真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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西側諸国の中・ロ敵視は、多様性の否定

2023年06月01日 | 国際・政治

 南アフリカ共和国の第8代大統領ネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動を進めたために1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、27年間獄中にありました。その彼の自伝に考えさせられる文章がいろいろ出てきます。
 そのひとつが、”南アフリカでアフリカ人であるということは、自覚のあるなしにかかわらず、生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する”という文章です。
 当時の南アフリカは、そういう酷い状況であったということであり、そのために、”何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて怒りが、反抗心が 同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた”と書いています。だから、”今この瞬間から、同胞を解放する運動にこの身をささげます、と、ある日突然、宣言したわけではない”というのです。特別意図することなく、気がついたら、解放運動に関わっていたということです。それが、”生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する”ということなのだと思います。

 でも、当時の南アフリカの白人支配者は、きわめて自然な、そうした侮蔑や屈辱に対する黒人の意識や思いを少しも受け止めず、解放運動の指導者を国家反逆罪に問うて、暴力的に解放運動を弾圧し、抑圧したのです。
 また、国連におけるアパルトヘイト犯罪条約採択経済制裁に反対したのが、当時のイギリスのサッチャー首相や、アメリカのレーガン大統領であったこと、さらに、日本や欧米諸国が、”アパルトヘイトが人道に対する犯罪であり、国際法の諸原則、特に国連憲章に反し、国際の平和と安全に対する重大な脅威である”としたアパルトヘイト犯罪条約に加わわらなかったことは、当時の南アフリカの白人支配者とあまり変わらない考え方をしていたということではないかと思います。

 そして私は、ウクライナ戦争には、それと似た構図があるのではないかと思います。
 しばらく前、日本で、G7の会合がありました。G7は、基本的に、かつてアフリカやアジアや中南米などの国々を植民地下においた国々であると思います。現在、G7の国々は、かつてのように政治的な権力を行使し、あからさまな植民地支配はしていませんが、それは、現実的な支配・従属関係を終わらせたということではないと思います。
 すなわち、現在なお、アメリカを中心とするG7が主導する世界に、いかなる国であれ、逆らうことが許されない状況にあるといってもよいのではないかと思います。
 そういう意味で、アメリカの方針に従わないロシアや中国は、G7の国々から敵視され、さまざまな経済制裁を受け、また、軍事的圧力をかけられて、マンデラのように、国家反逆罪に問われているような立場にあると思います。

 国連憲章の第33条には、下記のようにあります。
いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。

 でも、アメリカを中心とするG7の国々は、国家間に問題があっても、それを平和的に解決するための努力をしてきたとは思えません。
 ウクライナ戦争では、ロシアが、ウクライナとの国境地帯に軍を集結させているのがわかっていたのに、G7の国々は、平和的解決に動きませんでした。ウクライナのゼレンスキー大統領も、国際社会に、プーチン大統領を説得するように求めることはありませんでした。そして、今なおアメリカは、停戦のための努力はしていないと思います。
 主要紙に、ウクライナ戦争の記事を書いたり、報道番組でウクライナ戦争の解説に出てきたりしている識者がいうように、もし、ロシア軍のウクライナ侵攻が、ウクライナの領土に対する独裁者プーチンの野望に基づくものであるというのであれば、プーチン大統領に話合いを呼びかけ、また、ロシアのあらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体や個人に、プーチンの野望を乗り越えるように働きかけるのが、平和的な問題解決だろうと思います。
 でも、現実にはまったく逆に、ロシアの選手をオリンピックから排除したのみならず、あらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体から、ロシアを排除するよう働きかけました。
 そして、ロシアに対して経済制裁を課すよう呼びかけ、ウクライナに対する武器の供与や難民支援、その他の支援を呼びかけたと思います。

 プーチン大統領は、ロシアの選手がオリンピックから排除されたとき、なぜ、アスリートを政治に巻き込むのか、と苦情を語りましたが、私は、それが正論だと思います。
 国家間の紛争や問題を、平和的に解決し、相互理解を深めるためには、あらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体や個人の交流こそが重要で、決して排除してはならない、と思うのです。

