新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

東日本大震災から10年

2021-03-11 12:21:01 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災が発生した2011年3月11日から10年目の日がやってきました。
「3.11」東北で迎えるのは、震災後初めてです。

そんな特別な日ですから、10年前を思い出してみることにします。

当時、私は連日欠かさずブログを投稿していて、この日も、前夜のうちにほぼ書き上げていた記事を、出勤前にアップしました。
そして、その日のうちに帰宅することができなかったものですから、とんでもない災厄の日だというのに、その日の記事は、ノーテンキ「予定を変更して増上寺のこと」1本だけ…。

あの地震は、東京・丸の内の職場で体験しました。
低層階にある事務所でしたので、恐怖を感じるほど揺れたわけではありませんでしたが、日本人の体に染みついた「マナー」として机の下にもぐり込んで揺れが収まるのを待っていると、泣き叫ぶ女性の声が聞こえました。
誰? と思ったら、その声の主は、日頃は沈着冷静な知的美人だった、中国人の契約職員でした。
事務所の中でパニックに陥っていたのは彼女一人だけで、私を含めた他のすべての職員は「どした?」という感覚だったと思います。
恐らく彼女にとって人生初の大地震だったのでしょう。

地震が治まった直後から職場ではTVを流し続けていて、TV画面に映る仙台平野を遡上する津波リアルタイムの映像衝撃的で、記憶の中に音がありません。

職場には東京電力からの出向者がいて、「原発は自動停止したそうです」と情報を伝えてくれたけど、まさか、福島第一原発が電源を喪失して、メルトダウンに至るとは、このときは想像もしていませんでした。

また、身近なところでは、職場の同僚が外出している先の九段会館で、天井が崩落して死者が出たというニュースに、みんな愕然
その彼からは何の連絡もなく、ヤキモキしたのですが、結局無事で、胸をなでおろしました。

   

さて、この日の個人的な問題は、どうやって帰宅するかということでした。「当日中の運行再開はない」というJR東日本の発表を聞いた私は、翌日が土曜日だということもあって、徒歩での帰宅を決意しました。
その総行程24km、6時間(当日中に帰りつけると思ってたのに…) にわたる「中山道徒歩き」は、翌日の記事「東北地方太平洋沖地震は現在進行形」に書いたとおりです。

今年は妙に暖かくて10年前3月中旬の気候が想像しがたいのですが、この日、私は、ウールのロングコートを着込んでいましたから、普通に寒かったのだろうと思います。

今思い返しても、都心から自宅に向かう人々の流れは印象的でした。
ヘルメットを被り、非常袋を背負った人も結構目立っていて、そう、朝ドラ「あまちゃん」で出てきた「3.11当日の東京」の様子は、コンビニの空っぽの陳列棚のシーンも含めて、まさにそのままでした。

   

一夜明けると、とんでもない筋肉痛で家の中を移動するのもキツいくらいでした。

で、まずやったことは、実家(現・別邸)電話すること。
前夜は、電話回線が輻輳しているだろうと、遠慮していたのですが、ちょっとは落ち着いたかな? と思った次第です。
電話はすぐに通じ、母と話したところ、実家は停電していること以外は問題無く「久しぶりにガスでご飯を炊いた」なんて言っていました。
そして興味深かったのは、2階にある本棚の様子を恐る恐る見にいったところ、倒れることも本が散乱することもなく、ただ、本棚自体が前にズレていたという話。地震に影響されて本棚が歩いたということでしょうか?
実家の停電は、12日の夕方には終わったそうです。

次に電話した先は、宮城県に住む友人宅でした。
ところが電話が通じない
時間をおいて電話しても、翌日電話しても通じません
別の友人に聞いてみると、彼も同様に何度も電話していて、通じないといいます。
数日経って、ようやく電話が通じて話したときは、ホント安心しました

   

幸いにも、私の周辺には東日本大震災の犠牲になった人はいませんでした

死者(震災関連死を含む)・行方不明者が2万2000人余にものぼり、震災で否応もなく人生を変えられてしまった人が無数にいることを思えば、震災後の計画停電とか、スーパーの空っぽの棚とかモノ不足とか、間引き運転でギュウギュウ詰めの通勤電車とか、電車内が一気に凍る緊急地震速報のアラーム音とか、私の経験なんて「生やさしい」というのすらおこがましい気がします。

レベルこそ違えど、非常時を経験して得た教訓は何だろな? と考えると、思いつくのは、ちょいと前に話題になった「自助・公助」のことです。

大規模な災害が起こった場合、すべての人に速やかに「公助」が行き渡るのは到底無理です。「公助」が自分のところにやってくるまでは、「自助」で生き残るしかありません。
「自助より公助が先だと、目を三角にしてわめいていた方々が、東日本大震災当時には政権党だったというのがなんとも…

映画「シン・ゴジラ」でも描かれていましたが、日本のお役人さんたちは、ときどきヘマをやらかしたり、変な人もしますが、基本的には、職務に忠実有能だと思っています。
ですから、非常時には、必ず助けがやってくることを信じつつ、まずは自分でなんとかして生き残ることが大事。そのためには、非常用の保存食や水などを用意しておくべきなんだろうな。

おっと 本宅には保存食と長期保存水常備しているけれど、別邸には無い

そんなことを考え、身の回りをチェックするのには、きょうのような日が最適だと思った次第です。

今夜、TBS系で放送される「音楽の日」は、セキスイハイムスーパーアリーナからの生中継だそうですが、

グランディ21

この会場は、東日本大震災後、しばらくの間、遺体安置所として使われた場所です。
そこのところも胸に刻んで「音楽の日」を楽しむことは、亡くなった人たちへの供養になるだろうと思います。

ちなみに、私が今いる別邸では「音楽の日」をリアルタイムで視聴できません
本宅のブルーレイ・レコーダーに録画予約していますので、帰省Uターンするまで我慢です。

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