことがわかり、信仰史的にも興味深い。

だそうですが、一の鳥居上空から春日大社御蓋山を俯瞰した構図で、左下が描かれています。
東西両塔の部分を拡大しますとこんな具合

 

ここで説明板に戻りまして、

西塔(現在地より西へ約90m)は永久4年(1116)に関白藤原忠実により造営され、東塔(現在地)は鳥羽上皇の本願により保延6年(1140)に建立された。そのため西塔は「殿下の御塔」、東塔は「院の御塔」と称されていた。ところが治承4年(1180)平重衡の南都焼打にあって焼失し、相次いで再建されたものの、応永18(1411)年雷火にあって再び焼失した。その後は再建されることなく今日におよんでいる。

だそうで、「治承4年の南都焼討焼失後、再建したものの、応永18年の雷火焼失って、「#3-2」で書いた興福寺東金堂同じじゃありませんか
東大寺・興福寺の多くの伽藍を焼いたという南都焼討春日両塔焼失したというのは想像に難くありませんが、東金堂春日両塔焼失したというのはホントか? って感じです。点在する建物焼けるというイメージが沸かないのですけど…

それはともかく、こちら東塔跡です。

ところで、上に転記した「説明」の中に、

神仏習合思想にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構

とありましたが、これを読んで思いだしたのが、こちらで書いた東京・上野動物園の構内にある五重塔でした。

この塔は、「旧東叡山寛永寺五重塔」という名称ですが、元をたどれば、寛永寺の五重塔として建てられたものではなく

老中土井大炊頭利勝が寛永8年(1631)今の地に上野東照宮(1627造営)の一部として五重塔を創建寄進しました。

というものでしたっけ…

話を春日東西両塔に戻せば、

両塔は、1965年(昭和40)の発掘調査によって規模や構造が明確になった。その規模は興福寺五重塔とほぼ同じであり、高さ約50m、初層の一辺長約8.6mで、東塔の初層には裳階がつけられていた。また塔の南正面には複廊を築いて楼門を設け、東、西、北の三方には一辺約100mの築地をめぐらしていた。

そうです。

ありし日には、興福寺の五重塔(730年建立)東大寺の東西両塔(753年建立)と合わせて5棟の仏塔が立っていたんだ…と思いましたが、東大寺の西塔は934年に焼失して以降は再建されずじまいでしたから、「5塔勢揃い」は史上存在しなかったことになります。

でも、753~934年3塔(興福寺、東大寺東西両塔)、934~1116年は2塔(興福寺、東大寺東塔)、1116~1140年は3塔(興福寺、東大寺東塔、春日西塔)、1140~1180年は4塔(興福寺、東大寺東塔、春日東西両塔)と、現在の奈良公園周辺には塔が複数立っていたんですなぁ。
平安時代末期の様子を観てみたい

それにしても、南都焼討の主犯、平重衡の責任は重い

と、なかなか正倉院展の話に入れませんが、それは帰省から戻ってから書きます(あと40分ほどUターン新幹線の発車時刻)。

つづき:2018/01/16 2017年3度目の関西旅行記 #3-4

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-01-06 17:33:09
気分転換にご利用下さい。
WEB小説「北円堂の秘密」を知ってますか。
グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
その1からラストまで無料です。
少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
読めば歴史探偵の気分を味わえます。
気が向いたらご一読下さいませ。
重複、既読ならご免なさい。
歴史教育の参考になさって下さいませ。
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