「2016年師走の仙台旅行記(その5)」のつづきです。
鹽竈神社表参道の長ぁ~い石段を降りて、見上げると、
おぉ、見事
でも「その5」に載せた見下ろす眺めの方がゾクゾクします。
で、「陸奥國一宮」の篇額を掲げた鳥居周辺には私の好奇心をそそるものがいくつもありました。
まず、
「東北鎮護鹽竈神社」と彫られた社標柱です。
「奥州鎮護」ではなく、「東北鎮護」ですか
「出羽(羽州)」出身の私としましては、私の故郷まで鎮護いただき感謝申し上げるしだいです。
次は、こちらのスケッチ(のレプリカ)。
このスケッチは、フランス陸軍士官、ジュール・ブリュネが、戊辰戦争のさなか、榎本武揚率いる幕府艦隊と共に、函館に向かう途中、「浦戸寒風沢」(塩竃市)に寄港した際に描いたものだとか。
かなり詳細な説明板によれば、
ジュール・ブリュネ (1838~1911)
幕府要請のフランス軍人顧問団の一員として慶応3年(1867)に来日。
戊辰戦争で新政府を支持した駐日フランス公使を非難、榎本武揚ら徹底抗戦を唱える幕臣に共鳴し、旧幕府艦隊8隻と共に函館に逃れる途中、浦戸寒風沢(塩竃市)に寄港したのは、明治元年旧暦8月26日(1868年新暦10月12日)であった。
艦隊は修理や物資補給、新選組や会津藩士乗艦のため一カ月停泊したが、その間ブリュネは、榎本に伴われて仙台藩主伊達義邦に面会、主戦派の軍議に出席したり、南境の戦線視察をしながら仙台周辺を歩き回り、刻明なスケッチを何枚か残している。
外国人による本市を描いた最も古い作品となる「鹽竈神社表参道」のスケッチは、一行が鹽竈神社を参拝した後に、融ヶ丘公園(塩竃公園)の中腹から描いたものと思われ、画面左下の「日の丸」の旗は、明治改元(1869年新暦9月8日)に関連したものと推測される。
なおブリュネは、明治2年旧暦5月1日(1869年新暦6月10日)、五稜郭落城直前にフランス軍艦に逃れ、本国に連れ戻される。
パリで軍事裁判にかけられるが、軽い処罰で許され、後に陸軍参謀総長まで昇進した。
だそうです。
本国の意思に反して旧幕府軍に合流したかと思えば、五稜郭落城直前にフランス軍艦に逃れ、これで軍人としてのキャリアはついえたか思いきや、最後は参謀総長にまで上り詰めたなんて、ブリュネ閣下はただ者ではありません
それにしても、150年前の鹽竈神社表参道の様子がスケッチとして残っているのは大変貴重です。
基本的な眺めは変わっていないけれど、ふもとの建物の数とか、参拝客や旅行業関係者の数が、当時と現代とはまるで違うこと(私が訪れたのが初冬の平日だったこともあるかもしれないけれど)に、感慨を覚えた私でした。
お次は、石柱にがっしり守られたこちら。
「高低几号標柱」なるものだそうで、銘板にはこうあります。
高低几(記)号は、海の干満の平均値から求められた標高の基準となる零メートル地点を示すものです。明治9年、日本地図作製のため東京・塩竃間の水準測量に伴い各所に設置されました。この高低几号標柱は、独立した石柱として現存する唯一のもので、表参道付近まで入江となっていた当時の塩竃の姿を伝えています。
この説明、ホントか????
上に載せた写真では、日差しがキツくてよく見えませんが、標柱には「不」に似た記号が刻まれていまして、「一」の部分が標高を示しているらしい。
これが「零メートル地点」を示しているなんて、意味がありますか???
「高低几号標柱」の場所と、その標高が、書類か何かに残されているのではなかろうか?
最後に、鹽竈神社の境内を示した説明図。
「左宮本殿」と「右宮本殿」の位置を示す文字のうち、「左」「右」の文字がおかしい、修正されたのが明らかです。
こりゃ、左右を間違えましたな…
おぉっとぉ~
もうすぐ「MISIA 星空のラジオ」が始まる
そんなわけで、今夜はこれまで
つづき:2016/12/15 2016年師走の仙台旅行記(その7)
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