真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 3

2014年07月17日 | 国際・政治
 大戦末期の日本軍政下における、ベトナム"200万人"餓死に関しては、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」、と200万人の餓死そのものに疑問を投げかけつつ、当時の日本軍の責任を否定する人たちがいる。現在ネット上では、そうした考え方をとる人たちが主流のようでさえある。

 しかし、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏によると、「1万人の日本兵」ということ自体が事実ではないようである。「仏印」駐屯日本軍は第38軍(司令官土橋勇逸中将)だが、「明号作戦」のために増強された兵力は、隷下部隊に第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、独立混成第70師団、指揮下の部隊には第2師団、第22師団、第4師団の一部などが含まれ、その総兵力8万2000人のうち北部に2万5000人が配置されていたというのが、どうやらほんとうらしいというのである。また、すで「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死 1」で紹介したが、戦後南ベトナム(ゴ・ディン・ジェム政権)との賠償協定に関わって、政府が国会に提出した賠償提案の理由の中に、「当時8万前後のわが軍」と明記されていて、それが45年に入っての通常兵力だったと解釈できるというのである。

 さらにいえば、「1万人が200万人分のコメを食えるはずがない」というのは確かであろうが、”そのとき貯めこんでいたコメの物量を忘れてはならない”という指摘も重要であると思う。また、同文書には「南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割」などという言葉もあり、当時日本軍が確保していたコメと同時にベトナムから持ち出されたコメについても考慮する必要があると思う。軽々しく「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない」などということはできないと思うのである。下段の「飢餓四つの原因」も、忘れてはならない指摘であると思う。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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                第6章 だれに責任が?

強制買い付け

 当時の食糧事情を、ベトナム側からあきらかにした資料がある。
『1945年の200万人餓死の真実』は、私も二度ほどお会いしたことのあるベトナム歴史研究所所長バン・タオ教授が監修し、ゲウン・カック・ダム氏が編集した一冊で、4年ほど前に日本ベトナム友好協会に送られてきた。その結論部分が『日本とベトナム』紙に3回にわたり分載されている。

 これは、書名からも察しがつくように、問題の「200万人餓死」を解明する上で、ベトナム側のもっとも権威のある、しかも新しい研究書とみることができる。また、こんにちの時点までに入手したベトナム側あるいはフランスなど西側の統計資料が豊富に引用されているのにも、特色がある。
 その内容を損なうことなく紹介するには、ちょっと力不足だが、できるだけわかりやすく次にまとめてみることにしよう。


 ──フランス側の資料によると、1942年にベトナム北部で161万7000トンのモミを生産したのに対して、食べるほうの人口は800万5000人だった。
 大人と子どもを平均して、一人の人間が一年間に消費するモミを210キロ(この量は少し多いように思えるが、モミ計算であるうえに、副食物が極端にとぼしく、味噌、塩、ニョクマム(魚醤)くらいしかなかったため、その分をコメで補う生活だったと考えられる)とすると、800万5000人に169万トンのモミが必要となる。すると、この年に生産したモミ総量は、8万トン前後の不足分があったということになる。
 1943年には、同じ北部で151万3000トンのモミを生産したのに対し、人口は1000万人に増えていた。したがって、この年の不足分は61万トンあまりとなる。その分はどうしていたのか。南部のコメを運んでくることで補っていた。南北の交通が正常だった41年には、18万6000トンの南部米が北部に搬入されている。


 ところが1944年~45年ともなると、重慶、桂林などからの連合軍の日本軍事目標爆撃により交通手段は悪化の一途をたどり、南部米の移送があちこちで分断されてしまう。44年には、わずか6800トンの南部米が運ばれたにすぎない。もはや南部米はアテにできないとあって、これを現地で解決すべく、フランスは農地を細分化し、1マウ(北部で3600平方メートル)単位で、モミの買い上げを強制した。農民は1マウあたり200~250キロものモミを売らねばならなくなったのである。

