真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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旅順虐殺事件 従軍外国人新聞記者の記事

2017年10月26日 | 国際・政治

 旅順虐殺事件が世界に知られることになったのは、第二軍に従軍した外国人新聞記者による記事でした。でも、それは事件直後ではなく、しばらく経過して記者が戦地を離れてからであったようです。何故なら、外国人記者が従軍するにあたっては、日本軍の「外国人新聞記者従軍心得」に従う必要があり、またその取材には様々な制限があった上、発送する通信文は日本人将校の検閲を受けなければならなかったからです。

 旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月の日清戦争における旅順攻略の際の事件ですが、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったのは、「ワールド」(12月12日付)第一面に「日本軍大虐殺」の大見出しで掲載された戦争特派員・クリールマンのわずか百一語の署名記事であったといいます。
 当時外務大臣であった陸奥宗光は、事件の報道を知り米国人情報工作者エドワード・H・ハウスを通してワールド宛てに弁解の声明文を送ります。その声明文は「日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず、却(カヘ)って事実の確かなる所を”取調べ”国の尊厳を保つに必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり」と始まっています。
 日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄によれば、事件の報道後、大本営からの使者が、第二軍司令官大山巌宛の参謀総長有栖川宮熾仁(アリスガワノミヤタルヒト)からの書状を持参し、回答を求めたということですが、それが陸奥のいう”取調べ”だと考えられています。そして、第二軍司令官大村巌とともにいたであろう有賀長雄が、司令官が「其ノ事実ノ信ナルヲ承認」したと書いていることは見逃せません。その回答は「事件ニ関スル公然ノ解釈」で「日本軍隊ノ見解ヲ代表スルモノ」だというのです。
 でも、次のような四つの理由をあげて、虐殺の事実を認めたということだったようです。

左記ノ事実ヲ以テ推究セハ二十一日ニ於テ市街ノ兵士人民ヲ混一(コンイツ)シテ殺戮シタルコトハ実ニ免レ難キ実況ナルヲ知ルヘシ。
 一、旅順口ハ敵ノ軍港ニシテ市街ハ多クノ兵員職工ヨリ成立セシコト
 二、敗餘(ハイヨ)ノ敵兵家屋内ヨリ発砲セシ事
 三、毎戸ニ兵器弾薬ヲ遺棄シアリシ事
 四、我兵ノ同市ニ進入セシハ薄暮ナリシ事
 
 被害を受けた側からすれば、こうした理由は受け入れ難いものであろうと思います。そして、下記の外国人記者の記事が、それさえ事実に反することを明らかにしているのではないかと思います。
 外務大臣陸奥宗光の声明文の言葉に反し、時の政府が、きちんと虐殺事件に向き合わず言い訳や隠蔽工作に終始したこと、そして、そうした姿勢がその後の政府にも受け継がれていったことを、残念に思います。
 下記は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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                市街の兵士人民ヲ混一シテ殺戮  12月21日

  3
 歩兵第二連隊を主力とする将兵が旅順に突入してからの一部始終を、市街がよく見渡せる白玉山の山頂に立って、外国人従軍記者たちが見ていた。そこで各人が目にしたものは、のちにそれぞれの新聞に記事となって掲載された。
 ジェームズ・クリールマンは、「ワールド」(12月20日付)に書いた。

 日本軍が旅順になだれ込んだとき、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊されているのを見た。また、表通りには、血のしたたる日本人の首で飾られた、恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起こった。激怒した兵士たちは、見るもの全てを殺した。
 自分のこの目で見た証人として私は、憐れな旅順の人々は、侵略者に対して如何なる抵抗をも試みなかったと断言できる。いま日本人は、窓や戸口から発砲されたと述べているが、その供述はまったくのでたらめである。
 捕虜にするということはなかった。
 兵士に跪き慈悲を乞うていた男が、銃剣で地面に刺し通され、刀で首を切られたのを、私は見た。
 別の清国人の男は、隅で竦んでいたが、兵士の一分隊が喜んで撃った。
 道に跪いていた老人は、ほぼ真っ二つに切られた。
 また、別の気の毒な人は、屋根の上で撃たれた。もう一人は道に倒れ、銃剣で背中を何十回も疲れた。
 ちょうど私の足元には、赤十字旗が翻る病院があったが、日本兵はその戸口から出て来た武器を持たない人たちに発砲した。
 毛皮の帽子を被った商人は、跪き懇願して手を上に挙げていた。兵士たちが彼を撃ったとき、彼は手で顔を覆った。翌日、私が彼の死体を見たとき、それは見分けがつかぬほど滅多切りにされていた。
 女性と子どもたちは、彼らを庇ってくれる人とともに丘に逃げるとき、追跡され、そして撃たれた。
 市街は端から端まで掠奪され、住民たちは自分たちの家で殺された。
 仔馬、驢馬、駱駝の群が、恐怖に慄く多数の男と子どもとともに旅順の西側から出て行った。逃げ出した人たちは、氷のように冷たい風のなかで震え、そしてよろけながら浅い入江を渡ったが、弾丸は標的に命中しなかった。
 最後に入江を渡ったのは二人の男であった。そのうちの一人は、二人の小さな子どもを連れていた。彼らがよろよろと対岸に着くと、騎兵中隊が駆けつけて来て、一人の男がサーベルで切られた。もう一人の男と子どもたちは海の方へ退き、そして犬のように撃たれた
 道沿いにずっと、命乞いをしている小売商人たちが撃たれ、サーベルで切られているのを、私は見ることができた。戸は破られ、窓は引っ剥がされた。全ての家は侵入され、掠奪された。
 第二連隊の第一線が黄金山砲台に到達すると、そこは見捨てられているのがわかった。それから彼らは逃げる人でいっぱいのジャンクを見つけた。一小隊が埠頭の端までひろがり、男や女、それに子どもたちを一人残らず殺すまでジャンクに発砲した。海にいる水雷艇は、恐怖に打ちのめされた人々を満載したジャンク十隻をすでに沈めていた。
 五時頃、退却する敵を追って行った乃木以外の全ての将軍が、陸軍大将とともに集まった操練場に音楽が流れた。何と機嫌良く、何と手を握りあっていたことか! 楽隊から流れる旋律の何と荘重なことか! 
 その間ずっと、私たちは通りでの一斉射撃の響きを聞くことができ、市街にいる無力な人々が、冷血に殺戮され、その家々が掠奪されているのを知ることができた。

