真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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恫喝やテロによる即今攘夷と『岩倉公実記』捏造の挿話

2019年03月25日 | 国際・政治

 これからの日本が”平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占める”ためには、真実に基づいた歴史を語り伝えることが大事ではないかと思います。

 ところが、残念なことに2015年5月、親日的と思われている海外の学者や研究者多数を含む187人が、歴史の真実を追求する日本の歴史学者を擁護し、安倍晋三首相のいわゆる「従軍慰安婦」問題歪曲を批判する共同声明を発表しました。
 安倍首相が、「戦後レジームからの脱却」を掲げ 戦前の植民地支配と侵略を反省した「村山談話」や、「従軍慰安婦」問題について謝罪した「河野談話」の見直しを示唆し、「従軍慰安婦」連行に「狭義の強制性」はなかったとの発言をしたためだと思います。また、「従軍慰安婦」問題に限らず、安倍政権が、日本の「歴史修正主義」を先導している姿勢がうかがわれることを懸念したものだと思います。

 私は、こうした歴史の修正や歪曲、捏造、不都合な事実の隠蔽が、倒幕によって権力を手にした薩長を中心とする人たちによる明治新政府発足以降、現在に至るまで続ていると思っているのですが、「幕末維新の政治と天皇」高橋秀直(吉川弘文館)にも、見逃すことの出来ない重要な指摘がありました。しっかり記憶に留めたいと思い、その部分を抜粋しました。

 同書によると、長州藩の長井雅楽は、文久元年(1861年)、「航海遠略説」を唱え、積極的に広く世界と交流して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していくことを主張していたようです。そして、文久二年三月には、朝廷工作のために京都に入り正親町三条を訪れ、「航海遠略説」の考え方を記した書面を提出するとともに、中山忠能や岩倉具視を歴訪し、その主張を説いたと言います。吉田松陰なども、当初同じように考えていたようです。でも、長州藩の藩論は、文久二年(1862)七月には、航海遠略説から攘夷論に転換してしまいます。それも「十年以内の攘夷論」ではなく「即今攘夷論」への転換です。
 同書の著者は、その理由を
 
こうした急進化はなぜ生じたのだろうか。何より重視すべきは、当時の京都の政治的雰囲気、尊攘論の高揚だろう。時代が一つの方向に大きく動くときは、その方向の最急進論を唱える者が主導権を握ることができる。長州京都藩邸の藩官僚たちは尊攘論の流れの先端に自らを置くことで政局の主導権を握ろうとしたものと思われる。”

 と書いています。「即今攘夷論」を唱える尊王攘夷急進派の意図は、変化の時代にその主導権を握ろうとしたということだと思います。また、なぜ唐突に浮上し

てきた「即今攘夷論」が力を持ちえたのかということについて、見逃すことの出来ない記述があります。それは、一般民心の攘夷意識の高揚を利用するだけではなく、「即今攘夷論」に同調しない者に対する「恫喝」や「政治テロ」に関する記述です。

さらにもう一つ、私が見逃すことの出来なかった記述は、天皇の権威を高めるために、『岩倉公実記』に「捏造された挿話」が入れられたという、極めて説得力のある記述です。様々な資料を駆使して論証されており、覆すことはできないだろうと思います。

 ”『岩倉公実記』の創った神話は解体されなければならない”と著者は結論づけていますが、言い換えれば、それは日本の歴史は書き換えられなければならないということだと思います。
 だから、日本においては、歴史の修正や歪曲、捏造、不都合な事実の隠蔽 、同調しない者に対する恫喝やテロは、明治維新以来先の大戦における敗戦まで、そして、その基本姿勢は現在の安倍政権に至るまで続いていると、私は思うのです。
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                       総説 天皇と「公議」をめぐる政治過程

