真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 5

2014年07月22日 | 国際・政治
 日本軍政下におけるベトナムで、”200万人”の餓死者が出たという話は、ベトナム独立同盟(ベトミン)が、8月の一斉蜂起で独立を果たし、ベトナム民主共和国を成立させたその日(1945年9月2日)、独立式典でホー・チ・ミンが読み上げた「独立宣言」の中に出てくる。下記の一節である。

・・・1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。・・・”

この「独立宣言」の内容に関して、

ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた

として、当時の日本軍に責任はないとしたり、またその責任を過小評価したりするような主張が、いろいろなところでなされている。しかし、「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死」の1~4ですでに取り上げたように、日本人自身による多くの餓死者の目撃証言や、日本軍のコメ(モミ)の強制買い付けの問題、黄麻強制栽培の問題その他を具体的に検証すれば、それほど簡単に責任逃れができる問題ではないことがわかる。

「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)にも、一部が引用されているが、「証言する民 十年後のベトナム戦争」大石芳野(講談社)の、下記のような、地元住民に対する聞き取りによって集められた証言も無視することはできない。”ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた”として、名前も役職名も経歴も分からない「ハノイ人民幹部」の一言で、数々の証言をすべてをひっくり返せるものかどうか、冷静に考える必要があると思う。
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                第8章 「北」の人々

           ── 旧日本軍・抗仏・北爆の四十年 ──

恐怖の旧日本軍「麻作戦」

 東南アジアの国々を旅すると、どこでも人なつこい笑顔で歓迎される。だが、親しくなるにつれて「日本軍に父が……親類が……故郷の人が……」、といった話になる。
 ハノイの南東にあるタイビン省へ行った時に、人民委員会の副議長ブバン・ハンさんに日本軍の話をぶつけてみた。彼は初めいささか驚いたような表情をして私をじっと見つめていたが、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐いて、40年前のことを思い出すように話し始めた。


「当時、省の人口は約100万人のほぼ三分の一弱にあたる28万人が日本軍の『作戦』によって命を落としました。最大の理由は、収穫寸前の稲を引き抜かせて麻を植えさせられたことにあったのです。小作農はもちろんのこと、地主にとっても、収穫直前の米蔵は空っぽでした。10日待ってくれれば、収穫を終え、田を耕し直して麻を植えることもできたのです。私たち農民は日本軍に懇願しました。けれど、聞き入れてもらえず、強制的に刈り取らされたのです。その結果、貯えのなかった小作農たちから先に飢えて倒れていきました。水害も加わり、弱った体に伝染病がみるみる広がっていったのです。全滅した家族もたくさんありました。亡くなった家族、友人の遺体を埋めながら、次は自分だ、自分は誰が埋めてくれるのだろうか……そんな想いでした。まだ元気のあった人が、馬車で遺体を集めてはまとめて空き地に埋めました。小さな家に子どもたちが飢えて泣いていたけれど、その子たちも翌朝には息たえていました。冷たくなった母親の乳房に吸いついたきりの赤ん坊……。着る物、調度品は次々に売って食べ物に換えていったのでとうとう裸同然で歩いていました。私の長女は5歳だったけれど、米ヌカでやっと生き残りました。でも、赤ん坊は死んでしまいました」

 タンホー村へ行ったとき、農婦ブー・ティ・クイットさん(59歳)の家を訪ねた。彼女の家はレンガ建てだ。きれいに掃除された庭の隅に井戸が掘ってあり、炊事場のレンガの小屋には食器、鍋などがきちんと並べられてあった。73年に草葺屋根の家から立て直した。クイットさんのこの庭を囲むようにして、すぐ横に3人の息子がそれぞれの家を建てた。彼女は若い人たちに農業技術の指導をしている。最近では1ヘクタールにつき11トンの米が収穫できるようになったという。
 彼女に日本軍のことを尋ねると、やはり少しとまどっていたが、こう話した。
「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。一度に運び切れないで残った米から芽が出はじめて。飢えた子供が、手づかみでとろうとしてひどく殴られましたね。
 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」


