「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(3日目・その2)」のつづきです。
「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記」というシリーズ名から明らかなように、この奈良遠征の一番の目的は「第31回 JTB世界遺産劇場 春日大社 第60次式年造替奉祝 -Misia Candle Night-」2daysに参加することでした。
そしてこのLiveは、「春日大社 第60次式年造替」を「奉祝」するという意味を持っていたわけですが、2泊3日の奈良遠征最終日、ここまで私、春日大社にお参りしていませんでした。
これじゃマズかろう ということで、興福寺の次は春日大社にお参りしました。
一之鳥居をくぐり(この鳥居は3日連続してくぐった)、敢えて最短距離ではなく、浅茅ヶ原園地を通り抜けました。
一夜明けた「飛火野特設会場」を見ておこうと思った次第。
前夜、数え切れないほどのキャンドルが並んでいた飛火野、(写真を撮るのに夢中で、鹿ちゃんの落とし物を踏んづけた人数知れず、、だと思う)どうなっていたでしょうか?
ステージやPA、照明装置などはそのままの様子でしたが(翌週にはさだまさし、その次の週には薬師丸ひろ子のライヴが予定されていましたから)、キャンドルはすっかり片付けられて、いつもの芝生が広がっていました。
一夜の夢、いや、二夜の夢ってやつですか…
興福寺から春日大社本殿までのルートは下図のとおりでした。
ひたすら外国語ばかりが聞こえる参道を歩き、二之鳥居をくぐり、もうすぐ本殿 というところにある着到殿で、「古都祝奈良(ことほぐなら) 時空を超えたアートの祭典」の参加作品が展示されていました。
「紫舟+チームラボ」の「まだ かみさまが いたるところにいたころの ものがたり」です。
本作では、壁に映し出された象形文字(山、木、鳥など)に鑑賞者が触れると、文字はその意味に形を変え、生き物たちが動き始めます。文字から変化したものたちはそれぞれが知能を持ち、「鳥」は「木」の枝にとまり、「雨」が降ると「土」からは命が芽吹きます。
という説明だけでは判らないかもしれませんので、チームラボの「営業資料」をご覧くださいませ。
アートとテクノロジーの融合というか、アート作品と鑑賞者とのコラボレーションというか、かなり面白い。
上から降りてくる文字に触れると、文字は命が吹き込まれたかのように生き物に姿を変えて動き出すのですから、まるで自分が神様になったような気分になれます。
映像自体も美しくて、ホント、楽しい
ついつい、それ自体が応永20年(1413年)に再建された重要文化財だという着到殿の写真を撮るのを忘れてしまいました
そして、春日大社の御本殿(広義)に到着。
せっかくなので、500円の初穂料をお納めして、「特別参拝」しました。
右の写真は「特別参拝」 のリーフレットと「御参拝の証」。
このリーフレットから春日大社の由来を冒頭だけ転記しますと、
春日大社は奈良に都が遷された今から1300年程前、平城京鎮護のため、国譲りを達成された最強の武神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)様(鹿島神宮)を神山御蓋山(みかさやま)の浮雲峰(うきぐものみね)に奉遷したのが始まりです。
という次第で、武甕槌命は常陸から白い鹿に乗ってやっていらして、その鹿(神鹿)の子孫が、今、奈良公園周辺で暮らしている鹿ちゃんたちだと伝えられています。(下の写真は、東京国立博物館で拝見した竹内久一作「神鹿」)
この記事を書きながら、「そういえば、常磐線の『大甕(おおみか)駅』は『武甕槌命』に由来するのかも…」と考え、そして、「『武甕槌命』が奈良に来てしまったあと、鹿島神宮のご祭神はどうなったのだろう?」という疑問がわいてきました。
まず、最初の疑問、「大甕」は、そのまま読めば、「大きな甕(かめ)」なわけで、「甕」を「かめ」ではなく「みか」と読むこと、常陸国の地名だから、という理由だけで武甕槌命と結びつけるのはちょいと無理がある気もするのですが…。
ネットで調べても情報がほとんど見つかりません。こちらのサイトによれば、
神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。
という至極無難な説明なんですが、この説にも納得できる根拠はありません
研究者や郷土史家の皆さんにがんばっていただいて、「大甕」の由来を解明してしていただきたいものです。
次の「鹿島神宮のご祭神はどうなった?」は、鹿島神宮のHPを見ればよいわけなんですが…。
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。
となれば、創建以来、ずっと武甕槌命がご祭神でいらっしゃるとな…
う~む、、、判らない…
もっとも、こちらの疑問は疑問のままでおくのが良いのかもしれません。
詮索し過ぎるのはヤボってものかも…