                       一 朝廷の政治的浮上──安政五年──

 1 条約勅許奏請という事件
 2 条約勅許問題の紛糾
 ・・・
 もっとも、(外国との条約の)勅許奏請が武家側の一致した意見であるならば、実際に戦うわけではない公家に拒否は困難で、また勅許を与えたとしても批判は武家側に行き朝廷に向くことはないだろう。しかし、この時、武家の意見が割れており、御三家など徳川一門大名が条約に反対しているという情報は朝廷に入っていた。そして大名内の異論の存在は幕府も認めるところであった。堀田上京を伝える所司代の上申は、叡慮をあおぐ理由を、列侯諸藩の「人心居合(オリアワズ)」であると述べていた。公武間ではなく、武家の間の「居合」、つまり、武家内の不一致を抑えるため勅許がほしいというのである。こうした奏請に直ちに応じ勅許を与えれば、それは天皇が対立する両意見のうちの一方に、しかも自分が内心反対する見解の側に、明白に加担することを意味する。さらにそれは外国の要求をのむ便利な道具として朝廷が使われてしまうことでもあり、天皇にとり承知できるものではなかったのである。(「夷人申立之儀 何れに可許と之頼に〔朝廷が〕相成候ては天下之大事、於愚身は承知難致」、1月26日付関白九条尚忠宛孝明天皇書簡、同書、730頁)

 御三家以下に諮問を行い、武家の間で意見の調整をはかれと言う二月の返答は、武家内部で意見が大きく割れていることを考慮すれば、狂気の沙汰ではなく、朝廷にとり筋の通った対応なのであった。武家内部の反対意見を鎮めるために、実質的に関与していない朝廷に条約調印の責任の一部を負わせようという幕閣の目論見にそもそも無理があったのである。さらに三月二十日、朝廷は二度目の勅答(同書808頁)を下したが、これも諸大名に再諮問の上、あらためて衆議し言上するよう命じたものであった。
 以上の返答は二つの天皇像を示していた。一つは攘夷論者としての天皇である。天皇の攘夷主義は二月の勅許では明言されていなかったが、三月のそれには、今度の条約では国威が立ち難く思う、との文が含まれており、条約反対の意向が明確に述べられていた。
 しかし注意すべきことに、この意思表示は最終的なものではなかった。最終決定は諸大名への再諮問をへた上でなす、と三月返答は述べていた。勅許の趣旨は、諸大名の意向を聞きたいということであって、拒絶を命じたわけではないのである(第二章)。こうした公議を開き決定するという対応は、公正な裁定者という像、天皇の第二の像を示すものと言えよう。
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                        第三章 攘夷論時代の開幕

                         ニ 長州藩論の転換

3 即今攘夷論の登場
 このようにして文久二年(1862)七月、長州藩の藩論は航海遠略説から攘夷論に転換した。そして注意すべきは、六日の御前会議に明らかなように其の転換が単なる攘夷論ではなく、ただちに条約を廃棄するという即今攘夷論へのそれであったことである。この時期、朝廷は攘夷論を説いているが、それは即今攘夷論ではない。三事策諮問のさいの御沙汰書は一般的な攘夷論であり、親政勅語が述べるのは、幕府の十年以内攘夷の約束とそれが果たされないときの親政である。そして十年以内の攘夷論は、逆に見れば十年間の攘夷の猶予を意味するものであったことはすでに述べたとおりである。それにもかかわらず、長州側は即今攘夷を問題とし、その実現を目指す方針を決定している。長州は攘夷論に転換しただけでなく、それを急進化させたのである。
 こうした急進化はなぜ生じたのだろうか。何より重視すべきは、当時の京都の政治的雰囲気、尊攘論の高揚だろう。時代が一つの方向に大きく動くときは、その方向の最急進論を唱える者が主導権を握ることができる。長州京都藩邸の藩官僚たちは尊攘論の流れの先端に自らを置くことで政局の主導権を握ろうとしたものと思われる。                
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                       四 即今攘夷論の勝利
2 勅使三条実美の派遣決定と薩摩
文久二年(1862)閏八月二十七日に即今攘夷論承認の勅旨を得た尊攘派は、さらにだめ押しをしようとする。それは、即今攘夷を命じる勅使を再度幕府に派遣しようという構想であった。
 ・・・
 別勅使の派遣は閏八月十四日の猶予沙汰書に矛盾するものであり、また近衛関白・中川宮・議奏の中山が望まないものであった。それにもかかわらずこれが決定されたのはなぜだろうか。
 その中心要因は、尊攘派の圧力であった。先に後半部を引用した別勅使への勅命の前半部は、冒頭部で、一越登用後の幕府の改革について、天皇は満足しているとそれへの高い評価を述べていた。それにもかかわらずなぜさらに勅使を派遣しなければならないのか。それについて勅使の説明は、攘夷方針が一定しなければ、「人心一致」にいたり難く「国乱之程」も如何と天皇が思う故ここに沙汰を下す、というものであった。この「人心一致」の困難、「国乱」という言葉で思い浮かべられているのは、第一に尊攘派の暴発への懸念であったことはこの時期に中山が書いた京都の政情を伝える書簡案(『中山忠能(タダヤス)履歴資料』四、75頁)より推定できる。中山は以下のように嘆く。