 クリールマンのこの文の前に、「旅順占領の物語は、歴史の最も暗い頁のひとつになるだろう」と憂え、日本に対し、「東洋の暗闇のなかで、目下のところかくも穏やかな光を放っていた、アジアの光明が消えるのを見るのは辛いことだ」と記した。
 
フレデリック・ヴィリアースは21日午後目撃したことを「スタンダード」(1月 7日付)で、クリールマンと同じく吊された生首について触れたあと、続けていう。

 一時半に、砲兵三中隊と歩兵の大軍勢が、市街地以上に港を見渡せる丘の頂上に移動した。四時十五分前には、今や連隊長伊瀬知大佐の率いる西旅団第二連隊が市街に向かって進軍した。清国軍の縦列が移動するときは常に援護していた偉大なる黄金山砲台は、現在は伊瀬知大佐の率いる地の方へ、二、三発の砲弾を落とし、ほんのわずかな効果をあげているだけであった。そして砲台は突然に砲撃を止め、日本軍は市街に通ずる小さな鉄の橋を渡った。進軍中の歩兵たちは、十八日に敵の手中に落ちた戦友の首が道沿いの一ないし二本の立木の枝に吊されているという、激怒を誘うような光景を目にした。もっと先には、家屋の低い軒に唇を紐で貫かれて吊されている、身の毛もよだつもう二つの生首があった。将兵は堪忍袋の緒が切れ、家屋に潜む敗兵の捜索に射撃隊が分遣された。
 まもなく、彼らが出合う全てのものに対し発砲が始まった。山地中将のかたわらに控え、清国兵の進撃をくい止める一方で、エシオ山(どの山をさすのか不明)でいつもながらの矢面に立ち昂ぶっていた第二連隊は、血の気の失せた、切断された、死んだ戦友顔の見世物に激怒し、出会うところの命あるものは何でも射殺しつつ、銃剣で突き殺しつつ、通りに殺到していった。犬、猫、それに迷子の騾馬までもが切り倒された。大山大将の頼りになる声明の効力を恃(タノ)みにしていた商人、店主、住民らは、アジア人の敵に叩頭する用意をして立っていた。彼らは西洋風の洗練された軍用マントを着用していたと思われる。侵略者(インヴェ゙ーダーズ)が国に隊伍を組んでやって来たとき、民間人の顔に歓迎の臆病な笑みが浮かぶのを私はよく目にした。これらの哀れな民間人たち-年老いた白髪まじりの男たち、青年たち、壮年の男たち-は、それぞれの家の戸口に立っていて切り倒された。村田銃の銃声に対し、この行き過ぎた行為の弁明を正当化する応射は、市街のどこからもなかった。軍隊が船渠
(ドック)に到着したとき、作業場や鉄の索具のかげから二、三発が発射され、近くに兵士がいることを警告したに過ぎなかった。四人の英国人が、市街を見渡せる丘から旅順への進撃と通りでの残酷な所業を見ていた。しかし、日本兵は自分たちがしたことの多くに対して、あらゆる弁明があった。彼らの眼前にぶら下がっていた身み毛のよだつような生首の姿は、最も人情あるヨーロッパの軍隊の胸中にも野蛮さをかき立てるのに十分であった。 十一月二十一日午後はこのようなものであった。

