とうとうウクライナで戦争が始まってしまいました。ロシアのウクライナ侵攻は非難されて当然だと思います。声をあげるべきだと思います。
でも、私は、ロシアのウクライナ侵攻に反対することは、ウクライナに武器を供与したり、ロシアをあらゆる国際組織から排除したり、厳しい経済制裁を課したりすることとはイコールではないように思います。そこが曖昧なまま事態が深刻化していくようで心配しています。
毎日のようにプーチン大統領の険しい顔、怖い目つき、怒りに満ちたしゃべり方を映像で見せられていますが、プーチン大統領を怒らせているのは何なのかをしっかり受けとめ、事態の悪化を、何とか防いでほしいと思います。
プーチン大統領は、NATOの東方拡大を自国の命運がかかった重大問題だと訴えているようです。そして、1990年のドイツ統一交渉の過程で、欧米はNATOを東方に一ミリも拡大しないと約束したのに、その後、一方的にその約束を反故にしたと怒っているようです。でも、アメリカのバイデン大統領はそんな約束はなかったと突っぱねているようです。
だから私は、アメリカではなく、国連や国際司法裁判所などの国際組織が間に入って、その事実について検証し、問題の解決に向けた取り組みを提案するシステムを確立して欲しいと思います。多くの法律家を集め、対立する両方の意見や考え方を公的な場で聴取し、それらを記録に残し、国際社会で共有した後、法律的判断を下してほしいと思います。政治家や軍人は、自国の利益を守ることが仕事で、決して譲ろうとしない側面があり、武力に頼る傾向が強いのではないかと思うのです。
今回の問題も、それほど簡単な問題ではないように思います。なぜなら、「ノストストリーム2」などが有効に機能し、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力がますます大きくなると、アメリカの利益が損なわれるという懸念や焦りが、この問題の背景にあるような気がするからです。
バイデン、アメリカ大統領は、ロシアのウクライナ侵攻前、毎日のように各国首脳と電話会談をくり返し、G7等の会合でも、この問題を取り上げ、ウクライナ問題の対処を主導する姿勢を見せていました。先日、バイデン大統領は、ウクライナ情勢をめぐるロシアへの金融制裁をはじめとする日本政府の対応について、岸田首相に対し謝意を伝えたとの報道がありましたが、それは、この問題について、アメリカが主導していることを示していると思います。私は、そこが気になるのです。
あらゆる問題は、武力ではなく、法に基づいて、平和的に解決されるべきだと思います。今、アメリカにこの問題の対処を委ねれば、それが難しくなるように思います。
明治維新をとらえ直すことは、日本の法や道義道徳の問題と関わることであり、ウクライナのような国際問題とも無関係ではないように思います。
私は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)には、明治維新を正しく理解するために欠かせない重要な事実がいろいろ書かれていると思います。だから記憶しておきたいと思ういくつかの文章を抜萃しました。
まず、鼎談(テイダン=三人で会談をすること)で、一力氏が、会津藩は、”「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。”と発言している部分を見逃すことができません。短い言葉で、ズバリと歴史の真実を表現していると思います。
また、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”の戦争であったという指摘も重要だと思います。戊辰戦争で函館まで攻め込んだ戦いは、幕府や会津藩が、恭順の意思表示をした後の戦いであり、それ以外の理由は考えられないからです。したがって、正当性のない戦争であったということです。
さらに、「五日市憲法」のルーツが、戊辰戦争の敗者である奥羽越列藩同盟の一つ、仙台藩であるという事実も見逃せないと思います。大日本帝国憲よりも進んだ内容を多く含んでいるからです。
このところ、朝日新聞が、日本初の人権宣言とも言われている「水平社宣言」から100年、ということで、今なお部落差別に苦しむ人々やその解決に向けた取り組みとりあげていますが、新しい時代を切り開く進んだ考え方は、やはり、苦しみを強いられた人たちや、そういう人たちに寄り添う人たちから生まれるということではないかと思います。
だから、五日市憲法を生んだ仙台藩が母胎となるような政権であれば、朝鮮王宮占領事件や閔妃虐殺事件、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、アジア太平洋戦争と突き進んだ日本の野蛮な戦争のくり返しは避けられたのではないかと思うのです。
