真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ペリー来航と幕府の対応 倒幕の目的

2018年05月29日 | 国際・政治

 江戸時代、オランダは長くヨーロッパ唯一の貿易国でしたが、幕府はオランダ船が入港するたびに様々な海外情報を得ていたといいます。それは、「オランダ風説書」や「別段風説書」として残されているようですが、「オランダ風説書と近世日本」松方冬子(東京大学出版会)によると、幕府は鎖国中にもかなり詳細な海外情報を得て、それなりの対応をしていたようです。例えば、1842(天保13)年、幕府が「異国船打払令」を撤回して「薪水給与令」を発令したのは、阿片戦争後イギリスが日本に艦隊を派遣して開港を迫る可能性が報告されたからであるといいます。

 また、オランダの国王ウィレム二世は、1844(天保15)年、日本に長文の親書を送り、薪水給与令では充分でないとして、開国を勧告したといいます。その親書で国王は、イギリスが産業革命後、自国工業生産品の販路拡大のため、他国との衝突も辞さない動きをしていることを伝え、
幸福な日本が戦争により荒廃せぬため、外国人に対する法律を緩和されよ。我々は(将軍に)この提案を純粋な目的で、政治的利己主義とは全く離れて行う。日本政府の賢明さが、友好関係によってのみ平和が守られ、これ(友好関係)は貿易によってのみ生まれることを洞察されることを希望する。

と述べ、
”将軍が日本にとって極めて重要な問題に関し、さらに良く知ることを要求するならば、われわれは(国王)陛下直筆の書簡にしたがい、ある人物を日本に派遣する準備がある。その人物は(中略)その詳細のすべてを将軍に明らかにできる。”
と提案したといいます。
 また、ペリー艦隊の来航も事前に予告されていたといいます。

 そうした情報をもとに、外国との新たな関係を模索し、条約締結の政策を進めていた幕府に対し、長州を中心とする勢力が、尊王攘夷を掲げて倒幕のために様々な手段を行使したため、多くの犠牲者を出しました。でも、幕府が攘夷の思想に凝り固まっていたので倒されたということであれば、理解はたやすいのですが、話は逆で、幕府は、尊皇攘夷をかかげた長州を中心とする勢力によって倒されたのです。にもかかわらず、倒幕後、長州を中心とする勢力によってつくられた明治新政府は、攘夷を貫くことなく開国に転じ、脱亜入欧と呼ばれるような政策を展開しました。だから、いわゆる「明治維新」と呼ばれるものが、いったい何であったのか、権力奪取が目的の倒幕ではなかったのか、と考えてしまうのです。そして、権力を奪取した討幕派が、昭和の敗戦に至る日本の骨格をつくったのではないか、と思うのです。

 日本の初代内閣総理大臣伊藤博文は、松下村塾に学んだ長州藩士だった人ですが、1871(明治4)年に、岩倉使節団の副使として渡米し、サンフランシスコで、「日の丸演説」といわれる演説をしています。その中で、
わが国の大名たちは自主的に版籍奉還を行い、その任意的行為は新政府に容れられるところとなり、数百年来強固に継続してきた封建制度は一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで、一年以内に廃棄させられました。
 このような驚くべき結果は政府と国民との協調により成就させられましたが、今やそれぞれ一致して進歩に向った平和的道程を進みつつあります。中世において戦争を経ずして封建制度を打破しえた国がどこかにあったでしょうか。
というようなことを言ったといいます。
 でも、伊藤博文は、幕末に塙保己一の息子で国学者の塙忠宝(次郎)を暗殺し、御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちするなど徹底した倒幕・攘夷の活動を遂行した人物です。そうした自らの過去や、明治新政府樹立にいたるまでの尊王攘夷の運動による多くの犠牲についてはどのように考えていたのか、と疑問に思います。

 「ペリー提督日本遠征記」を読むと、幕府が開港に向けてかなり準備をしていただろうことが想像されます。そうでなければ、下記の文章に見られるような対応はできなかったのではないでしょうか。浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門はペリー提督一行に高く評価されています。
 だから、「ペリー提督日本遠征記」を読んで、またしても幕末の倒幕運動はいったい何であったのかと思うと同時に、明治新政府が脱亜入欧を基本政策とし、大陸膨張政策をとったことが、後の日本を決定づけたのではないか、とあらためて思いました。