 だから、私は、アメリカが、ロシアを孤立化させ、弱体化させるために、ウクライナ戦争を画策したのだと思っています。戦争を欲したのはアメリカだと思っているのです。 
 それは、平和的に問題を解決すると、アメリカの覇権や利益が維持できないからだ、と私は思います。アメリカにとっては、ロシアがパイプラインの利用などによって、ヨーロッパ諸国に対する影響力を拡大することが、受け入れられなかったのだと思います。また、中国が、さまざまな国々と関係を深め、発展しつつあることも受け入れることができないのだと思います。

 現在、中国が、国際社会から見放されることがわかっているのに、あえて台湾に軍事侵攻することはない、と私は思います。だから、中国の台湾に対する軍事侵攻は、アメリカが、中国を孤立化させ、弱体化させるために、何とかして実現させようと画策しているのだと思います。 
 
 下記は、「自由への長い道(LOMG WALK TO FREEDOM)」ネルソン・マンデラ(NHK出版)から「第3章 自由の戦士の誕生」の「ANC青年同盟」の一部を抜萃しました。
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                     第3章 自由の戦士の誕生

 ANC青年同盟
 政治に携わるようになったのがいつのことなのか、解放闘争に一生を費やすという意識がいつ芽ばえたのか、正確に言うことはできない。南アフリカでアフリカ人であるということは、自覚のあるなしにかかわらず、生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する。アフリカ人の子どもは、アフリカ人専用病院で生れ、アフリカ人専用バスで自宅へ連れ帰られ、アフリカ人専用地域で育ち、もし学校に行くとすればアフリカ人専用学校に通う。
 子どもが成人すると、アフリカ人専用の仕事に就くことができ、アフリカ人専用居住区に家を借りることができ、アフリカ人専用の汽車に乗ることができる。そして、昼夜関係なく呼び止められて、パスを見せるように命じられ、命令にそむけば逮捕されて、刑務所に入れられる。アフリカ人の人生は、成長をむしばみ、可能性をせばめ、生活を妨げる差別的な法律や規則でがんじがらめになっている。それが現実であり、その現実への対処のしかたは無数にあった。
 わたしの場合は、救世主の降臨もなく、これといった天の啓示もなく、悟りの瞬間というものもなかったが、何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて怒りが、反抗心が 同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた。今この瞬間から、同胞を解放する運動にこの身をささげます、と、ある日突然、宣言したわけではない。気がついてみると解放運動に関わっていて、それ以外の道はもう進めなかったのだ。
 影響を受けたおおぜいの人たちの名をあげてきたが、なかでも、ウォルター・シスルの賢明な指導を受ける機会はますます多くなっていった。シスルは意志が強く、道理をわきまえ、実際的で、なおかつ献身的な人物だった。危機のさなかにもけっして冷静さを失わず、ほかの者たちが声高に叫んでいるときでも、ひとり黙っていることがよくあった。ANC(アフリカ民族会議)は南アフリカに変化をもたらすための手段であり、黒人の希望と野心の集積所であると、シスルは信じていた。組織に属する人間を見れば、その組織のよしあしをある程度判定できるものだが、シスルの属している組織ならば、わたしは誇りを持って参加する気になれた。当時は、選択肢も限られていた。そのなかで、ANCは、あらゆる人びとに門戸を開いた組織であり、すべてのアフリカ人が身を寄せることのできる大きな傘を自認していた。
 1940年代は、変化の時代だった。ローズヴェルトとチャーチルが署名した1941年の大西洋憲章は、個々の人間の尊厳を重んじることをあらためて確認し、民主主義の多くの原則を看板に掲げた。西欧には、この憲章をそらぞらしい約束と見る者もいたが、わたしたちアフリカ人はそうではなかった。この大西洋憲章と、暴政と抑圧に対する連合国の戦いとに触発されて、ANCは、”アフリカの要求”という自前の憲章を作り、すべてのアフリカ人のための、完全な市民権を確立、不動産取得の自由、あらゆる差別的法令の撤廃を訴えた。ヨーロッパで連合国が勝ち取ろうとしている大義は、われわれが国内でめざしている大義と同じものだということを、南アフリカ政府に、そして一般国民にもわかってもらいたかったのだ。