「容保の沈黙」のなかで取り上げられている「会津嘆願書」は、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”のものであったことを示す何よりの証拠ではないかと思います。そして、逆らう者は二度と立ち上がれないように叩きのめすというような薩長を中心とする尊王攘夷急進派の戦略が、その後の日本の戦争のなかに受け継がれていったように思うのです。
だから、学校教育では、薩長を中心とする尊王攘夷急進派によって創作された歴史ではなく、客観的な事実に基づく歴史を教えるようにしてほしいと思っています。
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第七章 奥羽越列藩同盟の心
一山百文
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この連載の最後に、当時の福島県知事松平勇雄氏、歴史家で東北大学名誉教授の高橋富雄氏、河北新報社長一力一夫氏の「戊辰の役と現代」と題する鼎談(テイダン)があった。
松平氏は会津藩主松平容保の孫に当たる。これは興味深い鼎談だった。
【一力】 まず初めに、戊辰の役がどうして起こらざるを得なかったのでしょうか。それがなくとも明治維新は達成できたように思えるのですが。
【松平】 会津藩は決して戦争を望んでいたわけではありません。会津藩の本懐(ホンカイ)は宗家である徳川家への忠誠、祖父(容保)としては家訓を守り、徳川家のために一生懸命働いたまでで、その徳川家が白旗を揚げたのだから戦争をする必要はなかったわけなんですよ。
【高橋】 明治維新は、本当の意味の近代化をなしとげたのだったら、あの戦争はやむを得なかった。しかし、歴史的に見ると明治維新は、太平洋戦争後に改めて近代化する必要があったほど、不徹底な変革でした。封建的なところがかなり残り、ある意味では「薩長幕府」になっていった。本当の近代化を求めた変革ではなかったのだから、回避できたし回避すべきだった。
【一力】 すると、明治維新のためには戊辰戦争はなくてもよかた、むしろその方がよりよい近代化ができたかもしれないわけですね。
【高橋】 そうです。薩長藩閥政治程度の近代化なら、大政奉還の平和的な改革のなかでも達成できた。戊辰の役は確かにある種の新しさをもたらしてはいるが、そのために大きな犠牲をはらった。たとえば、日本の40パーセントを占める東北、北海道が後々まで「賊軍」の風土となり、日本のなかで敵味方になってしまった。しかもそれは人々の意識の上にだけではなく、実際にさまざまな形の上に表われたのです。
【一力】 おかしいと思うのは、幕府の本丸である江戸城の開城で戦争が終わるのが歴史的常識なのに、その後から東北での戦いが本格的に始まっていることです。
【高橋】 総責任者の徳川慶喜でさえも許されているのに、なぜ会津と庄内だけが、朝敵とされるのか。公平に見て禁門(蛤御門)の変や、江戸藩邸焼き打ちで煮え湯を飲まされた長州、薩摩が私怨を晴らすため、無理な理屈をつけてきたとしかいえません。奥羽諸藩はこれに納得できず、一致団結したわけで、もし正義が基準となる戦争なら、奥羽の側に十分理があります。
【松平】 こちらは恭順の意を表わしたいるんですが、どうしても会津を徹底的にやっつけなきゃならんと攻めて来るんだから、抵抗せざるを得なかったのです。
【一力】 「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。
【松平】 そうです(笑い)。祖父は孝明天皇の信任が厚く、感謝する旨の宸翰(手紙)まで頂いて、それが天皇がお亡くなりになった途端、立場が逆転して「賊軍」にされたのですから、驚き、嘆いたことと思います。
なるほどと思わせる言葉がいくつもあった。
容保の末裔が、忌憚のない感想を述べた点にも迫力がある。
三人の思いは、まったくその通りであり、異議を挟むところはなかった。
これが東北人の率直な感想といってよかった。
私にとっても胸のつかえが下りる鼎談だった。
五日市憲法
平成十四年(2002)、仙台開府四百年に当たり河北新報社では、またも戊辰戦争を取り上げ、「奥羽越列藩同盟」について考察した。学芸部副部長の佐藤昌明記者が私のところに見え、私はいくつかの質問を受けた。
佐藤記者は、東北と越後の理念を詳しく話すように求めた。私は奥羽越列藩同盟は、東日本政権の樹立を目指した一大政治・軍事結社だったと強調した。その政権構想のバックボーンにあったのは、人民平等の共和政治だったと持説を述べた。