 なお、著者は「歴史家の仕事 まえがきに代えて」で、”米国の政治家や外交官は記録を残す際に、専門の歴史家・伝記作家を雇い、できるだけ詳しく、(一見する限り)正確を期した記述を展開させるようだ。”と書いていますが、確かに、同書の記述は一人の人間ではとても不可能と思われるくらい、詳細で多岐に渡る内容を含んでいます。
 下記は、 「ペリー提督日本遠征記」井口孝監修・三方洋子訳(NTT出版)から 「第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上」の一部を抜粋しました。
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                   第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上

 ・・・
 エドから正式な返書が届くという日(7月12日)、午前9時半にウラガから三隻の船がやってきて、サスケハナ号に横付けした。いつもの幕府の舟とは違い、ヨーロッパの船を模して造られた船のようだった。漕ぎ手はおっかなびっくりの様子であったが、いつもの和船のように脇に立ったりしゃがんだりしているのではなく、櫓の横にすわっている。船の造りは見た目にもしっかりしていて、型も美しかった。マスト、帆、索具は日本の伝統的なものだった。乗組員の数は多く、一番大きい船では三十人、ほかの二隻は十三人が乗っていた。彼らは日焼けした体に、いつも青に白い縞のゆっくりした服を着ていた。
 先頭の船は広い帆に、幕府の印である黒い横縞のほかに、高位の役人が乗っていることを示す黒と白の旗を掲げていた。船が近づくと、絹の衣をまとったカヤマ・ヤザエモン(香山 栄左衛門)が甲板に敷かれたマットにすわり、通訳や従者に取り囲まれているのが見えた。
 二隻は少し距離を置いたところに止まり、先頭の一隻だけがサスケハナ号に近づいてきた。主任通訳ホリ・タツノスケ(堀達之助)、副通訳ハツヒコ・トクシマを伴って、カヤマはすぐに乗艦を許され、形式通りブキャナン艦長とアダムス中佐のところに案内された。
 奉行の到着前に提督は、皇帝にあてて次のような手紙を書いていた。

 アメリカ蒸気艦サスケハナ号にて
 ウラガ 1853年7月12日
  条約を協議する全権を賦与された、この海域における米国海軍の提督である私は、皇帝の最高位 の家臣と協議することを望んでいる。それは、米国大統領から皇帝にあてた国書および信任状の原 本を奉呈するためである。
その会見のために、できるだけ早い日時が設定されることを望む。

 日本国皇帝殿

 奉行はまず、国書の原本を受け取る前に翻訳が渡されるということについて誤解があったと述べた。
提督はそんな行き違いがなかったことはよくわかっていたが、さんざん協議したあと、午後二回目の協議で、次のことに同意した。翻訳と原本および提督から皇帝への手紙を同時に渡すこと、それについては皇帝がそれを受け取るにふさわしい役人を任命することを条件とした。さらに提督は、最高位の役人にしか渡さないこと、繰り返し強調した。そこで奉行は、提督と従者のためにいま海岸に施設を建築中であり、皇帝に任命された高位の役人がそこで受け取ることになる、しかし返事はエド湾で渡せない、ナガサキでオランダ語か中国語の通訳を通じて渡されるどろう、と言った。提督は次のようなメモを書いてオランダ語の通訳に渡し、よく奉行に説明してやるように伝えた。
「提督はナガサキには行かないし、オランダ語や中国語の通訳から受け取ることもしない。提督は、米国大統領から日本の皇帝または外務大臣にあてた国書を携えており、それ以外の者には原本を渡すことはしない。この国書が受け取られなかったり、返書がなされなかった場合には、米国が侮蔑されたものと考え、以後の事態に責任を負わない。数日中に返書が得られることを期待するが、それはこの近海以外では受け取らない」
 奉行はこれが伝えられると、彼は上の人と協議すべくすぐに艦をおりた。ウラガには、この成りゆきに指示を下す、何人かの幕府の役人がいるはずである。会見は三時間以上続き、奉行が下艦したのは午後一時前だった。会見は、友好的な雰囲気と通常の礼儀が保たれ、穏やかに行われた。海岸も静かで、砦にもなんの動きもなかった。ただ沿岸にはたくさんの幕府の舟があったが。
 去り際の約束どおり、奉行は午後になると、いつものように通訳と従者を連れて戻ってきた。だが、舟は午前のようなヨーロッパ型のではなく日本独特の型のでやってきた。ブキャナン、アダムス両中佐が一行を迎え、同じ形式と作法に則って協議を再開した。提督は相変わらず自室にいて、ほかの者を通して日本人と接触していた。以下に、その会話の逐語記録を掲げる。
 出席者 ブキャナン艦長
     アダムス中佐
     副官コンテ大尉
     ウラガ奉行ヤザエモンおよび通訳
ヤザエモン まず国書の写しと信任状を、それから原本を渡されるというのでは、上に上げるのに大      変時間がかかるので、高位の役人が来たときには、両方を一緒にお渡しいただきたい。      奉行と役人は総力をあげて提督にふさわしいお迎えをします。 
ブキャナン 提督の目的はそんなことではない。書面の中に、提督自身から皇帝にあてた手紙もある      ので、それを写しと一緒にエドへ送ってほしいのです。大統領の国書への返事は、いま      は大した問題ではない。提督の手紙への返事がほしいのです。
ヤザエモン 国書の原本を渡してくれれば、できるだけ早く返事をしましょう。我々はいま、大統領      から皇帝への国書を受け取るために来ているのに、あなたがたは提督の手紙のことを問      題にしている。
 ・・・以下会話略

