真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治新政権による「仏教抹殺」NO1

2020年06月08日 | 国際・政治

 日本の戦争はいろいろな意味で特別だったと思います。まず、250万人といわれる日本兵の死者の6~7割が餓死であったといわれていることがあります。
 また、降伏が許されず、あちこちの戦地で日本軍部隊は全滅しました。それを、大本営は「玉砕」として発表しましたが、それは、戦死者を「玉の如くに清く砕け散った」と美化し、死ぬまで戦うことを強いる考え方の表現だったと思います。
 さらに、大戦末期には、戦死前提の特別攻撃を任務とした部隊、いわゆる「特攻隊」が編成され、体当たり攻撃がくり返されました。
 こうしたことは、他国にはほとんど例がないのではないかと思います。だから、皇国日本の戦争については、いろいろ考えるべきことがあると思います。  

 私は以前 司馬遼太郎が、「この国のかたち 四(文藝春秋)の中で「…だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう」と書いていることに、”司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策”で触れました。
 また、「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである」と書いていることにも触れました。さらに、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の「別国」では、「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と、昭和初期を徹底的に批判しつつ、その昭和初期十数年間の”別国”は、統帥権の解釈の変更によって生まれたというようなことを書いていることにも触れました。私には「祖国防衛戦争」も、「非連続の時代」も、「別国」も受け入れ難い考え方です。

 私は、日本の戦争や敗戦の責任を、司馬遼太郎のように、一時期の軍人になすり付けるようなこうした考え方は根本的に間違っていると思います。だから、以前にも書きましたが、彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、明治維新によって皇国日本が生まれた時からすでに始まっており、明治時代に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)が継続され、強化され・徹底された結果、問題が深刻化して「暗い昭和」に至ったのだと思います。

 その根拠の一つとして、皇室中心主義的思想をもって軍部と関わり、戦時中、大日本言論報国会の会長を務めた徳富蘇峰の「日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である」という主張も取り上げました。
 徳富蘇峰が指摘した通り、また、昭和天皇が戦後、いわゆる「人間宣言」で指摘した通り、日本の戦争は、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」という考え方で進められたのであり、皇国日本の考え方に基づけば、日本の敗戦は、必然的な歴史の流れだったのではないかと思います。

 ここでは、天皇を「現人神」とした考え方に基づく、明治時代の神仏分離の政策について取り上げたいと思います。
 「仏教抹殺」(文藝春秋)の著者、 鵜飼秀徳氏は、日本各地に足を運び、あまり知られていない廃仏毀釈の重要な史実を調べ上げていますが、それは、戦争に突き進んだ皇国日本の考え方を知る上で、大事なことだと思います。


 日本で神仏分離令が発令されるずっと前に、イギリスやアメリカでは憲法の中に人権保障規定が設けられ、フランスでは、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなる「人間と市民の権利の宣言」が採択されていることを見逃すことができません。
 明治維新が、日本に文明開化をもたらした側面は否定できませんが、明治維新後の皇国日本を動かした根本的な考え方は、建国神話をよりどころとして”往古ニ立帰リ”、国民に天皇への絶対的服従を求めるものであり、時代を逆行させるものであったことは、下記のような神仏分離政策や廃仏毀釈の動きによっても知ることができると思います。明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派にとっては、仏教徒の人権や信教の自由は、考慮の外にあり、皇国日本による”世界ヲ支配スベキ運命”の実現が、至上命令になっていたのではないかと思います。

 
 そういう意味では、戦後も、日本の歴史が薩長史観で語られている側面があり、皇国日本にとって不都合な廃仏毀釈の歴史的事実が伏せられていることを、「仏教抹殺」は教えてくれるものであると思います。
 下記は、「第一章 廃仏毀釈のはじまり──比叡山、水戸」から、 「神と仏を切り分けた神仏分離令」、「比叡山から上がった”火の手”」、「新政府の当惑」の一部、「”肉食妻帯”と上知令」、「寺院破却のインアパクト」を抜粋しました。(横書きのため、数字の表記の一部を変更しています。)
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              第一章 廃仏毀釈のはじまり──比叡山、水戸

 神と仏を切り分けた神仏分離令 
 仏と神の切り分けは、1868(慶応四)年三月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されて行った。1868(明治元)年十月まで断続的に続けられた一連の十二の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる。
 神仏分離令は三月十三日、以下のような太政官布告によって火蓋が切って落とされた。