「それで共和政治の具体的内容ですが」
と佐藤記者が質問した。
これが問題だった。この立案に当たった玉虫左太夫(タマムシサダユウ)が自刃したため、彼の構想が後世に伝わらなかった。史料も焼却処分されたとみられ、残っていない。
「新しい史料がみつからないかなあ」
私はいささか神頼みの話を佐藤記者とあれこれ喋った。
それからしばらくして、三月の中旬ころだった。私は河北新報を広げてびっくりした。
「敗者が生んだ民衆憲法」と題して、憲法草案をまとめた仙台藩士千葉卓三郎のことが紹介されていた。
これは玉虫に関連がありそうだ」
私は直観的にそう思い、食い入るように新聞を読んだ。
やはりすだった。卓三郎は玉虫が副学頭をしていた仙台藩校「養賢堂(ヨウケンドウ)」に学んでいたからである。「五日市憲法草案」なるものが、東京都あきる野市の北西部の山間にある深沢家の土蔵から見つかったのは昭和四十三年(1968)のことである。
東京経済大学の教授だった色川大吉氏の日本近代史グループが見つけたのだった。
草案は、明治十四年(1881)、国会開設を前に卓三郎が起草したもので、全文ニ百四条、実に多岐に及んでおり、新聞はそのなかから五カ条を抜き出して紹介していた。
「ううん、すごいなあ」
私は一つ一つの条文に感動した。
45条 日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし。(自由の保障、基本的人権の保障)
47条 およそ日本国民は族籍位階の別を問わず、法律上の前にたいしては、平等の権利たつべし。(法の前の平等)
49条 およそ日本国に居住する人民は内外人を論ぜず、その身体生命財産名誉を保護す。(外国人を差別しない)
76条 子弟の教育において、その学科および教授は自由なるものとす。しかれども子弟の小学の教育は父兄たる者も免ずべからざる責任とす。(教育の自由と受けさせる義務)
77条 府県令は特別の国法をもってその綱領を制定せらるべし。府県の自治は各地の風俗習慣に因るものなるが故に必ずこれに干渉妨害すべからず。その権益は国会といえどもこれを侵すべからざるものとす(地方自治の完全保障)
この史料は、自由民権の研究者の間では知られていたが、私は勉強不足で知らずにいたのである。私は早速、佐藤記者に電話を入れた。
「あれはいい記事ですよ、知らなかったなあ」
「そうでしたか。私は自由民権に首を突っ込んだ時期があり、今回、取り上げてみました。あきる野市にも取材に行って来ましたが、玉虫の影響があるように思いましてね、どうですか」
佐藤記者がいった。
「まったくそのとおりだと思いますよ、卓三郎があ大槻磐渓(オオツキバンケイ)の弟子でしょう。磐渓の一番弟子が玉虫ですからね。いい話を教えてもらいました。
私は礼をいった。
玉虫研究に間違いなく一つの道が見えてきたように感じた。
仙台藩の戦争
千葉卓三郎は仙台領志波姫(シワヒメ=現・栗原市志波姫地区)に生まれた。宮城県北の玄関口である。栗原市とあきる野市とは姉妹都市の関係にある。
卓三郎は下級武士の出だが、向学心に燃えて仙台藩校「養賢堂」に入学した。学頭が大槻磐渓、副学頭が玉虫左太夫だった。
養賢堂が奥羽鎮撫総督府の宿舎に占領されたとき、生徒たちが憤慨して、斬り込みをかけんと騒ぎ、薩長軍に敵意を燃やした。生徒たちを焚き付けたのが玉虫だった。藩の上層部がこれを聞きつけて玉虫に自粛を求める一幕もあった。
十六歳の卓三郎も、そうした玉虫にの激しさに、大いに感化されたに違いない。
卓三郎は戊辰戦争時、激戦を繰り広げた白河口の戦いに加わった。ひどい惨敗だった。会津、仙台藩合わせて三千以上の軍勢が数百人たらずの薩長軍に敗れた。まさかの敗退だった。以来、何度も白河城の奪還を試みたが、奪いか返すことはできなかった。
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容保の沈黙
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会津の人はどちらかといえば寡黙である。運命に逆らうこともなく、堪えに堪えて生きてきた。
その具体的な例を一つあげよう。
会津が朝廷に恭順の意を表わしたときの嘆願書である。
どこまでも自分を責め、すべての責任を自分で取ろうとする生真面目(キマジメ)な文体であった。なぜ幕府の命令だと開き直らないのか、なぜここまでへりくだる必要があるのか、そう思わせる文体である。以下はその大要である。
【会津嘆願書】