 強制買い付け制度によるモミは、こうして年毎に増加して、42年が1万9000トン、43年が13万トン、44年が18万6000トンとふくれ上がっていく。農民のなかには、規定量のモミを売ったら食用分がなくなってしまい、はるかに高い金でモミを買わねばならない者が続出してきた。
 その買い付け価格であるが、43年に100キロのコメが市場で57ドンだったのに対して、当局の買い上げ価格は26ドン。ざっと半値だった。ところが44年には市場価格は400ドンに達したにもかかわらず、買い上げ価格は53ドンだった。八分の一である。食用米が不足すれば、当局が支払ってくれる価格の8~10倍もの高いコメを逆に市場で入手しなければ生きていけなくなったのだ。
 こうして農村はたちまちにして窮乏化し、例年貯えていたところの非常用の保有米まで失うほどの、かつてない危機的事態となった。


 都市部はどうか。日本軍とその関係企業、フランス政庁(共同管理は45年3月9日までだが)と接触していた人々にだけ、コメは配給制になっていた。しかし、43年なかばまで一人あたり毎月15キロのコメが、44年には10キロ、45年には7キロになってしまった。不足分は買い足さなければならず、すさまじいインフレで、都市人民もまた急速に餓民なっていった。

 もう一つ、忘れてはならない大きな問題がある。たとえ自然災害によって食用米が不足しても、これまでの農民たちは、トウモロコシなどの雑穀にたよることができた。しかし、戦争が激化すると、日本とフランスはコメのみならずトウモロコシを買い占める一方で、繊維性・油性作物の栽培を奨励し、強要した。ジュート、チョマ、綿、ヒマ、落花生、胡麻などの栽培面積は、北部だけで44年に4万5000ヘクタールとなり、40年とくらべて9倍に達した。もしも40年度の5000へクタールのままだったとすれば、のこりの4000万ヘクタールで、モミ6万40000トンが、さつま芋かトウモロコシ9万トンを収穫できたはずである。


 北部の飢餓状態は、44年の末になると、いっそう深刻さを増してきた。同年10月と11月に台風と大雨が何度も重なり、やがて冷害も加わって、秋作米収穫に大きな被害が出た。これを統計によって、次にみていくことにする。

 38年から43年まで、北部における10月秋作米(春作米を除く)の平均収穫量は、モミで109万トンだった。しかし、44年の10月米収穫は、やっと100万トンに達しただけだった。このほかに、北部の人たちは8万トンあまりの雑穀を生産していたので、食糧生産量は合計108万トンになる。
 ところが、前述のように、この年フランスは18万6000トンのモミを強制的に買い付けた。その三分の二が秋作米で、12万5000トンである。このうちの一部をフランスは都市部のごく限られた人びとに配給した。その総量5万トンという数字は疑わしいが、仮にそうだとして7万5000トンがフランスと日本に残されたことになる。さらに農民が次の植え付けの種モミとして保有しておかなければならないモミが、5万5000トンあまりあった。これを差し引くと食用として残された分は95万トンになる。
 それが、北部人民に食用として残されたモミで、44年11月から45年5月の春作米収穫期まで、約7ヶ月分となる。


 北部の人口は、約1000万人。一人あたり年間210キロの穀物が必要だったとすれば、1ヶ月に18キロ。7ヶ月ならば126キロになる。しかし、総計95万トンのモミで7ヶ月を食いつなぐためには、750万人分しかない。残りの250万人がはみ出してしまう!

 以上は、非常に単純な計算によるものであって、95万トンからの食用分が、残されたすべての人たちに平等に配分されていたならばまだしも、実際は決してそうではなかった。フランスが買い付けを委ねていた大地主や権力者、ならびに各種商人たちが、インフレを見越していちはやくごっそりとおさえこんでしまった。買い占めと売り惜しみである。そのため、あるところにはあったが、実際に一般の手にまわった分は、もっとずっと少なかったのである。
 同書のまとめは、次のような文章で結ばれている。

 「数知れぬ人々が、このような籾・雑穀の不足状態の中で、バナナとか山イモとか木の葉、あるいは金持ちたちが捨てたゴミなどを食糧にして食いつながざるをえなくなった。しかし、このような物は飢餓の解消には、あまり大きな貢献にはなりえなかったのである。
 したがって、1945年初頭に北部で200万人の人が餓死したという、ベトナムの新聞が公表している数字は、けして誇張されたものではなく真実であり、これを誇張とするのは、日本帝国主義とフランス植民地主義の責任を故意に軽減しようとする人の議論なのである。」


