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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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霧社事件後 密かに「保護蕃(投降してきた蜂起蕃)」を処刑

2011年02月07日 | 国際・政治
 霧社事件が、日本の台湾統治政策(特に山地原住民に対する理蕃政策)によって、あらゆる権限を与えられた現地駐在所の巡査の多くが、山地原住民の生活を無視し、人間扱いすることなく、様々な命令を発したために引き起こされたことは、山地原住民の訴えはもちろん、当時拓務省が派遣した生駒管理局長による調査報告書(政府極秘文書)によっても明らかである。にもかかわらず、理蕃警察と台湾軍は何ら法的手続きを経ることなく討伐隊を組織し、圧倒的な武力(毒ガスも使用)を用いて「敵蕃(蜂起した山地原住民)」の皆殺し討伐を敢行するとともに、敵蕃の首に賞金をかけて「味方蕃(蜂起しなかった山地原住民)」を利用し討伐に協力させた。
 さらに、味方蕃を嗾けて第二霧社事件を引き起こし、「敵蕃」幼老男女216人の命を奪ったことは、小島源治巡査の告白により明らかである。
 また、「ハヤクコウサンスルモノハコロサナイ」などと投降を呼びかけておきながら、投降してきた敵蕃壮丁を、密かに処刑した事実も明らかにされている。これらは、山地原住民の側からみれば、まさに悪魔の如き所業である。
 明治31年在台の官民有志が「蕃人」に関する研究のために「蕃情研究会」を設けたが、同組織を主催した持地氏は「生蕃は社会学上から見ると人間なれども国際法から見れば動物の如きなり」と語ったと言う。そうした歪んだ日本人の考え方によって、台湾の山地原住民が繰り返し残酷な仕打ちを受けたことを忘れてはならないと思う。 
 「回生録」の一部は訳者の解説・修正文にしたが、その他は「霧社緋桜の狂い咲き-虐殺事件生き残りの証言」ピホワリス(高 永清)著-加藤 実編訳(教文館)からそのまま抜粋した。(密かに処刑された山地原住民の人数が(30)と下段の「回生録」で異なっている理由不明)
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(30)日本官憲の仇憤感尚止まず
日本官憲は暗にタウツア社の者を扇動して 多数の 第二ム社事件を起こして 多数の無辜の人々を殺傷したにも不拘 尚 仇憤心止まず知らぬ振りをして昭和五年10月27日の兇行嫌疑者を調したパーラン社のローバオクルフが石川源六巡査部長に提供した密告 樺沢警部補の甘いい(ママ)誘導等に依って 次々と犯罪人の名簿が出来た 昭和6年10月15日 帰順式をやると詐って 川中島の成年男女みんな埔里まで連れて行き 婦女は2台のバスに乗せて埔里の街中をアチコチ走らせて観光と言った
成年男子は警察課の集会場に入れて坐はらせた 警戒の網が周囲にはられた すなわち着剣に実弾を入れ込んだ巡査が周囲をげん重に囲んだ 脱走を未然に防止するためであったと思ふ


先ず三輪警務部長が一場の訓示があった 彼曰く 「お前達は敵だった(反乱人)が 今日帰順式を行ふ 今日からは 又善良な大日本帝国国民となれる 只今名前を呼ぶから呼ばれた人は立て」と指示した 私達は静聴して坐ってゐた
次々と32人(如後頁)が呼ばれた 一人呼ぶ毎に2人の巡査が両側に依って腕をつかまへて留置場(拘留所)に入れた 同じ日同じ時間 にパーラン社でも家長会と青年会を併せて開会すると云ってパーラン社 カッツク社 タナカン社の成年男子をム社分室前の集会場に呼んだ ところが何もない分室主任高井九平の一場の訓示があった後 之又次々と名前を呼んで 16人留置場に入れた(後頁列名)