 協議は終わった。
 カヤマ・ヤザエモンとその一行はたいへん上機嫌で、サスケハナ号の士官たちの申し出たもてなしを喜んで受け、とても洗練されたマナーで振る舞った。もてなしの場で彼らはくつろぎ、ご馳走、なかでも特にウイスキーとブランデーが気に入ったようだった。さらに奉行はリキュール、それも砂糖のはいったものを好んで、最後の一滴まで飲み干した。通訳は宴会の陽気さを楽しみ、上役の酒癖をからかい、ヤザエモンが飲み過ぎるので「もう顔が真っ赤になっている」とも注意していた。
 日本の役人たちは、育ちのよさを示すかのように、紳士的冷静さと節度のあるマナーを終始崩すことはなかったが、とても社交的で、自由に陽気に会話を楽しんだ。彼らのもつ知識や情報も、洗練されたマナーや人なつこい気質に劣らなかった。育ちがいいばかりでなく、教育程度も高かった。オランダ語、中国語、そして日本語に長け、世界地理や科学の一般知識にも通じていた。地球儀が運ばれ
てくると、彼らは合衆国の位置に目をつけ、ワシントンとニューヨークを即座に指さした。まるで、一方が首都で一方が商業の中心であることを知っているかのようだった。同じ正確さで、彼らは英国、フランス、デンマークなどヨーロッパの国も指さした。合衆国についての質問からも、彼らがわが国の物質文明の進歩について無知ではないことがわかった。合衆国では道路が山を貫いて走っているのか、と彼らが聞いたのは、たぶんトンネルか鉄道のことをさして言ったのだろう。船のエンジンを見たときに通訳が、これはサイズは小さいけれど、アメリカの道を旅行するのに使われるのと同じ機械か、と質問してきたことから、この推測が正しいことがわかった。また地峡を横切る運河はもうできたのか、と聞いてきたのは、当時建設中だったパナマ運河のことだろう。二つの大洋をつなぐ仕事が行われている、ということを彼らは知って、それを実際に見たことのある運河という名前で表現したのだろう。キャビンで飲みながら会話をしたあと、ヤザエモンと通訳は艦内見学に招かれて、礼儀正しく応じた。彼らが甲板に上がると、そこには、ふだん日本人にはほとんど接することのない士官や乗組員が好奇心かを抑えきれずに密集していた。しかし彼らはちっともあわてず平静で、礼儀正しさを一瞬たりとも失わなかった。艦内のいろいろな設備に知的興味を示し、大砲を見ると「ペーザン型(「訳註 弾体が爆裂する榴弾を発射するカーン砲。当時の最新型であった)」とその名を正しく言い、完璧な蒸気船のすばらしい技術とメカニズムを初めて見た人なら示すであろう驚きはみせなかった。機関部はたしかに彼らの大いなる興味の対象だったが、通訳は、まったくその原理を知らないという様子ではなかった。こういった冷静でしかも注意深い態度は、念入りに計算されたものであったかもしれない。しかし、日本人は実用科学の面で遅れていたにしても、教育程度の高い者たちは、ほかの文明国の進歩についてきちんと情報を得ていることは疑いの余地がない。
 船室を出るとき、役人は刀を置いていった。刀は、日本である程度の位についている者がいつも身につけているものだ。そこで、主に好奇心からこれら権威の象徴を調べてみると、それは実用よりは見た目本位のものだということがわかった。刃は鋼も焼きもすばらしく、よく手入れされているが、刀身と柄の形から言うと、実用には不向きだった。外装は純金、さやは鮫皮で、凝った細工のものだった。
 奉行の訪問は夕方まで長引き、退艦は午後七時になった。奉行と通訳は去るにあたって、いつものとおり礼儀正しく、階段一段ごとにお辞儀を繰り返し、威厳は失わないまま、人なつこい微笑みをふりまいていった。我々のもてなしと、見学したものすべてに感銘を受けたに違いない。我々との協議の場で見せるあのものものしい礼儀正しさも、その場だけに演出されたものではないようだ。こうしてくだけた場でも、彼らは同じように礼儀正しいのだから。それは、ヤザエモンと通訳が幕府の舟に戻ってすぐに、まるで初対面の人同士のように、待っていた役人たちと挨拶をかわしたことからもわかるだろう。こういった場面が演じられている間にも、提督の命を受けたボートは一日中忙しく測量を続けていた。
 翌日は13日水曜日。約束どおりなら、朝早く奉行がやってくるはずだった。しかし午前中に奉行がやってくる気配はなく、なにもかも静かな期待のなかにあった。だが近くの陸地の様子から察すると、幕府のほうにはなにか動きがあったらしい。対岸から兵士を乗せたたくさんの船がウラガ湾を横切り、また幕府の旗と印をつけた大きなジャンクが港にはいっていった。ウラガ港の商売はいつもどおりの活況を呈し、大小さまざまな日本の舟が行ったり来たりしていた。湾を取り巻く村や町はここで生活物資を交換し、大都会エドの心臓の鼓動に合わせて余剰物資をエドに送り込んでいるのだ。数えただけで一日六十七隻のジャンクが湾を通っていった。
 気温は30度に達していたが、海風で暑さがだいぶやわらいでいた。日本の海岸部に特有といわれるもやで、ときどき景色はぼやけた。しかし艦隊の経験からいうと、ここまでのところ上天気といってよく、湾にやってきてから、この日が一番もやの出た日であった。偉大なランドマーク、フジも頂上しか見えなかった。フジはいつもなら昼間より夕方、特に日没には深紅の光を浴びて輝いて見える。
 午後4時ごろついに奉行がやってきた。カヤマ・ヤザエモンがいつものように、第一・第二通訳を連れてきて、エドから高位の役人がたったいま着いたところなので、もっと早く来られなかったと、何千回もお詫びを言った。そのお詫びがやっと終わると、奉行は、提督と会見すべく任命された役人に対しての皇帝の命令書を出した。皇帝の文書は短いもので、大きな花押で証明されていた。その文書はびろうどで包まれた百檀の箱に入れられ、奉行は大切に扱ってほかの者には手を触れさせなかった。オランダ語の写しとその文書の正当性を示す証書、それと押された花押の正当性を示す文書は、奉行カヤマ・ヤザエモンの署名付きで渡された。以下にその翻訳を示す。

