真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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教育勅語と「奉体」「奉安」のシステム

2020年11月09日 | 国際・政治

 明治維新以後、日本は法律や政治制度,文化や生活様式の各領域で,西欧化が進み、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」などと表現される状況があったことはよく知られています。それは、富国強兵や殖産功業を推進しようとする明治政府の政策の結果といってもよいのではないかと思います。
 しかしながら、そうした欧化政策によって広がった西欧の考え方には、明治維新の王政復古の思想とは、相容れないものがありました。だから王政復古によって権力を奪取した薩長を中心とする人たちの明治政府が、自由民権運動などの欧化政策によって広がった思想を抑えようと伝統主義的・儒教主義的な徳育強化に動いたことは、当然の流れであり、それが「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)をもたらしたのだと思います。

 現在は、日本国憲法第26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定があるように、教育を受ける権利は、国民が国に対して要求できる「基本的人権」の一つですが、「教育勅語」は、王政復古の「神話的国体観」に基づいており、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓であるということなので、教育は”国民の権利”になっていないのだと思います。
 「教育勅語」には

我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 とあることでも、それがわかります。

 日本国憲法の第11条には”国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる”とあり、教育を受ける権利もその一つだと思いますが、天皇主権を定めた大日本帝国憲法における”国民の権利”は、”臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”とか、”日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ”という制限が設けられているばかりでなく、現在のような”国民の権利”や”人権”に対する考え方とは根本的に異なる考え方に基づくものであったと思います。
 だから、皇国日本における国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するものとして発布された「教育勅語」は、西欧の思想を学んだ人たちや教育の本質を追究した人たちの主張を斥けつつ、日本の敗戦の日まで国民を縛り続けたのだと思います。

 「教育勅語」(朝日選書154)の著者、山住正巳教授によれば、無教会主義で知られるキリスト教の思想家、内村鑑三は、その著書「聖書之研究」(1903年)に「…ここにおいてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育はもちろん、教育という教育は一つもない事が証明されました。明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熟禱熱思の結果として得たところの教育を盗み来って、これに勝手の添削を加えて施した偽りの教育であります」と書いて、教育勅語に基づく教育を痛烈に批判したといいます。
 また、いくつかの新聞社を渡り歩いたジャーナリスト桐生悠々は、「他山の石」(1935年)に「国際的に朋友相信ぜず、恭倹己れを持せずして、常に彼を疑い彼を卑しみ、彼を圧迫して顧ないが如きは、決して『世々厥の美を済せる』皇道ではない。重ねていう、『之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らざると言と行とが、真の我皇道でなくてはならない」と教育勅語と当時の対外政策の不一致を批判したといいます。
 そして、”学校教育も、すべて政府の意のままに進行したのではない。国定教科書に拘束されていた小学校でも、これに対する批判的な研究と実践があり、これを抜いては、戦前の教育の事実と問題点もまた明らかにならない。この批判的な言動は、教育と深い関係のある政治や文化のあり方を問い、また子どもの実態に着目するところからおってきた。…”と、例をあげ述べています。
 しかしながら、時の政府は、”我ガ国ノ教学ハ、教育ニ関スル勅語ヲ奉体シ、国体観念、日本精神ヲ体現スルヲ以テ、其ノ本旨トス、然ルニ久シキニ亘リテ輸入セラレタル外来思想ノ浸潤スル所、此ノ本旨ノ徹底ニ於テ未ダ十分ナラザルモノアリ”というようなとらえ方で、そうした動きに政治的圧力を加え、法学や教育学などの社会科学および歴史学や人類学などの人文科学の進歩を阻害し続けたのだと思います。

 だから、「教育勅語」が、今なお、”それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい”といわれる状況を踏まえれば、その内容と同時に、当時の「奉体」や「奉安」のシステムなどを通した、日常的な天皇制支配教育の実態を知ることは、大事なことだと思います。 

 下記は、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)の 『一 「御真影」と「教育勅語」』から、「(二)「教育勅語」について」の部分を抜粋しました。
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解説 佐藤秀夫                             
                一 「御真影」と「教育勅語」
 