 三藩(薩長土)色々周旋……中には過激之説も多端にて、取鎮兼候義も有之苦心候。……〔天誅の横行を列挙〕何とも六ケ敷次第に候。……蛮夷一件関東所置方未申来候に付、此頃又々別 勅使を以て可被 仰遣との御評定最中に候。何分人心折合兼、世上人気形勢は追々切迫に相見、甚以心痛之至に候。ケ様之次第にては何時何成変を生候も難計、実に不容易勢に相成申候

 この背後にあるのは「天誅」と称した尊攘派のテロの横行であった。中山は右の書簡案で、閏八月二十二日の九条家家臣宇郷重国晒し首、九月一日の目明かし文吉の絞殺、二十三日の近江で襲撃された町奉行所の与力三人の梟首に言及している。他にも公家の一員である岩倉などにも九月十二日には脅迫の投げ文が送られていた。有志は伝奏を幕府の官吏のように考えている、もし別勅使を派遣しないなら朝廷当局者は久世・安藤らと同じ売国の逆賊であり、堂上地下の区別なく推参し天下に代わって害を除く、という脅迫文が尊攘派有志より中山に送られていた。こうした恫喝は当然、他の当局者にも行われていただろう。尊攘派が恫喝を背景とした説得を行ったとき、その威力は絶大なものであったろう。
 そして注意すべきことはこの時期、朝廷内外の尊攘派に同調して朝廷内にも尊攘派公家が形成されていたことである。尊攘派公家が、文久二年の五月から八月にかけて孝明天皇の側近を排斥する四奸ニ嬪排斥運動を契機として形成されたことは、すでに原口氏により明らかにされている。そして彼らは、当局者外の存在であったわけではなく、八月下旬の段階で広幡忠礼・正親町実徳・庭田重胤・三条実美のように議奏加勢となっているものもいた。尊攘派は公家内、さらに当局者内にその代弁者を得たのである。そして尊攘派公家は、猶予沙汰書への三条の批判に見ることが出来るように、有志の暴発をその政治的主張の根拠に使っていた。
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3 時代の雰囲気
 尊攘論勝利の第三の要因として、この文久二年(1862)の時代の雰囲気がある。文久二年の時代の雰囲気とはどのようなものであったのか。まず「人心」の動向について見るなら、三年前に行われた開港以後の急速なインフレをはじめとする経済の混乱により、武士や民衆などの生活条件が悪化し、攘夷主義的意識が高まったことはすでによく知られている。一般の民心は攘夷にあり、開国論はそれに逆らうものだったのである。そして、ペリー来航以後、為政者は、世論や人心の動向について次第に強く意識せざるをえないようになっており、そのことはこれまでの検討のなかでたびたびふれたところである。そしてこの人心を背後に持つことが、本来は有志集団であり幕府など既存勢力に対して圧倒的に不利であるはずの尊攘派の大きな力となったことは言うまでもないだろう。
 そして文久二年という時代の雰囲気を見るとき、一般的な民心の動向という以外に、この時期に特有な問題が存在している。それは尊攘派の政治テロの問題である。六月五日東下中の大原勅使は慶喜・春嶽登用論を幕府にこのように主張すると久光に言い送っている。(『鹿児島県史料 忠義公史料』1858頁)

 左なくては〔=幕府が一越登用を請けなくては〕、即今 勅意立不申候、勅意立ち不申ては矢張り請負人諸人不服に候。請人不服なれば又々浪士蜂起いたし、暴発いたし候本と存候

