goo blog サービス終了のお知らせ 

新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-4

2020-04-01 23:56:31 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-3」のつづきです。

「#2-3」で書いたように、比叡山延暦寺根本中堂は、その廻廊と共に、10年越しの大改修の真っ最中 全体が素屋根ですっぽりと覆われていて、その全貌を目の当たりにすることは叶いませんでした

そこで、お参りする前に、素屋根の壁に設置された説明パネルで、その構造をお勉強

説明によると、

現在の根本中堂は、江戸時代初期の建築で、桁行(正面) 36.7m、梁間(奥行) 23.9m、棟高(高さ) 24.3mと、滋賀県下では最大の大きさを誇ります。また根本中堂の前庭をコの字型に廻廊が取り囲んでおり、根本中堂への通路のみならず儀式空間としても用いられています。

だそうで、本堂の前庭を廻廊が取り囲む様式は、規模は違いますが、東大寺大仏殿と同じですな。

素屋根の内側に入ると、入口近くから土足のままお参りすることもできますが、廻廊を通って根本中堂の中まで入れるそうなので、靴を下駄箱に入れ、廻廊に進みました。

廻廊の中は、照明はあるものの、かなり薄暗く、また、両側にが立ちはだかって、ちょっとドキドキものでした。

そして、根本中堂外陣からお参りしました。
下の写真は、小冊子「比叡山根本中堂」から拝借した内陣です。

比叡山延暦寺根本中堂の内陣

御本尊は写真に見える薬師如来像っぽく見えますが、その後ろの厨子に納められている伝教大師最澄が自刻したということになっている(後述)「五尺五寸の薬師如来像」が、ホントの御本尊

「比叡山根本中堂」によると、

元来、天台宗では本尊を一仏に特定することはしない。伝教大師は中堂の薬師如来だけでなく、同時に釈迦如来阿弥陀如来をも自ら刻んで三塔の本尊としたことも伝えているし、比叡山の諸堂においては、上記の釈迦、阿弥陀、薬師の他にも、大日あり、不動あり、観音あり、地蔵ありと、多種多様である。(中略)
しかるに、大師が叡山草創の起源としての根本中堂に薬師如来を安置せられたことは、仏教の日本伝来以来、薬師信仰当時の仏教界の主流を占めていた背景も考えられるが、特に現世における衆生救済を薬師如来を通して具現しようとした若き最澄上人の志を物語るものであろう。

だそうです。
「現世における衆生救済」薬師如来に託そうとされた大師の志というのは、かなり納得できますし、多種多様の仏様たちをおまつりした比叡山延暦寺だからこそ、さまざまな宗派の御祖師たちが巣立っていったことも納得してしまいます。

ところで、根本中堂は、日本の古寺のならいというか、何度も火災で焼失し、再建されてきました。
「延暦寺根本中堂」に載っている略史によれば、935年(承平5年)織田信長による焼き討ちにあった1571年(元亀2年)2回の焼失が紹介されていますが、Wikipediaによれば、これ以外にも、1435年(永享7年)1499年(明応8年)焼失したとあります。

伝教大師自刻の薬師如来像と、不滅の法灯は、少なくとも4回の火災の際、どうなったんでしょ?

まず、「伝教大師自刻の薬師如来像」は、こちらの記事によると、

根本中堂の薬師如来像は、永享7年(1435) 2月5日の根本中堂自焼の際に焼失してしまい、宝徳2年(1450)仏師に命じて焼け材を利用して造立させた(『康富記』宝徳2年5月16日条)。これも信長の比叡山焼討ちで再度焼失してしまった。現在の根本中堂の薬師如来立像は、江戸時代の延暦寺再興の時に横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)より移座したものである。それは横蔵寺の薬師が最澄自刻のものであるという記録が横蔵寺にあったことによるものである(「豪盛書状(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉246頁)

だそうで、横蔵寺の記録が確かならば、中抜けはあったものの、「伝教大師自刻の薬師如来像」がまつられていることになります。

また、「不滅の法灯」は、おなじくこちらの記事によると、

最澄の常灯明永享の乱(1435年)に際しては無事であったものの、元亀の織田信長の比叡山焼打ちに際して根本中堂ともども常灯明も失われた。のちに比叡山が再興され、天正13年(1585)に根本中堂が再建されるあたって、最澄の常灯明も復興されることとなった。その42年前に立石寺が根本中堂の常灯明を受けたことにより、立石寺の常灯明の灯明は根本中堂に移され、天正17年(1589)10月25日、立石寺に常灯明を移した立石寺の住僧一相坊円海が今度は根本中堂に灯明を運び、復興された(「豪盛置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』(1977年3月) 253~254頁)。

だそうです。
へぇ~ です。
不滅の法灯分灯されていた「山寺」こと立石寺(一度だけ行ったことがある)から里帰りしていたとは…

「伝教大師自刻の薬師如来像」にしても「不滅の法灯」にしても、バックアップ重要さを思い知らされます

ということで、「#2-5」につづきます。

つづき:2020/04/02 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-5 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 思いつきの岐阜ドライブ旅行 ... | トップ | 思いつきの岐阜ドライブ旅行 ... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

旅行記」カテゴリの最新記事