 「タイムス」(1月8日付)に、コーウェンが書いた記事もみなくてはなるまい。先に触れたように、この記事の原稿は1894(明治27)年12月3日に神戸で書き上げられたものであった。

 二十一日午後二時を少しまわったころ、日本軍が旅順に入ったとき、清国軍は市街の街外(マチハズ)れの建物の間に戻るまで、遮蔽物から遮蔽物へと移動しながらゆっくり退却し、最後まで死物狂いで抵抗した。そしてついに、全ての抵抗が止んだ。彼らは完全に敗北し、なし得る最善のこととして、隠れるか、国内を東から西へと逃げるかしながら、通りを潰走していった。私は「ホワイト・ボウルダー」(白い玉石)、日本語で白玉山と呼ばれていた険しい丘の崖縁(ガケップチ)に立っていた。西港が背後に、テーブル・マウンテン(案子山を指すと思われる)砲台が左側に、黄金山砲台と海が右側に、東の砲台が市街越しの前方はるかかなたにと、足元に市街全体の光景を間近に見渡すことができた。私は、日本軍が進撃し、通りや家のなかに繰り出し、進路を横切る全ての生きているものを追跡し殺害するのをみて、その原因を懸命に捜した。私は実際に発砲されるのを目にしたが、日本兵以外からのものは何もなかったと疑いもなく誓って言える。多くの清国人が隠れ場所から狩り出され、射ち倒され、切り刻まれるのを目にした。ひとりとして戦おうとはしていなかった。皆、平服を着ていたが、それは無意味であった。何故なら、死にたくない清国兵は、彼ら流に制服を脱いでしまっていたからだ。多くの者が跪き、叩頭の格好で頭を大地に曲げ哀願していた。そのようない姿勢のまま、彼らは征服軍に無慈悲にも虐殺されたのであった。逃げ遅れた者は跡を追われ、遅かれ早かれ殺された。私の目にした限りでは、家屋からは一発の発砲もなかった。私はモニュメント(1666年に起きたロンドン大火の記念塔)の天辺(テッペン)からロンドン・ブリッジをみるように、小さな市街のあらゆる場所がみて取れた。私は自分の目を信じることができなかった。何故なら、私の通信が示しているように、私を温和な日本人に対する称賛の気持ちで一杯にしてくれたということは、それまでの日本軍の行動に議論の余地がないという証拠であった。そこで私は、これには何らかの理由があるはずだと確信して、必死になってほんのわずかのしるしも注意深く見ていた。しかし、何も見出せなかった。仮りに私の目が自分を欺いていたのであれば、他の人々も同じ状態にあったことであろう。英国と米国の公使館付き陸軍武官もボウルダー・ヒルにいて、同様に驚き、かつ戦慄していた。彼らが断言したように、それは蛮行のむやみな噴出であり、偽りのやさしさの胸を悪くさせるような放棄であったのだ。
 背後での射撃は、私たちの注意をひろい潟へとつながる北の入江へ向けさせた。そこでは、攻囲された市街に遅くまで留まり過ぎたパニック状態の逃亡者、つまり男や女や子どもたちを通常の二倍も乗せたボートの群れが、西へと移動していた。士官に率いられた日本軍騎兵部隊が入江の上手にいて海の方向に発砲し、その射程内の者全てを殺戮した。年老いた男と十歳か十二歳くらいの二人の子どもが入江を渡り始めていた。騎兵が水の中へ乗り込み、刀で彼らを何十回となく滅多切りにした。その光景は、手に何も持たず、私たちと家々の間の、海の方向に流れる、丘の裾にある小川が干上がった川床に沿って農夫の身形をした男が走っていくのが見えた。二十ないし三十発の銃弾が男の跡を追っていった。一度、男は倒れたが、すぐさま起き上がり、命からがら逃げ出した。日本兵は十分に狙いを定めるには興奮し過ぎていた。男は見えなくなった。だが、最終的に男が倒れたのは、九分九厘確実であった。
 別の哀れで不運な男は、侵略者が無差別に発砲しながら正面の扉から入ってくると、家の裏に飛び出した。路地に入った一瞬ののち、男は自分が二つの銃火の間に追い詰められているのに気付いた。私たちには、男が三回土埃りのなかに頭を垂れてから十五分間にわたりその悲鳴が聞こえた。三回目には、男はもう立ち上がらなかった。大いに吹聴されていた日本人の慈悲に縋(スガ)る形で二つ折れになり、男は横向きに倒れていた。日本兵は男から十歩離れた所に立って、狂喜して男に銃を向け弾丸を注いだ。
 さらに、多くのこれら哀れな死を、私たちは殺人者の手を止め得ないまま、目にした。もっともっと多く、人が話せる以上に多く、言葉をもって語れることの及ぶところではないほどに、気分が悪くなり悲しくなるまでに目にしたのだ。(中略) 私たちが目にしてきたようなことをすることのできる人々のなかに留まらねばならないのは、ほとんど拷問に近かった。

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