 すぐ直接行動に出ようとする、制御しがたい尊攘派の像である。六月初めの関東でこの像の背後にあるのは、桜田門外の変・坂下門外の変の記憶だろう。大原はこのような主張が幕府に対して説得力を持つと考えていたのである。
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                       第二部 新政体の模索と倒幕  

                       第十章 王政復古クーデター
               
                          三 小御所会議 

1 岩倉具視の一喝をめぐって
 
 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)接見が終わり明治天皇の御前を退出後、しばらくして第二回の小御所会議が行われる。これが普通言われる小御所会議である。
 この会議の議題は辞官納地と会桑の罷免である。この辞官納地問題について激烈な議論が展開したことはよく知られている。この激論に関し『岩倉公実記』が記すきわめて有名な挿話がある。それは、山内容堂と岩倉の論戦、岩倉の容堂への叱責である。まずこれについて検討する。
 会議の最初、容堂は、慶喜をただちに会議に招致するよう主張するとともにクーデターを非難し、「ニ三の公卿は何等の意見を懐き此の如き陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲(ヨウチュウ)の天子を擁して権柄(ケンペイ)を竊取(セッシュ)せんと欲するの意あるに非さるか」、とまで言った。これを岩倉が叱責し、「此れ御前に於ける会議なり、卿当さに粛慎すへし、聖上は不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給ふ、今日の挙は悉く宸断に出つ、幼冲の天子を擁し権柄を竊取せんとの言を作す、何そ其れ亡札の甚だしきや」と述べ、これに容堂が恐悚(キョウショウ)し失言の罪を謝した、というのである。(中巻 158~159頁)
 これは一種の名場面であり、小説やドラマによく登場するものである。そしてそれのみではなく、正当性原理を考える場合、重要な位置をしめるものとなる。例えば、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店 1992年)は、この岩倉の一喝により、「歴史は新しい門出をしたのである」と評価する(166頁)。なぜ新しい門出なのか。クーデターの実態は容堂の主張する通りであり、その発言は正当である。しかし、そうした正当な批判は岩倉の叱責により圧倒されてしまう。このことは、誰も表向きには反対できない超越的権威としての天皇という存在が前面に押し出され、権威にみちた中心が作り出されようとしていることを意味するからである。『岩倉公実記』が事実を伝えているなら、そうした位置づけは確かに可能であろう。しかしこれは事実だろうか。

 第二回小御所会議の内容については「丁卯日記(テイボウニッキ)」が最も詳細な一次史料である。『岩倉公実記』の小御所会議の叙述は、議事が紛糾しいったん中断するまでは、「丁卯日記」とほぼ照応しており、おもにこれによっていると思われる。しかし、それにもかかわらず、「丁卯日記」と『岩倉公実記』との間に相違が存在している。
 その最大のものがこの挿話の有無である。「丁卯日記」には容堂の痛烈な発言の記録はあるが、それに対する岩倉の叱責は記されていないのである。すなわち、『岩倉公実記』が、容堂の批判→岩倉の叱責→容堂の恐縮→春嶽の批判→岩倉の再反論→大久保の反論、と続くのに対し、「丁卯日記」では、容堂の批判→春嶽の批判→大久保の反論→岩倉の反論、となっている。そして、容堂の痛烈な「不敬」発言に対して、「丁卯日記」は、叱責のみでなく、それへの反論さえ記していない。「丁卯日記」が伝える、クーデター派の反論の骨格は、慶喜にはこれまでの罪があるし、また大政奉還を現実のものとする彼の「反正」の真偽はいまだ明らかではない。それを見るためにはすぐに彼を招致すべきではなく、辞官納地を受け入れるか否かでそれを確認することが必要だ、というものであったのである。

 では「丁卯日記」、『岩倉公実記』の何れを信じるべきだろうか。
 まず史料面で検討する。『岩倉公実記』の典拠は不明であるが、会議に参加した当事者が、第二回小御所会議について記した同時代史料には以下のものがある。「丁卯日記」・「大久保利通日記」・前掲12月12日付蓑田宛大久保書簡12月21日付藩庁宛大久保書簡(『大久保利通文書』二、133~134頁)・12月13日付松平茂昭宛春嶽書簡(『松平春嶽未公刊書簡集』、77頁)、先に引いた「嵯峨実愛手記」・公家討幕派に賛同する有志公家の一人橋本実麗の「実麗卿記」(写本、東京大学史料編纂所蔵)である。これらの史料はいずれも、容堂発言を不敬とする岩倉の一喝を記していないのである。