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飢餓四つの原因

 パン・ダオ教授監修による『1945年の200万人餓死の真実』と、来日したタオ教授から直接細部のくわしい説明を受け、またさらに多くの資料を照合していくところ、深刻な飢餓の原因は決して単純なものではなく、大きく分けて次のような理由が考えられる。


①天候不順による凶作
②南からのコメの輸送停止
③ジュートなどへの転作の強要
④日本とフランスによるコメの強制買い付け

 というわけで、いくつものマイナス要因が、同時期に重なったことの複合汚染ならぬ複合飢餓だったと考えられなくもないが、しかし、以上の理由のうちの、もっとも主要な要因ははたしてどれなのか。

 ①の自然災害だったという指摘には、すでに同地域における歴史に残る飢饉を紹介したが、これまでどんなひどい不作でも、200人余りの犠牲者が出た例(1915年)があっただけである。
 1944年に超大型の台風と洪水とに襲われたトンキンデルタが、かなりの面積にわたって水没したのは事実だったとしても、秋作米は約100万トンの収穫があって、43年度の109万トンに比べ、約1割ほどの減収でしかない。もともと消費量の追いつかぬ収穫しかない人口密集地域だから、1割減っても影響は深刻だが、それが決定的な要因になったとは考えにくい。不作になったのはもちろんのことだが、しかし、冷害による被害もまた意外に大きかったのではあるまいか。
 ハノイの温度は夏に30度以上の酷暑になることもあるが、12月から1月の平均気温は17度前後である。それが、この年は4度以下までさがり、時には薄氷さえ張ることがあったという。日本兵士たちはすべて外套を着用したといわれる。すでに長期におよぶドン底生活で、衣食住すべてにわたりぎりぎり最低だった人びとには、耐え難い寒波だったことだろう。身のまわりのものはみな売りつくし、裸同然となって食物を求めてさまよう人たちは、もはや肉体的な抵抗力がなく、コレラ、チフスなどの疫病も広がり、さらに凍死も多かったのではないかと思われる。


 ②の南からのコメの移送が遮断されたのも、小さくない要因である。ベトナムのコメどころは、今も昔も圧倒的に南のメコンデルタで収穫される南部米(サイゴン米)である。
 1938年~39年度の統計によれば、インドシナ全域でのコメの収穫高は年間630万トンで、その内訳はベトナム北部で25%、中部で16%に対し、南部で40%を占めた。カンボジアは12%ラオスは7%にしか過ぎなかった。したがって、インドシナ全体のコメの収穫量の半分近くが南部で生産されるサイゴン米である。

 人口が多いわりに食糧生産に追いつかぬ北部は、南からのコメと引き替えに石炭などの地下資源を送っていたものだが、戦争が激化するにつれて、その均衡がくずれた。41年には18万6000トンの南部米が北部に運ばれてきたのに、44年はわずか6800トン。例年の二十分の一では、どうしようもない。
 南部では余ったモミを石炭がわりにして、機関車を走らせたというエピソードがあるくらいだが、コメの流通に当たっていた日本企業と華僑は、北へのコメ移送にきわめて消極的だった。この時期には、連合軍の爆撃によって、南北のルートは水路陸路ともに各所で分断されていた。大がかりな米の輸送は次の爆撃目標になりやすく、危険度と収入高からしてもリスクが大きすぎる。
 牛車や小型ギャンクなどでコメを運ぶのに努力したという日本企業員だった人の声もきくが、個人的な善意は認めるにしても、日本軍に北部の飢民を救おうという方針もなく、なんの措置もとらなかった。飢饉に苦しむ人びとは異国からの支配者に見捨てられたのである。


 ③日本とフランスによるジュート(黄麻)など繊維性・油性作物栽培の転作は、最初は奨励程度だったものが、やがて強要に近い圧力をともなってくる。コメとトウモロコシを除けば、インドシナの特用農産物の目玉はなんといってもジュートだった。農産物や鉱産物の麻袋としての利用度が高かったからである。
 先のベトナム側資料によれば、1941年に5000ヘクタールの栽培面積だったジュートは3年後には9倍の4万5000ヘクタールに拡大したとある。42年9月に、日本政府は三菱商事、三井物産、大同貿易、日本綿花の4社をトンキンデルタに送り込み、次いで台湾拓殖、又一商会、大南公司、江商、台南製麻、東洋綿花、三興、大丸興業などを加えて、大がかりなジュートの栽培と輸出にあてた。