 日本国皇帝より伊豆守トダに与えられた信任状の翻訳
合衆国大統領より余にあてた国書を受け取るために、ウラガに派遣する。その国書とは、近ごろ提督がウラガに携えてきたものであり、受け取りしだい、エドにもどって、余に届けるように。
(将軍印)
1853年第六月

 ウラガ奉行カヤマ・ヤザエモンが皇帝の文書と印の正当性を保証する文書の翻訳
日本国皇帝みずから任命した役人、またエドからウラガへ国書原本および翻訳を受け取るべくやってきた役人は、間違うことなくたいへん高位の者で、提督と同等の位であります。
私が保証します。
カヤマ・ヤザエモン

 協議の間奉行は、皇帝に任命された役人は国書を受け取って皇帝に届けるという権限を与えられた者であり、交渉にはいる権限はいっさいもっていないということを繰り返し、強調した。また国書受領の場所を変更することを申し出たが、すでに適当な建物が建設されており、変更は適当でないということになった、とも伝えた。提督はこの答えも予想していた。なんらかの悪だくみが計画されているのかもしれないが、できる限りそれに備えようと決めていた。そこで受領のための施設が建てられている岬に調査班を派遣してあった。この仕事を任命された士官はすばやく任務を果たし、そこを射程は範囲とするところまで艦を進めることは可能であること、また多くの人間がその建設や家具の運搬、準備のために働いていると報告した。
 奉行は会合の場所まで舟で同行しようと申し出たが、これは拒絶された。さらに、提督が長い距離を小さな舟で移動するのは権威にかかわるので不都合であること、そこで会合の予定地に近いところまで艦隊が移動することが、奉行に通告された。そして翌木曜日8時から9時の間に提督と一行は下艦することが決まった。日本側は、日中の暑さを避けるためにもっと早い時間を希望したが。
 ・・・以下略 

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