真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

張鼓峰事件 NO1

2019年03月17日 | 国際・政治

 張鼓峰(チョウコホウ)事件は、1938年の7月下旬から8月上旬にかけて、満州国東南端の琿春(コンシュン)市にある張鼓峰で発生した日ソの国境をめぐる武力衝突です。機密資料によると、日本側の戦没者526名、負傷者913名で、戦闘に参加したと公式に認められる全兵力の21パーセントに相当するといいます。それが、ソ連側の機械化兵力の優位性や日本の陣地の脆弱性を悟られまいとする意図から、公式発表では戦死158名、負傷者740名にされたといわれています。

 張鼓峰は境界線がはっきりしない土地で、満州、極東ロシア、朝鮮が接する地点にあるということすが、もともと近隣の人々は役人も含め、境界線や主権の問題についてあまり気にかけない大らかな生活をしていたといいます。この境界線のはっきりしないところで、ソ連極東地方におけるNKDV(内務人民委員部隊)全部隊の司令官・G・S・リュシコフが保護を求めて日本に亡命してきて以来、徐々に日ソ両国が周辺に部隊を集結させるようになり、少しずつ緊張が高まって、武力衝突に至ったということです。
 その経過や事件の内容は「張鼓峰事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス著:岩崎博一・岩崎俊夫訳(原書房)に詳しく書かれています。著者は序文で

私は本書の執筆のために、日本軍の将校や外交官であった素晴らしい人々にインタビューした日々を思い出す。それらの人々の多くは他界されたが、彼らの面影は私の脳裏にまだ鮮やかである。またその他にも多くの日本の人々が私を援助し、励ましてくれた。そうした人々の名前をすべてここに上げることはとうていできないが、その一部を代表としてここに挙げ、すべての方々への感謝の気持ちをあらわしたい。
 浅田三郎、綾部橘樹、…”

と60名もの証言者の名前を挙げています。そして、その証言をもとに、事件の全貌を明らかにしています。一つのことがらでも、多くの関係者の証言を得る努力がなされています。したがって、証言の一部に、証言者の記憶違いや自身に都合の良い証言が含まれているとしても、張鼓峰事件における日本軍中央と関東軍や朝鮮軍との関係、また、その考え方や行動、天皇の関わりなど、全体としては、まちがいなく同書に記述されたようなものであったと思います。
 諸条件が重なって、張鼓峰事件は、局地的な武力衝突で終りましたが、「勅裁」をめぐる問題その他、考えさせられる問題がたくさんあります。

 当時、事件の処理に関係のあった内閣閣僚は、近衛文麿首相と外相宇垣一成大将および陸相板垣征四郎中将です。また、陸軍次官・東条英機中将や海軍の山本五十六中将、閑院宮載仁参謀総長なども深く関わったようです。参謀本部でこれを担当する人物は稲田正純大佐で、稲田大佐が事件についてのプロジェクト責任者であったといいます。
 
 その稲田大佐は、下記に抜粋したように、武力衝突に至る前の1938年7月中旬には、”日本軍は戦略的な意味合いから威力偵察を行うべきである”と考えたことを証言しています。
 
 また、「第七章 勅裁えられず」には、”だから陛下は陸軍大臣が自分をだまそうとしていると考えておられるように私には、思えた”という松平恒雄宮内大臣の言葉が取り上げられています。
 天皇が、板垣陸相を叱責された様子も書かれていますが、天皇が軍の動きやその考え方をしっかり把握し、総合的に判断して、陸相や参謀総長の求める勅裁を拒否したという重要な事実を確認することができます。

 下記は、「張鼓峰事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス著:岩崎博一・岩崎俊夫訳(原書房)から、第四章と第七章の一部を抜粋しました(漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したりしています)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第四章 威力偵察

