残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖②》第二十二回
振り返りながら返し、左馬介は軽く会釈をした。
「ほおー、ただそれだけか…」
小笑いした蟹谷は、敢えてそれ以上、語ろうとはしなかった。
道場へ、このまま帰るというのも何故か野暮ったく思え、左馬介は葛西宿をうろつくことにした。夕刻の門限である暮れ五ツまでに道場へ戻ればいいのだ…と考えると、かなり心の余裕も出来た。腹は千鳥屋の裏で食べた握り飯のお蔭で、ひもじい、という程のことはない。だが、そろそろ空腹感に苛(さいな)まれ始めていた。
主人の喜平に礼を云って店を出た左馬介は、物集(もずめ)街道を挟んで斜(はす)向うに暖簾を上げる蕎麦屋へ入った。
「へいっ、いらっしゃい!」
蕎麦屋の主(あるじ)が客を呼び込む威勢のよい声が響いた。
「かけ、を一杯…」
左馬介は椅子に座りながら、奥の主に暖簾越しの声を投げた。
「へいっ!!」と、直ぐに小忙しく動く主から大声が返ってきた。暫くして、とは云っても、客は左馬介一人だから、そんなに待つという程でもなく、主は蕎麦鉢を盆に乗せて現れた。鉢を洗う音がしていたから、恐らくは大勢の昼客が帰った後なのか…と、左馬介は機敏に思った。