真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

世界の核実験(2288回以上)と被曝被害

2013年09月07日 | 国際・政治
  広島・長崎に原爆が投下されたのは、アメリカがニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で1945年7月16日に世界最初の原爆実験を行ってから1ヶ月も経っていない8月6日と9日である。なぜ原爆投下を急いだのか。

 大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。このヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求めるヤルタ協定に合意したため、ドイツ降伏後3ヶ月以内のソ連対日戦参戦が決定した。一日も早く日本を降伏させるためである。
 しかしながら、原爆実験に成功すると、ソ連の参戦を求めたアメリカの態度は一変し、日本の降伏にソ連参戦は不要であり、ソ連の参戦前に対日戦を決着させようと、原爆を投下を急いだというある。

ウラルの核惨事」で有名なジョレス・メドべージェフ博士は、このとき原爆に込められた「今やアメリカが最も強力な国であり、支配者である」という政治的メッセージに気づいたという。それは戦争の終わりではなく、新たな対立の始まりでしかない,、という認識である。
 
 ジョレス・メドべージェフ博士の予測通り、それ以後核軍拡競争に突入し、1994年までのおよそ50年間に、世界では2288回の核実験が行われた。これは、公表されたものとスウェーデンのストックホルム国際平和研究所が世界各地に設置した地震計で探知したものの合計である。探知されない実験も多数あると考えられている。

 世界の核汚染地域の調査にあたっているカナダ国際公衆衛生研究所長、ロザリ-・バ-テル博士は、「この半世紀の核実験と核事故による放射能で健康に何らかの障害を受けた人々、これから受けるであろう人々の数は、世界で最大2000万人にのぼる」と試算した。そして、原子力産業は好むと好まざるとに関わらず軍事と密接に関係しており、「核の平和利用はあり得ない」とも指摘している。

 また、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所長を務めたフランク・バーナビー博士は、「核エネルギーには核兵器がつきもので、双子のようなものということです。核の軍事利用と平和利用は切り離して考えることはできません。どちらか一方を持てば、必ずもう一方も持つことになるのです」と指摘している。日本の原子力平和利用も、疑って見る必要があるということになる。

 下記は、「蝕まれる星・地球 ひろがりゆく核汚染」豊崎博光著・平和博物館を創る会・編(平和のアトリエ)を中心として、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)から、核実験にかかわる部分で、記録しておきたいことを抜き書きしつつ、私なりに簡単にまとめたものである。(ただし、核実験の回数については、それぞれの著書の書かれた時期により多少の相違がある。その後インド、パキスタン、北朝鮮なども核実験を行っているが、それらは含んでいない)
---------------------------------
アメリカ

 アメリカは1945年から1992年までに、太平洋のマーシャル諸島、ジョンストン島、クリスマス島、(現キリバス共和国領)とアリューシャン列島、国内のカリフォルニア沖、ニューメキシコ州、アリゾナ州、コロラド州、ネバダ州などで、1278回の核実験をおこなったとされる。特にマーシャル諸島で行われた水爆「ブラボー」実験は、広島型原爆の1000倍以上の威力といわれ、第5福竜丸の乗組員のみならず周辺地域に多くの被爆被害者を出した。また、マーシャル諸島では、1946年から1958年までに、67回の実験が行われ、その爆発威力は広島型原発7000発分に相当するということである。

 また、アメリカはネバダ州の核実験場で、1951年から1958年までに、100回の大気圏内核実験を行い、1962年から1992年までに、936回の地下核実験を行った。政府の配布した小冊子「ネバダ実験場周辺地域の原爆実験の影響」の中には「核実験は危険ではない」書かれていたというが、風下地域の住民にはさまざまな異常が発生し、納得できない人々が1979年政府に対して核実験による被爆被害の損害賠償訴訟を起こしたという。そして、1990年「核被爆者補償法」が成立したのである。その結果、ネバダ州のみならず、ユタ州南部、アリゾナ州北西部の風下地域に住む住民で、白血病など、13種類のガン患者、およびそれらの死者に対して5万ドルを支払うということになったのである。しかしながら、被爆被害者支援市民グループ『市民の声』代表のジェネット・ゴードンさんによると、補償を受けられるのはほんのひとにぎりの被害者で、被爆被害者はおよそ17万人に達するという。また、風下地域のネバダ州やユタ州に住む多くの先住民の被害調査は行われておらず、補償の対象になっていないということである。