                 (二)「教育勅語」について

                   「教育勅語」とは 
 現在に置いて「教育勅語」は、「御真影」と同様に、多くの人々にとっては、実感の伴わない歴史事象の一つとなっているといってよいだろう。
 ところが、元首相田中角栄からソニー元会長盛田昭夫に至るまで、戦後政財界をリードしてきた実力者たちが、戦後教育への批判を展開する際しばしば、その「不在」こそが批判さるべき教育の現状況を生じさせたのだという嘆息とともに、日本の「古き良き」教育理念として提示するのが、実はこの「教育勅語」なのである。「教育勅語」は保守的支配層の教育への意識の内に澱のようにたまっているのである。少なくともつい最近までは確かに沈澱していたとみてよいだろう。それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい。
 天皇制公教育を形成し維持していく上での「至高」の枠組として機能し、したがって学校教育における天皇制支配の最も顕著な表象物であった「御真影」と「教育勅語」とは、「肖像写真」と「文書」という形質上の差異をこえて、その取り扱い方にはかなり重要な差異が存在していたとみるべきであろう。国家元首でありかつ国家神道での「現人神」とされた天皇の肖像写真は、すでに述べたようにまさに「御真影」として礼拝対象とされていたから、それと学校との関係においては、「受動」や「強制」ではなく、「能動」と「自発」とが第一義的に求められた。速やかな普及よりも、自発的な「奉戴」の完全さが、基本的に求められていたのである。
 それに対して「教育勅語」の方は、日本教育の基本理念を体系的に表出した「ことば」であるので、公布と同時に尋常小学校を含む全ての学校に対して一律にその謄本が交付された。その後も新設された学校には、その設立主体の如何を問わずに、文部省から府県当局を通じて、または直接に、この教育勅語謄本が交付された。そこには「強制」と「普及・浸透」の即刻の実現方が求められていた。

               「教育勅語」をどうとらえるか
 従来日本近現代教育史において教育勅語は、大日本帝国憲法が日本国憲法にとってかえられるまで「不磨の大典」とみなされていたのと同様に、教育基本法の公布をみるまで、日本公教育の「真髄」を示す教典として「君臨」し続けたとみなされている。だが、ことばの正確な意味において、果たしてそう規定してさしつかえないものなのか、私は、そこにある種の限定づけが必要なのではないかと考えている。
 ・・・
 上述のように、日本近現代の急激な社会変動に対応した公教育の基本方針を時々の天皇からの詔勅により提示するという方式は、憲法上のいわゆる立法事項に関わるものを除いて、教育法規を勅令・省令等の命令によって制定してきた「教育法規の命令主義」慣行と相まって、敗戦前日本の教育行政管理の他に比類ない国家による中央集権性を根源において支えることになった。同時にこの方式の「定着」により、教育勅語そのものの時代的限界性の露呈と基本原理的虚構の崩壊とが回避されたばかりか、逆に「初発性」の故をもって、その「絶対制」が一層強調される結果をもたらさえしたのである。「綱領」から「聖典」への昇華がみられた。
 こうしてみると、理念面における天皇制の公教育支配を保障してきたものは、1890年公布の教育勅語のみでなく、それを「補強」もしくは「補完」する役割を果たした上述の諸詔勅類を含む一つの「体系」であったとみなければならない。天皇制の教育理念支配の否定を宣言した1948年六月の衆参両院の決議が、教育勅語とともに軍人勅諭・戊申詔書・「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」など「その他の教育に関する諸詔勅」を一括して排除もしくは失効確認したことは、この意味からいってまことに当然な措置であった。近現代天皇制と教育との関係史の考察に当たっては、今後は狭義の教育勅語だけを視野に収めるのではなく、広義の教育勅語といってよい「教育に関する諸詔勅類」を含んだ「体系」を対象としてとらえる必要があるのではないだろうか。
 ・・・