 同じタンホー村の農夫グエン・ヒ・トゥさん(69歳)は、貧しい農民だった。そこに突如「麻作戦」がとられてトゥさん一家はどん底へ追いやられた。
 「『共産主義者はどこだといって乱暴しましたよ。私は違いましたがこの村にいて救われる道はないと思い、弟を連れてハノイから70キロの高地バクヤンに働きに出ました。その直後、飢えた家族が次々に死んで全滅したことを知りました。が、私と弟は帰るに帰れませんでした。46年にフランスとの戦いが勃発したので急いで村へ帰り、民兵となったのです』
 彼は44歳でやっと結婚ができるゆとりができた。だが、一人息子が4歳の時、妻に病死されてしまい、そのまま再婚もしないで今日に至っている。
「妻のことが忘れられなかったのと、息子のことを考えても母親を覚えさせておきたかった。幼かったから、生みの親より育ての親の記憶がはっきりしてしまうと思いましたから」
と、トゥさんはいった。ベトナムでは、男性も女性も再婚しない人が多い。そのことを表したことわざがある。
「雄の鶏が雛を育てる」
それほど男ヤモメは多いのだという。


 日本軍に、「共産主義者」と名指しされて捜索されたという一人ドーバン・クーさん(72歳)に会うことができた。クーさんはベトナム人としてはやや大柄で、健康そうに見える。穏やかな笑顔を浮かべながら、部屋に案内してくれた。2つのベッドにはゴザが敷いてあり、テーブルと椅子がきちんと置いてあった。ベッドの後ろの壁には竹製スダレに描かれた花柄の絵が飾ってあった。
「村人の知らせですぐ逃げました。しばらくして戻ってみると、村長の家に日本兵がいて彼らは大声でどなっていました。日本軍には通訳がいなかったため、手まねで『豚を食べたい』とか、共産主義のマークを示して『連れて来い』とか、『麻を植えろ』などと命令してました。思うようにならないと『家に火をつけるぞ』と脅迫し乱暴を加えていました。郡長は日本軍に○○ドノといって、ペコペコでしたね。
『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』、といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」
と、クーさんは話した。そこへ妻のリンさん(73歳)が茹でたての黄色いトウモロコシを大ざるに盛って持ってきてくれた。香ばしさに誘われて1本とって丸かじりした。クーさんはニコニコしながら
「あなたは横笛を吹きましたね」
といった。トウモロコシを横にして食べる姿は、ちょうど笛を吹いているようだ、と人びとは詩的に表現している。
 別れ際にクーさんは私の手をとりながら、
「この村にきた日本軍の兵士も、普通の平民だったのでしょう。それが兵士としてベトナムに送り込まれて野蛮な行動をとらされた。これは日本軍国主義者がそうさせたので、一般の人びとはお互いに兄弟です。これが私たちの本当の気持ちですよ」
と、柔らかい眼差しでいった。


 ベンフン村のグエン・ティ・メンさん(60歳)は幼い孫の相手をしながら、
「あのころのことは忘れましたよ」
といって、話そうとしなかった。けれど、
「この前、村に養蚕のことで数人の日本男性が来ました。その時、子供たちは『日本軍と同じようにひどいことをするかもしれないね』と、話していたんですよ。夫は驚いて、子供たちに『あれは日本の軍国主義者のしたことで、一般の日本人はそんなことはしないよ』と教えていましたね」
とだけいった。

 ベトナムが日本軍に占領されたのは45年の5ヶ月間だったが、駐留は5年間にも及んでいた。日本軍はほかの東南アジアや南洋諸島の地域にいる仲間の食糧を補うために、ベトナムが収穫した米を運び出した。そのため村人は飢えた。しかも、日本軍を狙った連合軍の攻撃が激しくなり、南部からの米が北部へ送れなくなっていった。そこに悪天候による不作。さらに追い打ちをかけたのが、「麻作戦」だった。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は省略をあらわします。

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