埔里でもム社でも入れられた人々の衣服は直ぐ脱いで 在場の代表人に渡して持たして帰へした 官吏曰く「留置された者はまだ少し用件がある 用件終り次第すぐ環へす」と 併し二度と此の世の人となって来なかった。只ピホサッポ一人だけ 埔里の死刑場からすきを見て丸はだかで故郷まで逃げて帰へったが 逮捕すべく官憲は待ってゐたし 又民にも捕まえて出すことを厳命してゐたので、家まで帰へることが出来ず 山の中で1ヶ月くらい生活した後 糧食拾いのためロルツオケダンと云ふ水田で糧食を探してゐるのを万大の人に見付けられて 逃げようとしたところを銃殺された
 
尚同じ日に(10月15日)万大のサッポカハをも逮捕の名簿に入れてゐたのを 万大駐在所勤務の日本人友人(サッポカハは万大駐在所勤務の台中州警手であった)から山へ行くことをすすめられて 不在にしてゐたために逮捕することが出来ず 後日逮捕する予定のところ彼サッポは其のまま事情を知って 永久に山から出て来なかった 官憲の指令に依って 捕へて役所(ム社分室)に差出すやうに探したところが万大蕃は既に川中島の帰順式 パーラン社 カッツク社 タカナン社の家長会 青年会のニュースを聞いていたので 反対に山へ行ってサッポカハの糧食をだまって提供して行った数ヶ月后 いよいよ見込みがないと知った彼サッポカハの親戚は 山の中の自殺をススメた サッポは 19年式修正村田銃の引金に足指をかけて引弾自殺をとげた
万大蕃人は自殺死体の発見を政府に報告して 事の成行きを約束した
 

(31)サッポカハ其の人
サッポカハは昭和5年10月27日 政府(駐在所)の傭(ママ)人であり乍ら 真先に運動場に来て歓迎門の下で州嘱託菅野政衛の首を切て頭を地上に落とした人であり 帰へて知らぬふりでまじめに勤務してゐた 其の中に 同僚日人の中に友誼に深い人に出会って 昭和6年10月15日に逮捕されることを1日前に知らされたので 15日山へ待避して不在をした。友情に深い同僚日人も知らぬふりをして 上官に不在と報告したと云ふ


(32)逮捕された人々は何故一人も帰へって来ないム社で逮捕した16人は 夜になって闇の中に埔里の警察課留置場に押送された法律裁判もないで殺害された 食べさせる御飯を倹約したのか 或は仇の意味で殺したのか はっきりしない 後で私は乙種巡査1年をやったその机(機)会に 川中島駐在所の須知簿と云ふ最高机(機)密の帳簿を見ることが出来て 私は何げなしに読んで見た そうしたら中の記載は 川中島の歴史とか頭目 勢力者 不良青壮年等人の人となりや色々と重要なことが書いてあった
中でも 埔里で逮捕された32人のことも書いてあった 皆 同じくない日に腸炎とかマラリア 肺炎で何時獄死したと書いてあったが  事実はそうではない 埔里の梅仔脚と言ふ処に 日本人の共同墓地があった 其の付近に水田を持ってゐた平地人のお話に聞くと 約1週間通行止めの命令があった と


異常なことだから 夜になると黙って其の付近をうろついて歩いた 其の時 墓地の中で オ母さんと叫ぶ異様な泣き声もきこえた 棒で人が人を打ってゐる音もきこえたから 其のまましずかに戻ったと云ふ 
それは日本人が 10月27日兇行の疑いがあると云ふ恨みで 日本刀で音が出ないように行動に付せられたものであると考へられるそれをうち(ママ)付ける本当の証拠が次の様であった。
須知簿の記載は皆儘造(思いの儘の捏造)であり騙しにしかすぎない


(32)尊敬する井上伊之助公医
当時眉原に井上伊之助と云ふ公医が居た 少坡趾(ビッコ)の人であったとおぼいてゐる 恐らく子供の時小児麻痺に患ったのかも知らない
 後にマレッパやアチコチのヘンピな処に勤務して 困ってゐる病人を助けた 私の妻オビンタダオがタッキスナウイの遺児アウイダッキスを産む時も 井上伊之助公医が眉原から川中島へ急ぎ足で来て 接生助産(取り上げ)をして下さったと云ふてゐる 私はまだタウツアの小島源治宅に寄食してゐたから分からない


 或る日 私は台湾の図書館で書籍をあさって読んでゐたら 突然 井上伊之助の故事(お話)が出てゐた 私は詳しく読んだ 只今 脳溢血のために頭も悪くなり おぼへも悪くなったので おぼへてゐない 記事に依れば 井上伊之助公医の父は 昔に巡査(ママ)として台湾の蕃人討伐に従事してゐるうちに 蕃人から殺されたと 彼は子供でお母さんと日本に置かれてゐた 此のニュースを耳にした彼は 台湾に人を殺すような野蕃な行為をする人がゐるとは びっくりした。

 是非共は 是正しないといかないと思って 自らキリスト教の信者になって台湾に渡り 伝道の力で野蛮人を開明にみちびきたいと思った ところが官憲は 神教(神道)以外の伝道を許可しなかった 思案に困った彼は 医術を習得して病気をなほす一方 うらで伝道したいと考へた 自ら山の中を撰んだが 矢張り官憲は許さない 仕方なく まじめに病気をなほす意味で山に勤務した 私が川中島に移住し時や 10月15日は まだ眉原に務めてゐた
 15日以后 何日かしてから 彼は警察課に出頭を課長から電話で会議に呼び出された 参加の結果は 皆警察のお偉いお方ばかりであった 会議を主催してゐる偉い人が 井上公医に向かって口を開いた「留置してゐる蕃人30余人を殺したいが 手前に人の薬はないか」と 彼はビックリして返事した「私は人を助ける為に台湾に来たのだ 殺す為に来たのではない」と言って 即坐に退席したと その功労と良心が戦後数年になってから やうやく追認されて 老死后勲五等を追賞されたと書いてあった 
之から追察すると 毒殺の計画は成功しないで 日本刀の首切りで殺したものと思ふ 何ちらが野蕃か私には判らない 大東亜戦争で川中島の青年も多数徴用されて 南方綫(線)で戦死した 人的資源に困った時 自分の考へることだけで自由に自分のよいようにしてゐる日本人 今尚 戦争に川中島の青年を徴用した 全く先知後(覚)に欠けてゐる(先見の明もなければ後で悔いて覚ることもできない)と見てよい 

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回生録  第壱冊・第二冊

◎抗日戦争は如何様の状況で進行し、何の様に結束したか?

5 日憲
(日本官憲の略?)は復仇に対して止まるところをしらない、第二次事件
  (第二霧社事件)
製造して又吾々同胞216人の貴い生命を奪った、川中島(清
  流)へ移住させて後内密的に10月27日に日人(日本人)を殺害した人々を調
  べ上げて翌6年(民国20年)10月15日帰順式を理由に吾々を川中島より埔里
  へ連れて行き一場の訓示を終へて又次の人々を逮捕して永遠に帰へさなかっ
  た。


 ・・・(32人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

  霧社に於ては同日を利用してパーラン社頭目ワリスブニに対して家長会及青
  年会を召開すべく属下の壮丁を全部霧社分室に帯同すべく厳命を下した。ワリ
  スブニは何の疑いもなく命に従ってパーラン社(トンタナ チェッカー フーナツ)
  タナカン社、カアツック社壮丁を午前9時霧社分室に連れて行った、計らずも此
  の事は日警(日本警察?)の陥阱でった。会議当場以上の18名は逐一検呼の
  下に逮捕された、後日18名は埔里に送られて処刑されたと漢民族の口述より
  社会に流布された、処刑の場所は現在の電台中継所(梅仔脚共同墓地)と専
  らの噂である。
  日警方面に於ては、判刑の上拘留所で病死したと言ってゐるが当時拘留所犯
  粮食供給人の話に依ると、まさに虚構の詭弁である。


 ・・・(同様に18人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。

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