 栽培の適地は主として河川敷だが、それでは足りずに水田をつぶし、コメの二期作のうちの一期作をジュートに変えたところもあった。そして、台湾人農業指導員を多くあてている。農民たちの不満や苦情が、直接日本軍や企業までは届かない巧妙な手口が、実は日本がねらったところの「仏印」支配機構だった。
 先の資料には、ジュートなどへの面積がもしも41年度の5000ヘクタールのままだったとすれば、残る4万ヘクタールでモミ6万4000トン、もしくはさつま芋かトウモロコシ9万トンが収穫できたはずだという。生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際に、6万トンのモミ、あるいは9万トンの農産物があるかないかでは、事態は大きく変化する。ジュートへの転作も又、決して見落とすことのできない飢餓の一要因といえるだろう。


 ④日本とフランスのモミの強制買い付けが最後に挙げられるが、これはどうか。
 問題の1944年の秋作米から、フランスは12万5000トンのモミを買い付けたとされている。そのうちのどれだけが日本軍ならびに日本企業へきたかは不明だが、45年3月10日以降は、フランス軍がいないのだから、その分も含め、日本の特別倉庫には相当量のモミとコメが蓄蔵されていたはずである。
 それは「少なくとも、現地軍が2カ年食べ得る備蓄量が目標だった」と小山内宏氏は『ヴェトナム戦争・このおそるべき真実』に書いている。ハノイの「第21師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していた」とは、第3章に紹介した元軍曹武田澄晴氏の手紙の一節である。
 北部駐屯日本軍が、2年分もの食糧を確保していたのだとすれば、フランスが買い付けた44年の秋作米12万5000トンのうち、せめて10万トンでも、北中部の一般人民に平等に放出することはできなかったのか。
 しかし、日本もフランスも、それをしなかった。ベトミン組織の予備軍ともいうべき農民や貧民が、飢えれば飢えるほどに体力も気力も失い、自分たちの支配に対する抵抗力が衰弱するとでも思ったのだろう。フランスは日本軍よりも、足元を揺すぶる地鳴りのようなベトミン運動の高揚を恐れていた。この点では、日本もフランスも支配者としての共通の危機感と連帯感があったようである。侵略国ならではのこの支配思想こそが、当然するべき救援活動も怠り他人事に終始したのであって、以上4つの原因のうちの最大の要因だった、と私には思えてならない。


 ・・・(以下略)

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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2 コメント

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飢饉 (rumichan)
2018-10-12 00:29:31
『フランス側の資料によると、1942年にベトナム北部で161万7000トンのモミを生産したのに対して、食べるほうの人口は800万5000人だった。』

『北部の人口は、約1000万人。一人あたり年間210キロの穀物が必要だったとすれば、1ヶ月に18キロ。7ヶ月ならば126キロになる。しかし、総計95万トンのモミで7ヶ月を食いつなぐためには、750万人分しかない。残りの250万人がはみ出してしまう!』

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なぜ2年か3年の間に、人口が200万人も増えたのか?

日本の小作農の年貢の割合は、収穫の50%と言った数値が普通だったと思います。
この数値で日本の農民が何とか暮らしていたのなら、ベトナムは二期作なので、ベトナムの農民は75%の年貢を取られても何とかなったはず.
と言うことで、普通に考えて、書かれている数値は全部おかしいです.
(書かれている数字では、200万人も餓死するとは思えない)

1.44年秋の収穫減は、台風その他.
2.45年春の収穫減は、冬場の冷害.
と言うことで、1年に渡って減収が続いたと思われる.

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https://www.youtube.com/watch?v=vztGN3DbuPY
24:00辺りに、飢饉の出来事があります.
ハノイに逃れてきた農民に援助をしようとしたら、日本軍が邪魔をした(らしい).
返信する
コメントありがとうございます。 (syasya61)
2018-10-12 09:44:54
rumichan様

 鋭いコメントをありがとうございます。さらなる検証が必要だろうということはわかります。でも、要な問題は、正確な数ではなく、先ず甚大な被害を与えたという事実であることを踏まえ、ベトナムを含む近隣諸国の理解を得て、その後、より正確な実態を把握することではないかと思います。
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