 セント・ジョージに住み土壌調査を行っているボブ・スミス氏は、
「核実験で放出された猛毒のプルトニウムなどは、土や地下水に入り込んでいます。私たち風下住民は、埃からプルトニウムを吸い込んだり、地下水、動植物を通して体内に取り込む恐れは充分にあります。核実験停止後のこのような重要な問題はまったく放置されています」
といっている。核実験は停止しても、問題は深刻なのだと思う。
 太平洋の島々でも、今なお、様々な被曝被害があるのではないかと思われる。

旧ソ連

 アメリカと核軍拡競争を展開した旧ソ連は、アメリカに4年遅れて1949年8月29日に最初の原爆実験を成功させた。以来1990年までに714回の核実験を行ったという。主な実験場は、カザフ高原にある面積約1万8000平方キロ(四国ほどの広さ)のセミパラチンスクで、ここで124回の大気圏内実験と343回の地下核実験が繰り返された。

 セミパラチンスク放射線医学研究所のポリス・グシェフ所長によると
「被爆者は実験場から半径550キロに住み、推定で50万人にのぼる。このうち2万人を調査した結果、食道ガンは通常の約7倍、肝臓ガンと肺ガンは約3倍高い。また、半径550キロ以内の新生児の死亡率は、通常の1.5倍から2倍に達している」(1990年11月14日付毎日新聞夕刊)とのことである。

 また、1990年のNSM(ネバダ・セミパラチンスク運動)の「セミパラチンスク実験場概況」によると、広島・長崎の被爆者のガン罹患率および死亡率よりも、セミパラチンスクの被爆者のガン罹患率および死亡率が高く、悪性腫瘍で2倍、肺ガンで3倍、食道ガンで15倍であるという。さらにセミパラチンスク地域の1975年から85年の10年間の白血病の死亡者は、それ以前の10年間と比べるとおよそ7倍であるという。さらに、消化器官の悪性腫瘍の死亡も急激な増加を示しており、被爆後住民の食道ガンの罹患率は7~8倍に増加しているという。調査の対象や方法、統計の取り方や比較の仕方の詳細はわからないが、ここにも核実験による被爆被害者が多数存在することは間違いない。

 旧ソ連で忘れてはならない核実験場のもう一つは、北極海に浮かぶノバヤ島とゼムリャ島の2つの島から成るノバヤゼムリャ島である。1955年に同島の近くで3回の実験を行った後、旧ソ連は、ノバヤゼムリャ島で、1957年9月から1990年10月までに、大気圏内核実験を90回、地下核実験を42回行った。

 核実験によって汚染された大陸側のツンドラ地帯には、北極トナカイを放牧して暮らすサーミ、ネネツ、コミなどの先住民がくらしているというが、アルハンゲリスク医療研究所の内科医シドロフ・イバノビッチ氏によると「トナカイの放牧で暮らす先住民ネネツの人々の体内に蓄積されたセシウム137は、他の地域の人に比べて、10倍から100倍も高く、食道ガンは他の北方地域の先住民に比べて約20倍多くみられるという。原因は、降り落ちた死の灰の中のセシウムがトナカイの餌のヤゲリと呼ばれるコケを汚染し、そのトナカイをネネツの人々は主食としているからである」という。

 そして、ノバヤゼムリャ島での核実験の死の灰は風に乗ってスカンジナビア半島にも流れ込んだという。1960年代初め、スカンジナビア半島地域の放射能レベルが急激に上がり、トナカイの食用が禁止されたことがあったとのことである。また、1987年8月2日、ノバヤゼムリャ島で地下核実験が行われた一週間後、スカンジナビア半島全域とくにスウェーデンで高いレベルのヨウ素131が検出され、スカンジナビア三国はソ連政府に核実験の停止を申し入れたこともあったという。