 容堂がここで慶喜の即時開催を求めて激しい議論をしたことは、「丁卯日記」・「大久保利通日記」・藩庁宛大久保書簡・松平茂昭宛春嶽書簡・「実麗卿記」がこれを記していることに明らかなように、きわめて衝撃的なものであった。しかし、その容堂を「何そ其れ亡札の甚だしきや」と正面から叱責する岩倉の発言も同じように、あるいはそれ以上に印象的なものであったはずである。(賢君として評判が高く、議定に任命されたばかりの、大藩の国主を下級公卿が公然の場で一喝を加えるなどということは前代未聞だろう)。そうしたことがあったなら、このうち何れかはこれを記して当然であろう。しかし、それにもかかわらず、これが記されていない。
 
 次に議事の流れを見る。「不敬」と咎められそれに恐縮したのであれば、さすがの容堂でも意気は挫け抗論もおさまっていくはずであろう。また、「今日の挙は悉く宸断に出つ」という岩倉の叱責を認めたのなら、慶喜の即時招致など宸断に反する主張は出来ないはずだろう。しかし、容堂は、岩倉の反論にもかかわらず慶喜招致論を屈することなくあくまで言い募ったことは、「丁卯日記」・「大久保利通日記」・「実麗卿記」が記すところであり、これを持て余したクーデター派は結局、会議の中断を余儀なくされたのである。
 そしてこうした議事の進行は、実は『岩倉公実記』が示すものであった。『実記』においても、一喝のくだりは小御所会議記述の流れの中で浮いているのである。
 以上、一次史料、議事の流れの両面より考えるならば、『岩倉公実記』ではなく、「丁卯日記」が妥当であり、一喝の挿話は実際には存在しなかったと見るべきであろう。

 では岩倉の叱責の挿話はいかにして登場したのだろうか。
 明治政府の最初の修史事業である『復古記』は第二回小御所会議の史料(「春嶽私記」等)を収録しているが、そこにはもちろんこの挿話はない。その後、竹越与三郎『新日本史』(1891年)や勝田孫弥『西郷隆盛伝』(1894年)・指原安三『明治政史』(1892年)などの史書が小御所会議の論戦を描くが、いずれも岩倉の一喝はない。そして注意すべきことに、『岩倉公実記』とほぼ平行して、明治政府(宮内省系)が進めていた修史事業であり、その少し前に完成した『三条実美公年譜』(1901年)の記述も、「丁卯日記」と同様であり、一喝の挿話を含んでいないのである。この挿話は『岩倉公実記』においてにわかに登場したものと言えよう。

 『岩倉公実記』でなぜこの挿話が登場したのか。その編纂過程の分析は別になされなければならないが、それが天皇の権威を高めるのに適合するものであったことは、指摘しておかなければならない。「如此暴挙企られし三四卿、何等之定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取るせられたるや」「丁卯日記」260頁)、との容堂の批判は、岩倉のみでなく、天皇権威を余り認めない発言である。しかし、この発言はすでに『復古記』で公のものとなっていたし、容堂が岩倉らへ痛烈な非難を行ったことはすでに見たように多くの史書が記し、もはや隠蔽することはできない。この傷口をいかにふさぐべきか。
 岩倉の叱責、容堂の謝罪、という『岩倉公実記』の記述を加えることで、この論戦の意味は逆転する。すなわち容堂の発言・謝罪は、批判しえない権威としての天皇像を定着させるものとなる。ここに災い転じて福と為ったのである。そしてこの像の拘束が現在までも及んでいることはすでに述べたとおりである。
 しかし、小御所会議が行われた折りの、天皇権威をめぐる現実の状況は、天皇を操り人形視する発言、後年よりすれば「不敬」とさえ見える大胆な発言をなしうるものだったのである。『岩倉公実記』の創った神話は解体されねばならないだろう。