弊藩(ヘイバン)は山谷(サンコク)の間に僻居(ヘキキョ)し、風気陋劣(ロウレツ)、人心頑愚(ガング)にして古習になずみ、世変に暗く、制御難渋の土俗(ドゾク)である。老君が京都守護職を申しつけられて以来、及ばずながら天朝を尊崇し、宸襟(シンキン)を安んじ奉りたい一心で、粉骨砕身して参った。万端行き届かない面はあったと存じるが、朝廷からはご垂憐(スイレン)を賜り、多年の間、なんとか奉公致すことができた。臣子の冥加(ミョウガ)この上なく、鴻恩(コウオン)の万分の一も報い奉りたく奮励いたし、朝廷に対しては闇(クラ)き心など毛頭なく、伏見の一件は突然に起こったやむを得ないことで、異心など毛頭もあるはずもないが、天聴を驚かせたことについては恐れ入り奉る次第につき帰国の上、退隠恭順した。ところがこのたび鎮撫使がご東下され、尊藩に征討の命令を下され、愕然の至りである。
宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る。
松平若狭守(ワカサノカミ)家来
西郷頼母(タノモ)
梶原平馬(ヘイマ)
一瀬要人(カナメ)
この嘆願書が拒否され、一気に奥羽越列藩同盟の結成となるが、そうであれば、これほどへりくだった嘆願書は必要なかった。孝明天皇から厚いご信任を戴き、職務を遂行したと書くべきであった。
あまりにも謙遜したので、「風気陋劣、人心頑愚」だけが残映として残ってしまった。
晩年の容保はいつも二十センチばかりの竹筒を背中に背負っていた。
竹筒の両端に紐をつけ、首から胸にたらし、その上から衣服をつけ、入浴の時以外は就寝時でさえはずさなかったといわれる。
私が見た何枚かの写真には、竹筒はなかったので、少し誇張しているだろう。
それはともかく竹筒の中身は、いわずと知れた孝明天皇の御宸翰である。
鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、
「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」
と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。
慶喜が敵前逃亡さえしなければ、情勢はどう転んだか分からなかった。
会津の人々はもっと慶喜をなじってもよかった。
だが容保も重臣たちも、声を荒げてまで慶喜を非難することはなかった。
一様に寡黙であり続けた。それが保守的に映ることもあった。
幕末の会津藩は、全力を尽くして使命をまっとうした。
その結果が予想だにしない転落の歴史であったが、それは会津藩に問題があったのではなく、戦う勇気を失った将軍慶喜のせいであり、正義が陰謀に敗れたに過ぎなかった。
朝敵という論拠は、どこにもないのである。
世代交代
会津と薩長との怨念はいつまで続くのか。この問題もここで触れねばなるまい。
私は『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)で、長州とは手を握らないと強く主張する会津の歴史研究家宮崎十三八(トミハチ)氏を紹介した。
宮崎氏は司馬遼太郎、綱淵謙錠(ツナブチケンジョウ)氏ら中央から訪れる作家たちのよき案内者であった。ご自分も会津に関して何冊もの本を書いた。
そのなかの最高傑作が『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)だ。宮崎氏は会津人の怒りを詳細に述べ、手は結ばないと明快にいい切った。
偽勅の問題、会津を踏みにじり、略奪の限りを尽くし、なおかつ戦死者の埋葬を認めなかったことへの怒り、戦後、米もとれない最果(サイハテ)ての地、下北半島に会津人を流し、塗炭の苦しみに追いやったこと、さらには戊辰戦争に参戦して戦死した官軍兵を祀った靖国神社の存在をあげ、痛烈に明治維新を批判した。
「会津人の怨念はそう簡単には消えません」
と、よく語っていた宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。その宮崎氏が他界されてもう十年がたつ。私は宮崎氏の意見には基本的に賛成である。宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。
第一、朝敵は謀略によってつくり出され差別用語であった。
このことを事実として国民が認識するまでは、手を結ぶべきではないことは明らかだった。薩摩や長州の人が憎いのではなく、歴史の欺瞞を解くことが必要だった。
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