「此度(コノタビ)王政復古神武創業ノ始ニ被為基(モトヅカセラレ)、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候(アソバサレソウロウ)ニ付テハ、先(マズ)第一、神祇官(ジンギカン)御再興御造立ノ上、追々(オイオイ)諸祭奠(サイテン)モ可被為興(オコサセラルベキ)儀、被仰出(オオセイデサレ)候、依(ヨリ)テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止(トドメラレ)、普く天下之諸神社、神主、禰宜(ネギ)、祝(ハフリ)、神部(カンベ)ニ至迄、向後(コウゴ)右神祇官附属ニ被仰渡(オオセワタラレ)候間、官位ヲ初(ハジメ)、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得(アイココロウベク)候事」

 この太政官布告の内容は要するに、これからの日本は、古代(法令では、神武天皇がこの世に現れた時と定義している)に、政治上の君主と宗教上の司祭者とが同一であったような祭政一致体制を目指すという内容である。そして、神祇官を復活させ、各神社や神職らは神祇官のもとに置く、という。
 神祇官とは古代の律令制のもとでの、祭祀を司る官庁のこと。つまりは、神社は宗教の枠組みから外され、国家機関として機能させていく方針が定められたのだ。「神は国家なり」である。神祇官は1868年三月十七日には、神祇事務局から各神社にたいし、通達が出される。

 「今般王政復古、旧弊御一洗被為在(アラセラレ)候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔(ナド)ト相唱へ候輩(ヤカラ)ハ復飾被仰出(フクショクオオセイダサレ)候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分(ヨギナクサシツカエコレアルブン)ハ、可申出候、仍(ヨリ)テ此段可相心得候事
但(タダシ)別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為
在候間(アラセラルベクソウロウアイダ)、当今ノ処、衣服ハ浄衣ニテ勤仕可致(イタスベク)候事 
右ノ通(トオリ)相心得、致復飾候面々ハ、当局ヘ届出可(モウスベキ)申者也」

 ここで注目すべきキーワードは「復飾」である。復飾とは、僧侶の還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)をさす。江戸時代まで大規模な神社には、「社僧」と呼ばれる僧侶が従事した。そして、神前で読経などの儀式をした。さらに、「別当」とは宮寺(神宮寺)における責任者のことである。本通達では、社僧や別当にたいして還俗を促した上で、神社に勤仕するよう命じたのだ。
 昨日今日まで仏教者であった人間が、明日からいきなり宗教を変えて神職になれ、というのはあまりにも乱暴な話である。僧侶たちは、激しい抵抗を見せたのだろうか。
 意外なことに、多くの僧侶はさほど抵抗もなく、職替えをした。新政府に逆らっても立場を危うくするだけだし、なによりも神も仏も一緒だったのだから、神に仕えても問題なし、ということだったのかもしれない。
 続いて、同月二十八日の太政官布告では、より具体的な神仏分離の内容が出される。この二十八日の太政官布告は俗に、神仏判然令と呼ばれている。「判然」とは「はっきりと区別する」という意味である。

 「一、中古以来、其権現(ゴンゲン)或ハ牛頭(ゴズ)天王之類(タグイ)、其外(ソノホカ)仏語ヲ以神号ニ相称(トナエ)候神社不少(スクナカラズ)候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早々可申出(モウシウヅベク)候事、但勅祭之神社御宸翰勅額(ゴシンカン・チョクガク)等有之候向(コレアリソウロウムキ)ハ、是又可伺出(ウカガイイツズベク)、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事
 一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔(ナド)ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(ワニグチ)、梵鐘、仏具等之類差置(サシオク)候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事

 神仏判然令では、神社における仏教的要素の排斥を命じている。たとえば「権現」「牛頭天王」など仏教由来の神号を禁止した。権現とは仏が神の姿となってこの世に現れたものであり、牛頭天王はインド仏教の聖地、祇園精舎の守護神とされている。
 神社に付属して置かれた寺院である神宮寺、あるいは宮寺では、仏像を神体にして祀ったケースが多かった。しかし、それも神鏡などの神体に取り替えるよう命じられた。仏具である鰐口(賽銭箱の上に吊り下げられている打ち鳴らす鐘)や梵鐘などもすべて取り除け、としている。このように江戸時代までは、神社の中に仏教由来のものが祀られていたり、寺院の中にも神社が祀られていたりと、神仏がごちゃまぜになっていたのだ。
 このことは、新政府サイドからすれば、徳川幕府時代の旧態依然とした宗教形態であり、許しがたい習俗であった。新国家樹立にあたっては、天皇を中心とする祭政一致体制が求められる。そのためには、神と混りあっていた仏教は「異物」に他ならず、それを明確に切り分ける(判然とする)必要があったのだ。
 だが、新政府が目指したのはあくまでも、神仏の切り分けである。この時点では、廃仏毀釈として民衆運動化していくことは、新政府側は予想もしていなかったと思われる。
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 比叡山から上がった”火の手”
 廃仏毀釈の最初の大きなアクションは、仏教の一大拠点であった比叡山の麓(フモト)の日吉大社(滋賀県大津市坂本)で起きた。日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮である。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日吉神社なども、日吉大社の分霊社にあたる。 
 日吉大社は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきた。だが、伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになる。日吉大社は延暦寺の守護神として位置付けられた。
 いわば、仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていく。そして僧侶によって神官らは虐げられていたのだ。
 折しもそこに神仏分離令が出される。そこで、積年の恨みとばかりに神官たちは徒党を組んで社から僧侶を追い出し、仏像仏具を毀し始めた。これが後に全国に波及していく廃仏毀釈の最初であった。
 それは三月二十八日の太政官布告から、わずか四日後の四月一日のことであった。四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊(シンイタイ)」を名乗って、日吉大社に乱入した。
 神威隊を率いたのは、日吉大社社司で新政府の神祇事務局事務掛の任についていた樹下(ジュゲ)茂国と、同じく社司の生源寺(ショウゲンジ)希徳であった。
 樹下らは延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の三エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求した。
 執行代は、「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」として、樹下の要求を頑として拒否。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたという。
 埒があかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。鰐口や具足、華籠(ケコ)などの金属類48点は持ち去られた。焼き払われた仏像は本地仏のほか阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていた。
 暴徒の中には、社司から雇われた地元坂本の農民100人が含まれていたとされている。当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは重い年貢を背負わされていた。江戸幕府の庇護のもと、長年にわたって既得権益を握ってきた延暦寺に対する地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができよう。
 現在、日吉大社周辺を訪れれば、当時の爪痕をいくつか確認することができる。
 JR湖西線の比叡山坂本駅から十五分ほど歩き、石の鳥居をくぐると、広い参道が境内へと真っすぐに伸びている。その参道の脇には巨大な常夜灯が四十四基並んでいる。石には「〇〇権現」との文字が刻まれている。これらはかつて、延暦寺によって境内に立てられたものだが、廃仏毀釈の際に倒され、境内の外に放り出されたものだという。
 また、日吉大社周辺には江戸期のものと思われる地蔵を多数見付けることができたが、破壊されたものや、地面に埋まったものも少なくなかった。
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 新政府の当惑
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 新政府は日吉大社の暴動からわずか九日後の四月十日、以下のような太政官布告を出し、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。
 「諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱へ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早々ニ取除相改可申(アイアラタメモウスベク)旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善(アイヨカラズ)、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽(ハラ)シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨(サマタゲ)ヲ生(ナ)シ候而巳(ノミ)ナラス、紛擾(フンジョウ)ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜(ヨロシキ)ヲ考ヘ、穏(オダヤ)ニ可取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノミチヲ不失(ウシナワズ)、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具等取除候分タリモ、一々取計向伺出、御差図可受候、若以来心得違ココロエチガイ)致シ、粗暴ノ振舞等於有之ハ、屹度(キット)曲事(クセゴト)可被仰付候(オオセツケラルベク)事」 
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 「肉食妻帯」と上知令
 それでも、新政府は仏教の力を削ぐ必要性があった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在になっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった 仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった。
 新政府による仏教弱体化政策は、神仏分離令だけにとどまらなかった。
 明治新政府は1872(明治5)年、「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」との太政官布告を出す。つまり江戸幕府では禁制であった、僧侶の「肉を食べる・妻をめとる・髪を生やす」を解禁したのだ。また、住職の世襲も明治以降は認められるようになっていく。
 一見すれば僧侶に対する規制緩和措置だが、これも神仏分離の一環とみることができる。明治新政府は、宗教的求心力を削ぐ目的で僧侶の世俗化、弱体化を狙ったのだ。
 一般人の中にはいまでも「お坊さんが肉を食べてもいいのか」「結婚してもいいのか」という違和感を抱いている人は少なくないだろう。従来「肉食妻帯」を認めていた浄土真宗を除き、確かに江戸時代までそれらの行為は御法度(ゴハット)だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを「国家」が認めるという、あらたな局面に入っていく。
 伽藍(寺院の建物)などの物的破壊に加え、僧侶を世俗化させる一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は弱体化してゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする「葬式仏教」化が加速してゆくのもこの頃からだ。現在の、仏教者にたいする「金儲け主義」といった批判の源流をたどれば、この明治の神仏分離政策に行き着くだろう。
 さらに明治維新時の一連の仏教弾圧のなかでも、とくに致命的だったのが上知令であった。上知とは土地の召し上げを意味する。上知令は1871(明治四)年と1875(明治八)年の二度にわたった。境内の主たる領域を除いて、広大な境内地が没収された。この上知令によって、全国の寺院(神社境内も上知の対象であった)の境内地は数分の一にまで減らされた。上知令については、京都の廃仏毀釈の章でより詳しく述べることとする。
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 寺院破却のインアパクト
 神仏分離政策から派生した廃仏毀釈の機運が完全に終息するのは1876(明治九)年ごろのことである。江戸時代には寺院数が九万ケ寺あり、廃仏毀釈によって半分の四万五千カ寺ほどになったとも伝えられている。だが、その正確な実数は不明である。
 とくに南九州では徹底的に寺院が破却された。鹿児島県『鹿児島県史』では江戸末期までは県内に寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いたとの記録がある。ところが、1874(明治七)年までに寺院・僧侶ともにゼロになってしまった。(破却率100%)。
 廃仏毀釈が収まり、浄土真宗がとくに熱心に開教(新たに寺院をつくること)活動を実施したことで、487ヶ寺にまで戻しているが、鹿児島県は47都道府県の中では六番目に少ない寺院数になっている。
 高知県も激烈な廃仏毀釈に見舞われた地域だ。1870(明治三)年三月時点で613ヶ寺存在していたが、1877(明治十)年では206ヶ寺にまで激減した(破却率66%)。
 高知県は、四国八十八カ所霊場巡り(お遍路)の舞台でもある。県内には16ヶ寺の霊場が存在するが、うち9ヶ寺が廃仏毀釈によって廃寺になっている。現在、県内寺院は365ヶ寺まで戻してきているが、往時の約六割の水準である。
 廃仏毀釈は島嶼部にも及んだ。佐渡は江戸時代まで寺院数が多く539ヶ寺を数えたが、80ヶ寺になった(破却率85%)。隠岐では、およそ106ヶ寺がゼロになっている(破却率100%)。島という閉鎖されたコミュニティの中で、ひとたび点火された廃仏毀釈の炎は一気に燃え上がったと思われる。
 廃仏毀釈後、破却された一部の寺院は復興され、現在7万7千ヶ寺まで戻して(あるいは開教して)きている。廃仏毀釈直後は激減した状態だったから、檀信徒や寺院関係者がいかに心血を注いで復興につとめたかが伝わってくる。それでも、少なくとも一万ヶ寺以上の寺院が、現在にいたるまで消滅したままになっているのである。
 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた都市では、現在でも寺院の数が異様に少なかったり、仏教由来の文化財がほとんど残っていなかったりする。縁起や過去帳、寺宝録なども破棄されてしまったために、廃仏状況が検証されていないケースがほとんどである。
 「寺がゼロ」になった鹿児島県では、県や市の文化財担当者に問い合わせても、「実態がよく分からないし、行政サイドには詳しい人もいない」と言う。また廃仏毀釈後、復興したいくつかの寺に取材を依頼したが、「嫌な過去の歴史は話したくない」「知らない」と拒否されることが多かった。多くの仏教者が廃仏毀釈をタブー視している実情がある。
 しかし幕末まで仏教を崇拝してきた為政者や多くの市民がなぜ、明治になって「仏殺し」に転じたのか、廃仏毀釈が吹き荒れた地域と、そうでない地域とで、どのような違いがあったのだろう。以下の章では、こうした疑問にも答えていきたい。

コメント (2)
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