 オーランドにあるシスルの家は、活動家やANCのメンバーのたまり場になっていた。温かく居心地のよいその家を、わたしはひんぱんに訪れて、政治的な議論を戦わせたり、シスル夫人の手料理をごちそうになったりした。1943年のある晩、文学修士と法学博士号を持つアントン・レンベデと、A・P・ムダに会った。レンベデが話すのを聞いていたその瞬間に、わたしは、考えかたの独創性と斬新さに打たれ、人格の磁力に引かれた。南アフリカ全土に一握りしかいないアフリカ人弁護士のひとりだったレンベデは、ANC創設者のひとりである大御所ビクスリー・カ・セメ博士と共同で法律事務所を経営していた。
 
 アフリカは黒人の大陸であり、アフリカ人は、本来自分たちのものである土地や権利を取りもどすために声をあげるべきだ、というのがレンベデの主張だった。レンベデは黒人の劣等意識をきらい、西欧や西欧の思想に対する崇拝と偶像化の傾向を手きびしく批判した。劣等意識こそは、解放への最大の障害だと断言した。マーカス・ガーヴェイ、W・E・B・ドゥボイス、ハイレ・セラシエ(訳注:3人とも黒人の地位向上運動を国際的な広がりのなかで展開した人物。カーヴェイはブラック・ナショナリズムの父、ドゥボイスはパンアフリカ主義の父、セラシエ皇帝はアフリカ統一機構OAUの設立に尽力)などのアフリカの英雄を例にあげて、アフリカ人は、機会さえあれば白人と同等の能力を発揮できるのだと指摘した。「私の肌の色は、母なる黒い大地のように美しい」と、レンベデは言った。黒人が首尾よく大衆行動を起せるようになるには、自己のイメージを改善しなければならないと考えていた。自主独立と民族自決を説き、その思想をアフリカニズムと名づけた。わたしたちは当然のように、いずれレンベデがANCを率いることになるだろうと思っていた。
 レンベデは、人々の間に新しい気運が高まりつつあり、種族間の壁もしだいに薄くなって、若い男女は自分たちをコーサでもンデベレでもツワナでもなく、何よりまずアフリカ人だと考え始めている、と力説した。ナタール州の無学なズールー族農民の子どもであるレンベデは、アメリカ系のアダムズ・カレッジに学んで、教員の資格を得た。オレンジ州で何年か教員をしながら、アフリカーンス語を習得し、アフリカーナー民族主義をアフリカ民族主義の原型と見るようになった。
 レンベデはのちに、ナタール州のアフリカ人向け新聞『インクランド・ヤ・バンツー』にこう書いている。

 現代の歴史は、民族主義の歴史である。人民闘争や戦火の試練をくぐり抜けた民族主義は、外国による支配や現代帝国主義に対する唯一の解毒剤としての地位を確立した。それゆえに、巨大な帝国主義勢力は、被支配者のあいだに見られる民族主義的傾向を抑えつけ、かつ根絶することに全力を傾けている。そして、この目的のために、莫大な金額を投じて、民族主義が”偏狭”で”野蛮”で”非文化的”で”呪わしい”ものだという宣伝工作をくり広げてきた。被支配者のなかには、この邪悪な宣伝を信じ込まされ、あげくは帝国主義の手先や道具になって、大いに貢献させられる者もいる。その人々は、”文化的”で”リベラル”で”進歩的”で”偏見がない”と、帝国主義者たちの賛辞を浴びることになるのである。

 レンベデのこの考えは、わたしの胸に突き刺さった。わたしのなかにも、英国植民地の温情に牙を抜かれ、白人たちから”文化的”で、”進歩的”で”洗練されている”とほめられてうれしがるような部分があったからだ。わたしはすでに、”英国支配者の意に添う黒人エリートになるための道を歩んでいた。摂政からサイデルスキー氏に至るまで、周りじゅうがそれを期待していた。しかし、それは幻想だった。レンベデのように、わたしも、戦闘的なアフリカニズムを解毒剤と見るようになってきた。
 ・・・

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