真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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霧社事件 日本軍の毒ガス実戦使用の開始

2011年02月18日 | 国際・政治
 第1次世界停戦でドイツ軍は大量の塩素ガスを使用した。およそ5000人の死者を出したという連合軍のイギリス・フランスは防毒マスクなどの装備を開発する一方で、同じように塩素ガスを毒ガス兵器として開発し使用した。それがエスカーレートし、2年あまり後にはドイツ軍が糜爛性猛毒ガスの「イペリット」を開発し使用した。1917年のことである。その1年あまり後には、イギリス・フランス両軍も防毒マスクでは防御困難なイペリットガスを開発し、実戦で使用している。その結果100万人をこえる死傷者を出したのである。第1次世界大戦終結後、これを教訓とし、化学兵器の使用を抑制しようと、1925年、戦争における毒ガスや生物兵器などの使用禁止を定めたジュネーブ議定書(正式名称「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」) が調印された。

 しかしながら、日本では1929年、瀬戸内海の大久野島で兵器製造所が建設され開所式が行われている。密かに戦時国際法違反の毒ガス製造が始まったのである。そして翌年、実験段階にあった毒ガスが台湾において実戦使用された。当時台湾はすでに日本の統治下にあったため、国際連盟に訴えがあったけれども「国内問題」として調査がなされることはなかったようである。「悪夢の遺産 毒ガス
戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)
からの抜粋である。
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               第1章 毒ガス戦の幕開け

(3)毒ガス戦の暗い闇

 毒ガス使用は実験

 Kさん
(霧社事件鎮圧に出動した台湾飛行第8連隊第1中隊整備班長)の話しを聞いてから、霧社を訪れてからずっと抱いてきた謎が解けたように思えた。それはタイヤル族との戦いで日本軍は圧倒的優位な立場にあったにもかかわらず、なぜ毒ガスを使ったのかという点である。ジャングル地帯でのゲリラ戦に不慣れだった日本軍は、地形的な問題で、化学的攻撃方法=毒ガスを使う必要があった。そのことは当時の記録でも裏付けられていた。
 だが、私は、それだけの理由ではないとも考えていた。霧社での毒ガス使用は実験ではなかったのか。タイヤル族をモルモット代わりにしたのではないか。取材を通じて、そうした疑惑がだんだん大きくなっていったのである。


 「毒ガスを使ったと知って驚きましたか」という問いかけに、「別に驚きませんよ。当然くらいに思っとりました」とKさん。当時、日本軍の化学兵器が実用段階にあったことは常識だった、とかれは語った。
「私が兵隊にいく前だから、昭和3年ですよね。その頃には瀬戸内海の大久野島で毒ガスを作っていることは、たいていの者が知っていましたよ。さっきもいいましたが、日本のスパイに対する警戒がどれくらい甘かったか、ということですね。昭和4年では、もう台湾の飛行8連隊の連隊被服庫のなかに、ガスマスクがありました。みんなで、これが毒ガスのマスクじゃいうて、被ってね、これからこう……(ガスマスクをかぶる動作)。ガスマスクがありましたよ」


 日本軍の毒ガス研究・開発の歴史を調べてみると、確かに1927(昭和2)年には、すでに87式防毒面が制式化(軍が正式に採用したことを意味する)されていた。また、その翌年の夏には、台湾北部の新竹で、糜爛性のイペリットを使った毒ガス演習も行われている。(厚生省引揚援護局資料室 『本邦化学兵器技術史年表』)

 霧社事件の鎮圧で、唐突に毒ガス兵器が登場したわけではなく、実戦で使う準備が整い、使用の機会を待ち構えていたとき、霧社事件が起こった。そんなふうに考えられるのである。
 当時の記録にもこうした見方を裏付ける意見が記されている。そのひとつが台湾総督府警務局がまとめた霧社事件についての報告書にある「某官吏」の言葉だ。


 「霧社事件に軍隊の出動を見たるが僻地なる蕃地のこととて気候等の変化あり、且つ給与等行き届かざる為め出動部隊に対しては誠に気の毒なり。然れ共軍隊に執りては平素新兵器を執り幾多の訓練を重ねられ演習のみにては実際の効を知ることは能はざりしも、今回は現実に其の効果を試練せらるることにて誠に生きたる好試練なり」(前掲書『現代史資料22台湾』666ページ)

 新兵器の訓練をいくら重ねても、演習では実際の効果を知ることはできないが、霧社では現実にその効果を試すことができ、生きた好試練だった、というわけである。
 同じ記録には、「元蕃務警視加来倉太」という人の、「軍隊は此の機会に於て新兵器の実際的試験為さんとするが主たる目的なるべし」(同前644ページ)という意見も収録されていた。

 実験であったとの視点から日本軍の記録を読み直せば、いろいろな事実が浮かび上がってくる。
 毒ガスとともに新兵器とされた焼夷弾について、「焼夷弾ハ霧社事件ノ為態々試作セラレタルモノニシテ、効果大ナルモノノ如ク候故、是非共使用セラレ度意見ニ候」(日誌。11月10日)という、参謀長からの前線への電報。その使用の指導と効果を調べるために、陸軍科学研究所の担当者が現地入りしたこと。また、毒ガス弾についても「瓦斯弾(青酸及催涙弾)ノ効果試験ヲ為ス予定ナリ」という電文もあった。私はそれまで糜爛性ガスの使用についてばかりに気を奪われ、これらの電文が何を意味するのかを、深く考えていなかった。

 霧社事件鎮圧の指導にあたった服部兵次郎台湾軍参謀陸軍歩兵大佐は、「各方面とも特殊の地形特殊の対手だけに珍しい研究や経験が出来た用(ママ)であります」と記していた。毒ガス弾や焼夷弾だけでなく、第1次ハーグ条約で禁止されていたダムダム弾も、試験的に使われた。(戴国煇『台湾霧社事件──研究と資料』553ペ-ジ)
 
 実験目的で使用されたなら、必ず、その効果についての報告書が存在するはずだ。
 私は春山さんにアドバイスを求めた。ところが意外な事実を知らされた。
 霧社事件の『陣中日誌』の内容には、「戦闘詳報」と「機密作戦日誌」という二つの記録の存在が明らかにされている。これらの史料には、毒ガス使用の実態や効果について詳しく記されている可能性が高い。にも関わらず、どんなに探しても発見できないというのだ。
 私の頭には台湾大学の許教授がいった「日本側の証拠」という言葉がチラついて離れなかった。ふたつの史料の行方がわからないことが不可解に思えたのだ。



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