 ・・・
 1938年7月中旬には、稲田の考えはまとまりつつあった。それは、日本軍は戦略的な意味合いから威力偵察を行うべきであるというものだった。
 それは戦術的な教科書水準で言えば、地域的な戦闘情報を得るために小部隊を敵地に送りこむことであるが、大本営のレベルでは、その意味するところははるかに広範なものとなる。すなわち(稲田の意図では)、ソ連が、1937年7月以来激動してきた「支那事変」で、日本と戦う中国側に立ってどの程度本気で干渉する意図があるかを試し、「それとなく探り出し」、素早く証明することである。ほかにも動員や兵力増強のやり方などの有益な手掛かりが手に入る。張鼓峰での小競り合いはソ連軍が始めたものだが、それによって日本側が探りを入れ易くなるという願ってもない出来事である。
 ・・・
ーーーーーー
                        第七章 勅裁得られず

 ・・・
 …予想できることだが、原田男爵の説明の方がはるかに劇的である。松平恒雄宮内大臣が原田に語ったところによると、板垣は、天皇が予想した通り武力行使の問題を持ち出した。そこで天皇は他の関係各閣僚との調整について下問した。板垣は外相並びに海相の二人と意見が一致したと答えた。天皇はこの時にはもう、二人の大臣が承諾したのは軍の展開であって武力の行使ではないことを承知していた。
 
 だから陛下は陸軍大臣が自分をだまそうとしていると考えておられるように私〔松平〕には、思えた。陛下はやや激しい表現で陸軍大臣を叱責された。「陸軍のやり方は当初より誠にけしからぬ。満州事変……の場合も……また現在の〔支那〕事変の初期の段階でも、陸軍はしばしば中央当局の命令にしたがわずに、卑劣にまた局地的な判断のみに基づいて行動している。こうしたことは朕の陸軍に相応しからぬ行動である。こうした一連の問題は誠に不快である。……この度はこうしたこれまでの事変と同じようであってはならぬ」。そして陛下は声を張って付け加えられた。「朕の命令なしに一兵たりとも動かすことがあってはならぬ」。

 七月二十日午後六時十分、謁見室から出てきた板垣は恐懼し、何時になく気落ちして「私は二度と陛下のお顔を拝することはできない」と宇佐美侍従武官長に語った。原田によれば板垣は「私は辞任したい」と述べたという。陸軍の長老である閑院宮も、これ以上天皇輔弼(ホヒツ)の任に耐えずとして「面目を失ったので辞めたい」と語ったといわれている。
 
 天皇は張鼓峰事件を外交交渉で解決するという考え方を事のほかに喜んでいたので、宇垣外相の説明と動員に関する板垣陸相の奏請の間に見られた食い違いにひどく困惑したに違いない。宇垣外相は同日それに先立って次のように上奏していた。

 一部の部隊は集結中でありまして、防衛を目的に待機させることにしています。しかしもし国境を越えて攻撃に転ずる必要がある場合には問題を前もって閣議に懸けることに決定しています。もしかかる事態に立ち至った場合陛下のご賛同を賜りたく存じます。

閑院宮参謀総長と板垣陸相が拝謁中に苦しい立場に立たされた件について、宇垣外相はこう理解している。参謀総長がソ連国境への軍の派遣を奏請したとき、

 陛下はその書面を一瞥してそのまま机上に置かれた。……宮殿下は退出せざるを得なかった。そこで殿下は直ちに板垣を呼びどういうことになっているのか尋ねたので、板垣は私のところにやって来て子細を問い質した。「参謀総長は軍命令にかかわる奏請を行ったが、陛下は『これは外相が話したことと違っている』と言われ、勅裁が下りなかった。いったい貴方は昨夜(ママ)陛下に何を申し上げたのか」。私は答えた「昨夜の協議の結果をその通りに奏上しただけだ──それ以外は何も」。板垣は「そうですか」と言って出て行った。