 2 小御所会議の意味

 辞官納地問題はこうして紛糾した。容堂・春嶽の激しい論難に薩摩・岩倉側はいったん休会を余儀なくされる。しかし、再開した会議では容堂・春嶽は譲歩し、辞官納地の上表を出すように尾張・越前が慶喜に内諭周旋するという事前に予定されていた通りの決定がなされることになった。
 なぜ容堂・春嶽は折れたのか。先に言及した『岩倉公実記』にいたる史書は、あくまで反対すれば殺害する決意であるとの恫喝を休憩中に岩倉が語り、それが後藤より容堂に伝えられた結果、譲歩となったとしている。前掲12月13日付松平茂昭宛書簡で春嶽が、「越・土両老侯極死にて及激論、薩土指我ならばさせ、死しても我魂は守護天幕する事と決心いたし候」と述べているところより、刺殺の恐れを春嶽に感じていたわけであり、この記述は信じることができよう。テロへの不安が譲歩をもたらしたのである。

 会議のもう一つの議題は守護職・所司代の廃止、会津・桑名の罷免であった。これを命じれば会桑が憤怒していかなる暴挙をなすかわからないという不安よりこの問題でも廟議は難航した。(「丁卯日記」261頁)本章─二─4で述べたように、薩摩にとり会桑罷免は絶対条件であり、今さら躊躇することはありえない。こうした不安を述べたのは、土尾越芸であったろう。新政府発足の日にしてすでに薩摩らクーデター派は廟議で十分な主導権を取れていないのである。
 しかし、この会桑罷免の難題は、慶喜が自主的に買い会桑を罷免したことで解決した。クーデターの順調な進行は、慶喜の「協力」なしにはありえなかったのである。あくまで自重し衝突を避けるというのがこのときの慶喜の方針なのであった(第九章─二)
 ・・・
 辞官納地・会桑罷免は第二回小御所会議前に合意が出来ていたはずである。しかし、実際にはこれで大きな議論となった。その原因は容堂にあった。容堂は8日に上京するまでクーデター計画を知らされておらず、彼にはそうした合意はまかったのである。そのため会議の冒頭、容堂は、慶喜の即時招致という原点に遡った議論を展開する。そしてその勢いに、すでに妥協していたはずの春嶽や後藤もこれに同調し、合意はふりだしにもどってしまったのである。
 こうして廟議は紛糾する。このような場合の切り札として思い浮かぶのは天皇による「聖断」である。そしてこのとき岩倉らは明治天皇の身柄の確保には成功していた。しかし、それにもかかわらずこの札は切られていない。当時における十五歳の天皇の政治的位置を示すものと言えよう。結局、会議を決着に持ち込んだものは、刺殺するという暴力の恫喝であった。
 薩摩・岩倉はこうした非常手段によりなんとか会議を決着に持ち込んだ。しかし、その決着は、もともと容堂以外にとっては合意済みのものにすぎなかった。そしてその合意(内諭周旋方式)は、まさに両者の妥協により成立したものであって、一節でみたように薩摩側にとっては本来、不本意なものであった。そして、実際、翌日以降、薩摩の危惧は現実のものとなり、辞官納地について次々に譲歩に追い込まれていくことになる。小御所会議は薩摩・岩倉側が主導権をにぎり十分な勝利をしめたものではなく、テロの恫喝により最初の妥協点をからくも確認したものだったのである。
 しかし、この暴力も実際には使用が困難なもの、極力、使いたくない武器にこの時なっていたと思われる。なぜなら、新政府発足後、その最初の廟議の場で、春嶽・容堂を刺殺したということになれば、天皇は握っていたにしろ、新政府の正当性、権威は決定的に傷つくことになるからである。暗殺を行えば、内戦は必至であったろう。もっとも薩摩倒幕派は大政奉還以前には内戦を決意していたわけであり、戦争を恐れてはいなかった。しかし、内戦は一面、諸藩の支持の獲得合戦であり、その初発でこうした文字通りの暴挙を犯してしまっては、土越のみならず同志と期待している西国諸藩(例えば、宇和島、因幡、備前)の向背も不明となるだろう。… 
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