残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖②》第二十四回
少し歩いた左手前に鰻屋があったが、懐(ふところ)具合が覚束無(おぼつかな)い上に、ほんの少し前に蕎麦屋へ入ったこともあり、いい匂いを嗅ぎつつ通り過ぎることにした。店の入口上には、立派な木枠の大看板が掲げられており、『鰻政』と書かれた文字が妙に目を引いた。客の込みようも上々なようで、左馬介は次の機会に懐具合がよければ、是非、寄ってみよう…と思った。上手い具合に腰掛け茶屋が鰻間政の真向かいにあったので、左馬介は暫し寛(くつろ)ぐことにした。紺絣(がすり)に赤襷(だすき)がよく似合う、おぼこ娘が、ひょいと出てきて、眼と眼が合った。十六の左馬介は一目惚れの態で思わず頬を紅(くれない)に染め、軒に並べられた長椅子の一つに座った。
「いらっしゃいまし。…何にしましょう?」
紋切り型で訊ねられ、左馬介は一瞬、怯(ひる)んで躊躇(ちゅうちょ)したが、それでも下向き加減に、
「串団子と茶を…」
と、小さく云った。にっこりと愛想を振り撒くと、その娘は軽く会釈して店奥へと引っ込んだ。左馬介が異性に心ときめいたのは、これで二度目である。一度目は、道場へ入門する前、父の同僚で定町廻り同心であった与左衛門の娘、お勢であった。