かなり間合いがありましたが、「半年前の信州旅行記(その19)松本編①」のつづきです。
松本駅前から「松本周遊バス タウンスニーカー」の東コース「ヤヨイバス《水玉乱舞》号」に乗ってやって来たのは、「あがたの森公園」。
「あがたの森」という名前から、私は「あがた森魚」さんを連想してしまいましたが、両者に関係はありません
あがた森魚さんは北海道出身で、本名の「山縣森雄」からとった名前だし、方や「あがたの森」は地名の「県(あがた)」からの命名です。
そして、私の場合、おなじ「もりお」でも、「北杜夫に引かれて『あがたの森』参り」なわけで…
で、私のお目当ては、旧松本高等学校(あがたの森文化会館)と旧制高校記念館。
この二つの施設は同じ敷地内に渾然一体となっていて、片方だけ観て帰るなんてあり得ない間柄です。
まずは、旧松本高等学校(あがたの森文化会館)。
この施設は、旧制松本高等学校の建物を保存しつつ、図書館やコミュニティーセンターとして使われていました(だから「あがたの森文化会館」)。
正面から見ますと、
おぉ、威厳に溢れておりますなぁ
そして、お隣にはホールとして現役の講堂。
これまたステキな建物(そしてキレイ)です
これらの建物は、
西洋建築様式を簡略化して応用した洋風木造建築で明治時代末期から大正時代前期にかけての代表的作例といわれており、明治期のナンバースクールの中央入り左右対称形ではなく隅入りコの字型である。本館の入口は、道路に直接面していて明治期の権威的で荘重な表現から機能的で親しみやすいものになっている。また、玄関正面のマンサード屋根、窓の配置、講堂屋根上の換気用小塔に意匠的工夫がこらされている。
だそうで、重要文化財に指定されています。
それでは、中に入ってみましょう。
と、「復元校長室」?
わざわざ、
ご自由にご覧ください
とあることですし、校長室の中を拝見
窓の前で「校長先生」が、
この校舎は大正11(1922年)に完成しました。
大正デモクラシーのよき時代、戦争へ向かう暗い時代、そして学徒出陣。
そのすべてを知っている校舎です!
とおっしゃっています。
リーフレットから引用しますと、
松本では、明治32年から20年の歳月をかけて高等学校の誘致活動を展開し、大正7年設置が決定となり、敷地2万坪、現金10万円、工事費10万円を寄付した。敷地は、旧城下町の市街地から少し東に離れた場所が選ばれ、松本駅から校舎に向かう道は拡幅された。大正8年9月今の史跡松本城の二の丸にあった松本中学校東校舎を仮校舎として開校し、翌9年8月に本館、11年8月に講堂が県の地に誕生した。(中略)
昭和25年3月の卒業式を最後に松本高等学校は、新制大学(現信州大学)に生まれかわり31年の歴史に終止符がうたれたが、この間約5000人の卒業生を送り出している。校舎は昭和25年から信州大学の文理学部・人文学部校舎として昭和48年まで使用されたことにより、全国的に旧制高等学校の遺構が少なくなっている中で、当時の状況が最も良好に保存されている唯一のものといわれている。
だそうです。
「旧制高等学校」のことは「旧制高校記念館」の項の時に書くことにしまして、校長先生の目線から…
そしてふり返ると、、、
天候にも恵まれて、よい眺めです
復元校長室には本棚がありました。
どんな本が並んでいるのかと興味を持って見ると、、、
北杜夫さんの著書が並んでいて、まるで私の実家の書棚みたいです
校長室の他にも復元された部屋がありまして、
中に入ってみると、、、
フツーの教室でした。
明治村で見た「旧第四高等学校物理化学教室」は階段教室でしたっけねぇ~
私の学生時代を思い起こせば、「フツーの教室」での講義もあれば、階段教室での講義もありましたっけねぇ…
あ、そうだそうだ
教室の暖房は温水ラジエーターだったみたいです。
私が通っていた高校(もちろん新制高校)の暖房も同じ温水ラジエーターだったのですが、この旧制松本高校のラジエーターでは厚みがなくて、弁当を乗っけて暖めるのは難しそうです。
旧松本高等学校(あがたの森文化会館)のお話はまだつづきます。
つづき:2016/02/09 半年前の信州旅行記(その21)松本編③
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