           (三) 「奉体」のシステムと実態とについて

                祝祭日学校儀式をめぐって
すでに(一)において関説したように、「御真影」と教育勅語と学校との関係史における最大の特徴は、その取扱い方 ── 当時の表現では「奉体」──にあったといってよい。肖像写真である「御真影」はもとよりだったが、文書である教育勅語を初めとする詔勅類にあっては、修身科教科書における教材の構成に影響を及ぼす一方、その「奉読」(全学校)や暗唱暗写(主として中等学校)が求められはしたものの、学校教育に与えた影響としては、それらの文章の多義的な意味内容よりも、それらの「存在」そのものが最も深刻で且つ核心的に作動したとみるべきだろう。
 その「存在」が子どもたちにとって最も大きくのしかかってくる機会は、何といっても国家祝祭日の学校儀式であった。「御真影」の「下賜」を契機として国家祝日(とくに紀元節と天長節)における拝礼儀式が導入され、教育勅語の下付を機に国家祝祭日における学校儀式が定例化された。それまで単なる休日であった国家祝祭日は、教員・児童生徒の参加が強制される学校儀式日(式日)に転換されたのである。「御真影」への拝礼、教育勅語の「奉読」、校長訓話、及び祝祭日唱歌斉唱を主な内容する学校儀式の形態は、1891年六月の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」により最初の定型が与えられた。三大節(紀元節・天長節・一月一日)七祭日(元始祭・神嘗祭(カンナメサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)・孝明天皇祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・秋季皇霊祭 ── もう一つの「新年宴会」には学校儀式は施行しない)全てに挙行された当初の儀式は、あまりにも「頻繁ニ渉リ疎慢ノ嫌アラシムル」結果かえって「厭倦(エンケン)ノ機」を子どもに与える虞れがあるとして、93年五月原則として三大節のみ施行と修正され、この原則は1900年八月「小学校令施行規則」に採用され定着した。慣行化された儀式施行上の細部は、41年四月文部省制定の「礼法要項」によりあらためて定式化され、宮城遙拝や国旗掲揚などとともに「国民礼法」の重要な一部として、小学校のみならず、全ての学校に適用されることになった。
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              「奉安」のシステム
 「御真影」と教育勅語とが学校に持ち込まれることによって、それらを安全に保管しておくことが学校管理者および教職員にとっての最重要事項として登場することになった。
 教育勅語謄本の下付がほぼ行きわたった91年四月、文部省は第二次小学校令施行上の規則の一つとして定めた最初の「小学校設備準則」において「校舎ニハ 天皇陛下及 皇后陛下ノ 御真並教育ニ関スル 勅語ノ謄本ヲ奉置すへき場所ヲ一定シ置クヲ要ス」と定めた(資料三の六)。これが「奉置」規定の最初であったが、同年十一月に「設備準則」を改正した際に、同準則から「奉置」規定を除いて、独立の文部省訓令第四号により「管内学校ヘ下賜セラレタル天皇陛下 皇后陛下ノ 御影並教育ニ関シ下シタマヒタル 勅語ノ謄本ハ校内一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」と規定し直した(資料三の一七)。同訓令の「説明」によれば、「御真影」教育勅語の「奉置方」については設備準則に「規定スヘキ性質ノモノニアラス」とあり、これは、それらを小学校設備の一種であるかのように取り扱ったことを自己批判」し、「最も尊重ニ」奉置するようあらためて指示したことを意味している。
 天皇制教育の浸透にともない「奉置」は次第に徹底していく。学校では一般に、男性教職員による宿直、女性教職員を含む日直の服務体制を採用して、不時の「災難」に備えることとした。しかしその際に問題になったのは、上記91年文部省訓令第四号にいう「校内一定ノ場所」という制限であった。早くも93年兵庫県から、教職員数が少なく宿直が困難であったり(当時は単級学校、つまり一学級一教員の学校が全国小学校編制の最多数を占めていた)、山里で学校が人家から離れているなどの場合には町村役場など保管体制がしっかり取られ得る施設に「奉遷」してもよいかとの問い合わせがあり、これに対し文部省はやむを得ない場合、学校以外での「奉蔵」を認めた(資料三の三八)。1907年一月仙台しないの宮城県立第一中学校火災の際、宿直中の書記が二階に「奉置」してある「御真影」を運び出そうとして殉職した事件を契機に、仙台市では文部省の認可を得て市内全学校の「御真影」を市役所構内に設置した「堅牢ナル奉安所」に一括保管することとした。