イギリス

 第3の核保有国といわれるイギリスは、1952年10月オーストラリア北西部のモンテ・ペロ島で最初の核実験を行って以来、91年までに43回の核実験を行った。大気圏内核実験が21回で、オーストラリアで12回、南太平洋のクリスマス島とモルデン島(現キリバス共和国領)で9回である。1963年から91年まではアメリカのネバダ実験場をかりて22回の地下核実験を行い、合わせて43回の核実験を行ったという。
 イギリスの大気圏内核実験はすべてオーストラリアのグレートビクトリア砂漠内に建設したイミュー実験場マラリンガ実験場および太平洋上の島で行われた。マラリンガ実験場では、核兵器開発のための工程を試す目的で、「マイナー・トライアル」と呼ばれる放射性物質を火薬で吹き飛ばす実験も、550回行われたという。その結果実験場跡地には、20キログラムものプルトニウムが残されているとのことである。
 イミューやマラリンガは、もともと先住民ヤラタ部族アボリジニの人々の土地である。実験場には、立ち入り禁止や放射能の危険を知らせる看板が設置されたというが、聖地をめぐる旅をするアボリジニには、あまり効果のない設置だったようである。イギリスも米ソ同様、原爆製造優先だったのであろう、どこに何人のアボリジニが住んでいるかや、その生活実態を把握することなく実験を行い、アボリジニの被爆被害の調査もなされていないということである。ただ、実験直後に「アボリジニの死体を見た」という証言や「グランド・ゼロ付近にいたアボリジニを他の場所に移動させた」との、実験に参加した兵士の証言があるだけである。また実験にともなう被爆兵士が、3万2000人を超えるということであり、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス本土のそれぞれで、損害賠償を求める訴訟が行われているという。

フランス

 フランスの核実験は、アルジェリアのサハラ砂漠で1960年2月に行われたのが最初である。そして、その年に大気圏内核実験を4回行い、翌年の1961年からは地下核実験13回、合わせて17回の核実験を行った。アルジェリアの独立後は、南太平洋のモルロア環礁ファンガタファ環礁を実験場として、1966年から74年までに大気圏内核実験を46回、74年から91年5月までに150回の地下核実験を行ったとされている。
 アルジェリアでの核実験によるフォールアウトが、フランスに達したこともあったというが詳細はわからない。

 さらに、フランスは1995年9月にも、ムルロア環礁で地下核実験を行ったと発表し、96年5月までに計8回の実験計画があることを明らかにした。

 サハラ砂漠での被爆被害の実態はほとんど分からないが、実験場近くに住む遊牧の民トアレグの人々が、実験による山崩れで大勢死んだというような話がある。またトアレグの女性たちには死産や流産が多く、ガンで亡くなる人も増えているという。

 南太平洋で実験が始まって以来、周辺のサモア、フィジー、クック島、ニュージーランドなどが放射能のモニターをはじめ、空気中や雨水の中から多量の放射のを検出しているという。特に東側に多く拡散しており、遙か遠くの南米ペルーでも検出されているという。しかし、フレンチポリネシアと呼ばれる地域の環境放射能の観測データはほとんど公表されておらず、地域住民の健康調査や疫学調査も行われていないとのことである。また、核実験場で仕事をしている現地人労働者の病気の診断や治療は、すべてフランス人が行っているため、彼らの被爆被害の実態は分からないのである。そして、「毎年250人ほどのポリネシア人労働者やフランス人作業員が放射能被爆によるとされる病気の治療のためにフランスへ送られている」というような話がある。

中国

 朝鮮戦争のときに、核兵器の使用も辞さないとアメリカに恫喝された中国は、その後核兵器開発に乗り出す。最初の原爆実験は、1964年10月新彊省ウイグル自治区のロプノール実験場で行われた。そして、フランスよりも1年以上早く水爆実験も行い、世界で4番目の水爆保有国となったのである。

 中国は1980年10月までに23回の大気圏内核爆発実験と4回の地下核実験、合わせて27回の実験をロプノール実験場で行った。中国が大気圏内核実験を行うと、数日後にはジェット気流に運ばれたフォールアウトが、日本にも降り注いだ。1981年以降には16回の地下核実験を行っている。したがって、合わせて43回の核実験を行ったことになる。しかし、周辺住民の被爆被害の実態は不明である。ただ、イギリスの経済誌フィナンシャル・タイムが、中国の核実験による被爆被害を「実験場ロプ・ノール周辺地域では肝臓ガン、肺ガン、皮膚ガンが増えており、このうち数人は北京に送られている。また、最近、実験場から北西1200キロ離れたウルムチ市を訪れた西側外交官は、人々から、少なくとも実験場の一つの地域では果物がドロドロに腐って落ちる現象が起きていると聞かされた」などと伝えているだけである。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や実験場、抜粋部分です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする