真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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”死中活を求め、日本民族の光を千古に放つ”ために降伏せず(徳富蘇峰NO2)

2020年04月16日 | 国際・政治

 日本書紀に書かれている「天壌無窮の神勅」に基づいて、徳富蘇峰は” 皇室が日本国家と日本国民とを離れて、皇室のみとして、御存在のあるべき筈はない”といいます。そして、”苟(イヤシク)も日本国民に国民たる魂がある以上は、外国に降伏し、日本固有の日本精神を抛棄(ホウキ)し、その生活も、その思想も、悉く外人の命令通り、誘導通り、強制通り、期待通り、行うべき筈はない。かくの如くに行うならば、最早や日本国民は、物質的にも、精神的にも、滅亡したものといわねばならぬ”と断言し、”大概の所で見切りを付けて、降参するが上分別である”というような考えは、”我等の平生排斥する功利論である”として、断乎として日本の降伏を非難し、攻撃するのです。

そして、”仮に戦争に負けたとしても、また敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為に我が大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない”などと決めつけ、被爆した人々の地獄の苦しみなど、何等考慮することなく、下記に文章にあるように、八千万の日本国民が”仮にその半数である四千万となっても”降伏することなく戦うべきだというのです。人命や人権などを全く問題にしない恐ろしい考え方であると思います。

 でも、「建国神話」を史実として受けとめ、日本書紀に記述されているという三大神勅(天壌無窮の神勅、宝鏡奉斎の神勅、斎庭稲穂の神勅)を、徳富蘇峰のように解釈すると、”皇室は厳として日本国民の上に、君臨し給い”、その君臨が、”外国の容認”や、”仁恵(ジンケイ)”や、”監視”や、”監督”のもとにあってはならないのであり、日本は、”天照大神以来の御神勅によりて、天皇が統治権を知ろしめす国”で、”かくてこそ日本は、再興の機会もあれば、復讐の機会もある”ということになるのだと思います。

 もちろん徳富蘇峰とは違った解釈をする人があったかも知れませんが、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げつくり上げた日本が、こうした怖ろしい考え方をする人たちに支えられた「皇国日本」であったことは否定できず、看過されてはならないことだと、私は思います。
 全滅が「玉砕」と表現され、特攻が「神風」と表現されて繰り返されたのも、「皇国日本」や「国家神道」の考え方が、当時の日本を覆っていたからで、他国ではほとんど例がないのではないかと思います。
 「検証 昭和史の焦点」保阪正康(文春文庫)によれば、1943年、アッツ島の日本軍守備隊が全滅した際、初めて大本営発表が「玉砕」の表現を使用したとのことですが、それは、下記のような内容でした。
『アッツ島守備隊は』五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処五月二十九日夜敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し皇軍の真髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、負病者にして攻撃に参加せ得ざるものは之に先立ち悉く自決せり、我が守備隊は二千数百にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり、敵は特種優秀装備の約二万にして五月二十八日までに与へたる損害六千を下らず
 アッツ島守備隊のこの”壮烈なる攻撃”は、全滅が前提の攻撃であり、特攻と変わらないと思います。そして大本営が「玉砕」という言葉を使い、それを賞賛し美化したばかりでなく、戦陣訓の教え通り”攻撃に参加し得ざる”負病者が、天皇への忠誠や国家のために”生きて虜囚の辱を受け”ることなく”之に先立ち悉く自決”したことも、きちんと発表しています。
 ”単ナル神話ト伝説”によって”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(1946年1月1日、官報により発布された昭和天皇の詔書の一節)なしには考えられないことだと思います。
 言い換えれば”天照大神以来の御神勅によりて、天皇が統治権を知ろしめす国”では、現在、日本国憲法に定められているような人命や人権は、問題にはならなかったということです。
 だから私は、明治時代の文明開化といわれるような部分のみに焦点をあて、歴史を語ってはならないと思うのです。

 ところが、日本にはサンフランシスコ講和条約調印後まもなくの頃から、「紀元節」復活の運動があったといいます。そしてその後、神武天皇が即位したといわれる二月十一日の「紀元節」の日が、「建国記念の日」となりました。なぜでしょうか。
 また現在、「文化の日」を「明治の日」に変えようという動きがあるようですが、「文化の日」はかつての「明治節」で明治天皇の誕生日をお祝いする日でした。それを「明治の日」に変えようというのです。
 だから私は、日本の政治の中枢には、確実に戦前の「皇国日本」を取り戻そうとする動きがあるように思います。それは、「玉砕」や「特攻」や「自決」に象徴されるような、戦前・戦中の人命軽視・人権無視の日本の歴史を、きちんと反省していないということなのではないかと、私は思います。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から「四 万世太平の真諦」を抜粋しました。
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                    『頑蘇夢物語』一巻
 四 万世太平の真諦
 根本的の間違いは、皇室、国家、国民この三者を切り離して考える事である。外国では、君主は会社の社長や重役の如く、他から聘(マネ)うて来たこともあり、選挙することもあり、世襲であっても、勝手に取換えることも出来る。いわば帽子である。また国家と国民も、自ら同一の場合もあれば、同一ならざる場合もある。異なりたる民族が集まって、一の国家を作為する場合もあれば、一の民族が他の民族を支配する場合もある。しかるに日本では、絶対にこの三者は切り離して考うる事は出来ない。皇室を離れて日本国の存在もなければ、日本国民の存在もない。同時に恐れながら、日本国家を離れ、日本国民を離れて、皇室のみが存在せらるる筈もない。

豊葦原ノ千五百秋(チイホアキ)ノ瑞穂ノ国ハ是レ吾カ子孫ノ王タルヘキ地ナリ宜(ヨロ)シク爾(ナンジ)皇孫就キテ治セ行牟宝祚(ホウソ)ノ隆(サカ)エマサムコト当(マサ)ニ天壌(テンジョウ)ト与(トモ)ニ窮(キワマ)リナカルヘシ

 この御神勅の意味を奉戴すれば、皇室が日本国家と日本国民とを離れて、皇室のみとして、御存在のあるべき筈はない。いわば国も民も、皇室を頭首と戴くものであって、皇室に対する臣民としては、これを国民といい、皇室の統治せらるる地域としては、これを国家というに外ならない。首を戴くは体でなくてはならぬ。体を切離して、首のみが存在する筈はない。しかるにこの国家と、この人民を別にして、皇室を考えるという事は、全く頭首を帽子同様に考えている米英思想の残滓に過ぎない。

 従(ヨッ)て皇室さえ御存在あれば、日本は如何ようになっても、差支(サシツカエ)ないなぞという議論は、日本国民として、苟(イヤシ)も我が国体の真相を知る者は、断じて口にすべきものではない。義は君臣、情は父子、皇室と皇民とは、決して切離すべきものではない。皇民の本源に遡れば、必ず皇室がその源頭である。大なる家族的国家である日本が、家族は如何になっても、また家は如何になっても、家長さえあれば宜(ヨ)いではないかという論は成り立たない。しかるに我等は陛下の御主権を、敵国人が容認したから、それで差支なしなどという事は、何たる譫言(タワゴト)であるか。首を支うるには飽く迄(アクマデ)体がなからねばならぬ。体を切離して、首さえあれば差支なしという考えは、有り得る筈はない。日本国民の擁護を離れて、他の力によって皇室を擁護するなどという事は、実に皇室の尊厳を冒瀆し奉るの極度である。日本国を辱かしむるという事は、皇室を辱かしむる事であり、忠良なる皇室の臣民たる日本国民を辱かしむるの所以である。日本皇民は誰の皇民でもない。天皇の皇民である。苟(イヤシ)も尊王の大義に明かなる者は、この国家とこの国民とを、珍重護持せねばならぬ。しかるに国家や国民は如何ようにもあれ、皇室の主権だけを、外人が容認したから、それで我等は満足であるというような事は、実に皇国と皇民とを侮辱するばかりでなく、恐れながら皇室を侮辱し奉るものといわねばならぬ。

 また敵国に降参して、国家万世の太平を開くというが、万世どころではない、恐らくは三日の太平さえも、維持する事は出来まい。苟も日本国民に国民たる魂がある以上は、外国に降伏し、日本固有の日本精神を抛棄(ホウキ)し、その生活も、その思想も、悉く外人の命令通り、誘導通り、強制通り、期待通り、行うべき筈はない。かくの如くに行うならば、最早や日本国民は、物質的にも、精神的にも、滅亡したものといわねばならぬ。それで万世の太平を開くなぞという事は、余りにも事実と掛け離れている。
 
 あるいは曰く、戦争を継続すれば、到底勝ち目はない。勝ち目がないのに戦争をして、その挙句は、累を皇室に及ぼす事となる。そこで皇室の御為めを考えて、思い切って恥を忍んで、降伏すべきであると。元来戦争は水物である。相撲が土俵の中に立たぬ前に、勝敗が定まる筈はない。勝か負けるか、四つに組んで初めて判るのである。日露戦争の時にも、日本は必ず負けるものと、世界は折紙を付けていた。しかるに勝ったではないか。日本では、前にも申した通り、未だ使用せない軍隊が、内地ばかりで五百万ある。支那を合すれば六百万となり、飛行機のみが一万台ある。精々差引いても、八千台は優に、使用ができる。しかるに是等の物を擁しつつ、負けるから軍(イク)さはせぬという見込みは、余りにも臆病神に取り憑(ツ)つかれているのではないか。万一戦争をして、負けた時には、それは時の運である。その時には、累を皇室に及ぼすというが、日本国土と日本臣民とを離れて、皇室のみを考えることは出来ぬという前提から見れば、この戦争は皇室御自身の戦争であり、天皇御自身の戦争である。累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう事は、皇室を日本国家と別物としての考えであつて、切離すことの出来ぬものに、累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう文句の付くべき筈はない。一家が没落する時には、家長も当然没落せねばならぬ。国民と優苦艱難(ユウクカンナン)を共にし給(タマ)うところに、初めてここに皇室の有難味がある。国民の利害休戚は、一切度外視して、皇室さえ安泰であれば、それで宜しいという事は、日本の国体には有り得べき事ではない。それは独逸のホーヘンツォルレン家の最後の皇帝、ウィルヘルム二世の如きが、それである。国が如何になっても自分さえ安全ならば宜いというので、一番先に遁(ニ)げだしたのが、それである。身を以て国難に代らせ給う如き、亀山天皇の思召しの如きは、独逸の君主などの、夢にも領解するところではない。しかし、それが日本の国体の有難きところである。あるいは曰く、戦争をして敗北すれば、何もかも失うではないか。それよりも大概の所で見切りを付けて、降参するが上分別であると。それが全く我等の平生排斥する功利論である。仮に戦争に負けたとしても、また敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為に我が大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。純粋なる大和民族と称すべきものは現在八千万内外であろう。その八千万内外の者を、一人も残らず殺し尽くすという事は、到底出来得べき事ではない。支那の歴史にも『楚三戸と雖も、秦を亡ぼすものは必ず楚ならん』という文句がある。即ち楚の国が三軒残っても、必ず復讐して秦国を亡ぼすであろうという事である。苟も日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として日本国民の上に、君臨し給う事は確実である。しかるにその君臨は、外国の容認の下でもなければ、仁恵(ジンケイ)の下でもなく、監視の下でもなければ、監督の下でもない。天照大神以来の御神勅によりての天皇である統治権を知ろしめす訳である。かくてこそ日本は、再興の機会もあれば、復讐の機会もある。即ちかかる場合に於ては、戦うという事が、勝つ所以であり、死するという事が生くる所以であり、亡びるという事が、存する所以である。所謂死中活を求むるとはこの事である。これだけの一大決意をなし、一大飛躍をなして、初めてここに日本民族の光を千古に放つことが出来、所謂万世太平の基を開く事が出来るのである。降参して万世太平を開くなど、飛んでもない間違いである。降参の道は堕落の道であり、屈従の道であり、地獄に向かっての急行列車に乗るも同様である。


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