真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「竹島の帰属意識」梶村秀樹(竹島領有権問題20)

2010年04月07日 | 国際・政治
 日露戦争最中の1905年(明治38年)1月28日、海軍大臣など11名参加の閣議で竹島の領土編入が決定された。その際、「…… 無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク、……」と、無主地の先占取得を根拠とした。しかし、その時すでに韓国は鬱陵島の空島政策を廃し、1900年10月25日に勅令第41号を発して、その第2条で、「郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」と規定していた。韓国はこの石島を現竹島=独島であると主張している。だとすれば、日本の無主地先占取得による竹島の島根県編入は成立しない。また、「実効的経営」の面でも、竹島=独島に関しては、ほとんどその事実がないとのことである。「梶村秀樹 著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)からの抜粋である。
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                 Ⅳ 日本人と朝鮮人

 竹島=独島の帰属についての意識

 以上のように、前近代における竹島独島の「実効的経営」の実態は、日朝両国とも、それを継続的なものと主張するほどのものではなかった。その利用の程度は時期によってむらがあり、17世紀を中心とする時期には確かに日本側の方が高かったとみられるが、それは「竹島経営」と関連する一時的な性格のことがらであった。この絶海中の無人島は、基本的には、アシカの天国たるにとどまり続けていたのである。しかし、その存在自体は、少なくとも17世紀からは、日朝双方に明確に認知されていた。では、当時の人々はこの無人島が両国のいずれに帰属すると意識していたのか?


 まず、朝鮮側には、安龍福の件についての『粛宗実録』(スクジョンシルロク)、の記述のように明白に朝鮮に属するというものがあり、「いうまでもなく鬱陵島と一体」とみるのが通念であった。少なくとも積極的に朝鮮に属することを否定する文献は全くない。一方、日本側には、日本に属するとみなす文献と、朝鮮に属する、ないし少なくとも日本固有の領土とは異なるとする文献とが並存するが、前者はむしろ少なく断片的であり、後者になかり近いところに通念があったとみられる。

 例えば、北园通菴編『竹島図説』(18世紀なかばのもの)における「隠岐国松島」という表現は確かに前者といえよう。しかし、日本側では前者の例証としている文献の中には、すなおにはそう読めないものがある。前掲『隠州視聴合記』の表現は韓国側の指摘のように、隠州を日本の境域の限界とのべたものと解すべきであろう。また、矢田高当『長生竹島記』(1801年)の、「松島(いまの竹島=独島)」沖を「本朝西海のはて」とのべた記述は、「松島」を日本領とみていた証拠にはならず、逆に日本領でないとみていた証拠である。領海観念のない当時としては、もし「松島」が日本領なら、「本朝西海のはて」は松島のてまえではなくて、鬱陵島のてまえでなければならない。また17世紀中、大谷・村川両家がしばしば、「松島」やさらに「竹島(鬱陵島)」をまで、幕府から「拝領」したと表現している事実があるが、幕府側は、両家に両島への「渡海免許」を与えたにすぎず、両島を両家に所領として与えた事実はなく、両家のあつかましい拡大解釈にすぎない。ないしは、正確には「渡海免許状の拝領」というべきことの省略語とみるべきであろう。逆に、「渡海」という文言自体、国外への渡航を意味する(内国の離島への渡航には別に「渡海免許状」はいらない)から、「松島」への「渡海」を免許したこと自体、幕府が日本領ではないとみなしていたことを意味する。なお、特定の限定された国外渡航の免許はほかにも例があるとおり、決して全般的鎖国体制と矛盾することではない。「拝領」という字句の表面的な印象を利用して「固有領土」キャンペインをしてきたジャーナリズムは、日本国民の認識を誤らせている。大谷・村川両家は、「松島」以前に「竹島(鬱陵島)」を「拝領」したと称しているのである。

 このような混乱した日本側の認識状況、竹島=独島を日本領とみない通念は、明治初年まで続いた。明治初年の海外渡航ブームの中で、再び、物産豊富な鬱陵島への渡航・開拓許可を政府に願い出る者が、1876~78年の間に続出した。明治政府はこれらを一切却下したのだが、前述したこの時期の島名の混乱の中で、ある者は鬱陵島を「竹島」と呼び、ある者は「松島」と呼び、また鬱陵島と別の島のように見せかけた申請もあったりしたので、関連して「松島(いまの竹島=独島)のことも論議せざるをえなくなった。この時の外務省内の論議では、ある者は、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ」といい(公信局長田辺太一の文書)、ある者は「ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ」(記録局長渡辺洪基。ただしそんなことはない)といい、大勢は「版図ノ論今其実ヲ視ズ」(前記田辺文書)つまりははっきり分からないから、まず調査しなければならないという結論であった。「実効的経営」が江戸時代以来一貫してきたのなら、中央集権的な明治政府の外務省の見解がこんなにあやふやであるはずがない。明治初年には、「いうまでもなく竹島=独島は日本の固有領土」というような観念はまだなかったのである。

 ところで、明治政府のこうした公式態度にもかかわらず、改良された造船技術によって朝鮮人より一足先に船足をのばした日本人は、明治10年代頃から再び非合法に鬱陵島にわたりはじめた。1881年鬱陵島捜討官李奎遠の報告によってこのことを知った朝鮮政府は、直ちに日本政府に抗議するとともに、従来の空島政策を一転させ、朝鮮本土から住民を移住させて(83年)積極的な経営政策に乗り出した。日本政府はこの抗議に対して陳謝するとともに、1883年には鬱陵島在留邦人254名を全員引き揚げさせる措置をとった。以後、明治20~30年代にかけて公式には鬱陵島には日本人は一人もいないことになっていたが、実際にはこっそりと渡航する者は絶無ではなかったようである。しかし、それは10年代に比べれば小規模なものであった。明治10から20年代を通じて、渡航の主目的はやはり伐木が第1で、アワビ・テングサを目的とする漁民も若干いたが、アシカとりはいなかった。この間、いまの竹島=独島について、鬱陵島への往復の途中で立ち寄った例は1,2あるが、それ自体を目的とする渡航は依然絶無であったことが確認される。

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 要するに、詳細不明でさほど系統的であったかは疑問としても、1881年以降、朝鮮人民の竹島=独島への認識と出漁が、ある程度進んでいた可能性を全く否定することはできない。そしてそうした実態を反映するものとして、1900年10月25日付韓国政府勅令41号第2条の「鬱陵(郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵島全島と竹島・石島を管轄とす」という文言があると考えうる。この法文中の「竹島」は鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、「石島」はもう一つの小属島である観音島をさすとは地形からしても沿革からしても考え難く、いまの竹島=独島をさすと解するのが最も自然であろう。この史料は、従来あまり注目されてこなかったが、「1905年以前に朝鮮政府が何ら竹島=独島に施政を行ったことがないから、島根県編入当時無主地の状態にあった」とする日本側の見解にたいする反証として重要である。

   
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