 しかし宇垣は七月二十日における陸軍の態度にもっと深刻で危険な問題があることに、はっきりと気付いていた。

明らかに参謀総長の奏請文に何らかの変更を加えてから裁可を得ようという試みが行われていた。原文について後になって私が知ったところでは、この奏請は羅南(第十九)師団の動員と、満州に駐屯する二ないし三個師団を近いうちに東部国境へ移動させる軍命令を内容としていた。これは板垣と私が議論したことと全く一致しているが、その文の最後にちょっと見落としそうな追記があった。「これらの軍のその後の使用に関しては参謀総長にその権限を付与されたし」。
これを知ったとき私は深い感慨に捕らわれた。もし奏請が提出されたままの形で勅裁を引き出したとすれば、我が国の命運を左右する極めて重要な問題と言うべきソ連との和戦の決定が、ちょっと付け加えたあと書きによって安々と参謀総長の手に委ねられてしまったであろうし、もっと具体的に言うと、いわゆる統帥の大権は参謀本部──すなわち軍部の手に委ねられてしまっただろうと、と。これほど重要な事項をはっきりと本文に折り込まずに、意図的に、誰の目にも触れないようなどこか隅の方に短い注記として書き込んで勅裁を得ようとしたなどということは常識から言って考えられないことだ。
もしこれを悪い意味にとって言うなら、それはある種の不正な策略であり、英明な陛下の目を欺こうとする企みであると断定せざるを得ない。私はこんな風には考えたくない。それどころか参謀たちは、部隊を動かす機会を失って[ソ連軍に]先手を取られるようなことが有ってはならないと考えていたに違いない。この見方をなんとか通そうとしてやり過ぎてしまったのだろう。……仮にこの解釈が正鵠を射ているとしても、国家を忘れ軍のことだけしか考えない、偏狭な将校たちが採った無分別な行動の結果がこれだと言わねばなるまい。彼らのやり方は明らかに間違っており、この件を裁可されなかったのはひとえに陛下の御英明によるものである。

 天皇は板垣陸相に対し、「このようなきわどい時期にソ連と軽々しく砲火を交えるな」という警告を与えるつもりで述べたのだと稲田大佐は確信している。動員の件が明らかに問題の中心をなしていた。
 第十九師団の現有兵力では全面戦争はとても行い得ない。そこで奏請された大本営命令に基づいて師団の動員を行わなければならなかった。── 内地からの増強は勅裁が必要だった。陸相は勅命案を奏請したとき、当然それが裁可されるものと思っていた。しかし「ソ連に対する動員」を耳にした天皇は、満州事変以来信任の芳しくない陸相が本気で戦いに挑むのを憂慮されたのに違いない、と稲田は推量している。
 挫折感を抱いた稲田大佐は、閑院宮参謀総長が天皇に対してどの程度説明したのか疑問を持ち始め、後になってから総長に会いに行った。宮殿下は彼に対して、七月十六日に、朝鮮軍の集中に関する裁可が下りたときに「最重要事項」である動員について奏上するのを忘れたことを認めた。
 七月二十日の出来事は日本陸軍の内部に深刻な反応を生み出した。板垣を「二枚舌」でだまし、「子ども扱いした」と見られた宇垣外相は猛烈な苦境に陥り、結局1938年9月に在任わずか六ヶ月で辞任した。
 また多くの将校たちは、「役立たずの」宮内省と手を結ぶ皇室の取り巻きと見なしていた「反軍主義者」「太鼓持ち」「奸佞の輩」に対する反感を募らせていった。
 それと表裏の立場になるが、西園寺公望公のように枢要な元老たちの多くが一層陸軍不信に傾いていった。湯浅内大臣も、原田男爵に言っている

 ソ連国境問題に関して、参謀総長は……最初陛下に対して「問題となっている地点はまさに天王山と言うべき決定的なところで、武力に訴えても奪取すべきと考えます」と強い態度をとっていた。だがその後で[閑院宮は]はっきりと「勅裁なしには戦闘は開始いたしません」と申し上げている。……なんとも私には心配だ。