 当初上記訓令中の「校内」が多く「校舎内」と解されていて、しかも小学校は木造校舎が圧倒的であり(鉄筋コンクリート造の小学校は1913年に神戸と横浜に各一校建設されたのが最初である)、児童数の増加に応じて二階建て校舎が増えてきた場合、階上を児童が往来している一階に「御真影」等を「奉置」することがはばかられたので、多くは二階建て校舎の二階に「奉置室」が設けられた。このために学校火災の際、「奉遷」が困難で、教職員の犠牲を生ずる可能性が高かった。1921年一月の長野県南条尋常高等小学校長中島仲重殉職事件はその悲惨な一例だったが、この殉職をめぐる論議においては、危険な「御真影」の「宮内省への奉還」論さえ提唱さてれたほどである。(資料四の(八)四─九)。
 文部省をはじめ府県行政当局は、宿直体制の徹底化(例えば資料三の八九)、管理責任の明確化(例えば資料三の九一)、教職員の奉体実践意識の育成強化(例えば資料三の八八、九〇)などの措置をとったが、他方学校側では「校内」を「校地内」と解釈して、木造校舎から一定の距離を置いた場所に漆喰造、石造など防火性を備えた独立の収蔵施設を設ける方法を取るようになった。鉄筋コンクリート工法が普及しはじめた1920年代後半以降はさらに多くの学校に設けられるようになり、30年代には文部省大臣官房建築課で神社形式の神明造で、防火への配慮のみならず換気装置をも付した模範設計を示すようになる(東京工業大学学校施設研究センター所蔵「菅野誠文庫文書」、宮城県庁文書)。「御真影」教育勅語謄本の「奉置」については、多くの府県で定期的に視学による視察が施行され、その際には湿気による損傷の有無も重要な点検課題とされていたからである。単なる「奉置」ではなく、完全に安全な保管を最重視するという意味での「奉安」という用語が一般化するようになり、それらを考慮した独立の施設は「奉安庫」または「奉安殿」(神明造など神社形式の場合)と呼ばれるようになった。校舎全体が鉄筋コンクリート造となった大都市の学校では、校長室の壁面に特別製の鉄製「奉安庫」を設備することもあった。
 ・・・
 こうして校地内に設置された「奉安殿」に対して、子どもたちは登下校の際に最敬礼することが求められるようになった。これは、折しも頻繁に登場するようになった「宮城遙拝」と符節を合わせて、従来「ハレ」の行事の際に限られていた天皇拝礼の、学校における日常化を意味していた。
 アジア太平洋戦争の末期、日本内地への空爆が必至になると、「奉安殿」の防備と「御真影」等の緊急避難は、学校防護団の重要任務の第一に位置づけられた。大都市をはじめ戦火の予想される地域からの人員疎開が開始されるのと同時に、「御真影」教育勅語謄本の疎開も実施された。都市近郊の安全な地域に臨時の「奉安所」が設立され、関係学校の教職員が交替で保全監視に当たったのである。 敗戦により、軍国主義教育の否定と国家神道の学校からの排除等の連合国軍指令に基づき、学校の軍事教練用武器、戦勝記念戦利品、忠霊碑などとともに「奉安殿」の撤去が占領軍地方軍政当局から指示された。当初文部省は神明造など神社形式の「奉安殿」のみの撤去に応じただけだったが、軍政当局は全ての撤去を強く求めた。四十五年末から四十六年にかけての「御真影」回収と並行して、ほぼ全ての学校での「奉安庫」「奉安殿」の解体・撤去が開始されるが、地域によっては四十八・九年頃までずれ込む場合があった。日本政府が固執していた教育勅語について、四十八年六月国会決議によりその学校からの排除・失効が確認されるや、直ちに謄本の回収・「奉焼」が実施されたので、「奉安庫」「奉安殿」の存在理由は完全に消滅していた。にもかかわらずその撤去の遅延した場合があったのは、設立後数年を経たばかりで破壊するのに忍びない「心情」や、設立費の完済を終えていない時点での解体に対する「ためらい」なども作用していたと考えられる。学校からの撤去の際に、解体ではなく「廃物利用」として、戦災で焼失したり老朽化してしまった神社や稲荷社の神殿に移設・転用された例もみられた。
 

 


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