 著者のインタビューを受けた人たちは、板垣に好意をもっていない者も含めて一様に、彼が故意に天皇をだまそうとしたと言う者はいない。しかし極東国際軍事裁判では宇垣と板垣の異議申し立てにもかかわらず、信頼しかねる原田日記に全面的に信を置いて、1948年に次のような判断を示した。

 1938年7月21日[ママ]板垣陸相は参謀総長と連れ立って[ママ]拝謁を許され、……日本の要求を貫徹するため[ハーサン]湖での武力行使の勅裁を天皇に要請した。陸軍大臣と陸軍が軍事行動に訴えることを望んだその熱意は、板垣の天皇に対する偽りの上奏で明らかである。この上奏では、ソ連に対する武力の行使は海相外相と討議され、両者は全面的に陸軍に同意したとされていた。

 板垣を絞首刑とした国際法廷の判決は、彼が陸相当時「ソ連に対する武力行使を目的として天皇の裁可を得るために卑劣な策を弄した」との表決が、その根拠の一部を為している。
 当然のことに、陸軍省と参謀本部の将校たちは、二十日に起きた宮中での予期せぬ事態の進展に動転した。朝鮮軍が今後採るべき行動についての判断は現実とは乖離してしまうし、「洞察を欠いた」責任を執らされるかも知れないという訳である。
 しかしそのうちに、それ程落ち込まなくても良いと宮中筋から知らされた。近衛首相が板垣に言った。

 陛下が貴官を信頼していないと考えるのは全く誤りである。また同じく陛下が陸軍に信を置いておられないと決めてしまうのも真実ではない。陛下はこうした事件がなぜ頻繁に起こるのかを不審に思われているだけである。恐らく陛下は[陸軍が]今後は一層慎重であれとの御趣旨のもとに、激しい調子でこの点を強調されたのだと思う。

 この結果、板垣陸相、閑院宮参謀総長及び次官、次長たちは公式の辞任伺いや自決を迫られずに済んだ。しかし、戦前の意思決定過程における天皇の役割に長い間取り組んできた政治学者たちは、1938年7月20日の重要且つ前例のない動きに、天皇の慎重な態度と、また属僚たちの誤った考えに基づきずさんに組み立てられた計画に天皇自らが反対することがままあったことをかいま見るのである。沢本侍従武官は7月20日の件について感想を記した。

 わずか30名かそこらのソ連兵が侵入してきたことで、この誠に要らざる問題が引き起こされた。これは参謀本部の手抜かりや職務上の過ちだけでなく、海軍大臣も反対したという趣旨の上奏があいにく陛下のお耳に入ったことにも因る。相次ぐ不注意が積み重なって、まるで大事件が起こっているような感を呈してしまうのだ。

 稲田が述べたように、「事態は予期しない出来事が起こるまでは順調に推移していたが、その後になって袋小路に入ってしまった。すべての構想は形式的な手続きにとらわれ、私の趣旨は途中で消えてしまった」。

 宇垣は「気が沈んで落ち着かぬ」まま7月21日の午後五時、板垣の自宅を訪れて協議した。二人は互いに何を語らったのだろうか。沢本は程なく陸軍がもはや攻撃計画を諦めたことを耳にした。「陛下のお気に召さない以上、結局は中止した方がよい。計画は当初、張鼓峰事件はとにかく大した問題ではないという仮定の下に立てられたものだったのだから」。
 7月19日から21日にかけて東京で起こった複雑怪奇な出来事から、なぜ朝鮮の軍当局に対して予想もされなかった「赤信号」が点滅したのかが判ってくる。あるいはひょっとして疑い深い人たちが言い張っていたように、それは単なる黄信号に過ぎなかったのだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI



 
 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 皇室神道による国民支配 NO2 | トップ | 張鼓峯事件 NO2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事