真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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竹島の「実効的経営」梶村秀樹(竹島領有権問題19)

2010年04月06日 | 国際・政治
 現在、日本において「竹島」と呼ばれている島は、かつては韓国の鬱陵島のことであった。そして、今日の「竹島」は、その時「松島」と呼ばれていた。ところが、鬱陵島にその「松島」という名をあてたシーボルトの日本図が逆輸入されたために、名称の混乱が起こり、島名の入れ替わり問題が発生したのである。そのことに関しては、韓国・朝鮮の研究者も日本の研究者も同じように理解しており、異論はないようである。しかしながら、17世紀の竹島(鬱陵島)渡航の史実をもって、あたかも、日本が現在の竹島を「実効的経営」してきたかのごとく主張する論者があることを「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)は指摘している。17世紀の「竹島」の実効的経営は、現在の竹島のそれではないのである。「推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのはフェアな態度ではない。」というわけである。下記は、その「実効的経営」に関わる項の抜粋である。
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                 Ⅳ 日本人と朝鮮人

 17世紀の実効的経営

 大谷・村川家のいわゆる「竹島経営」は、1617年たまたま村川の商船が遭難して鬱陵島に漂着し、その物産の豊富なのに着眼して幕府に渡航許可を申請したのが発端で、朝鮮側の空島政策のおかげで、この17世紀の80年間だけ続いた。それは具体的には、春に数隻数十人の船団を組織して鬱陵島に渡り、1~2ヶ月採取活動を行って、順風を待って帰って来るということであるが、当時の技術からしてやや冒険的な事業であり、渡海免許当初の数十年間は、毎年恒常的に渡航していたかどうか疑問である。しかし1650年代から約40年間はかなりしばしば往来していたと認められよう。採取活動の主眼は、桐・センダンその他の価値ある銘木におかれていたようで、付随的にアワビとアシカの油などの順序であったと思われる。後者だけを目標とするには渡航はあまりにも冒険的すぎた。こうした一時的な「経営」の事実に「先祖が血と汗を流して築いた」というような形容詞をつけて誤ったイメージを与えることは犯罪的でさえある。それなら歴代の朝鮮人民が鬱陵島で流した血と汗はどうなるのか?そもそもこの時期の「竹島経営」の対象はもっぱら鬱陵島であって決していまの竹島=独島ではなかった。だから「竹島経営」の事実を論拠に日本固有領土論をごり押ししていけば、「それなら日本がまず領有を主張すべきは竹島=独島よりも鬱陵島である。そのかわり朝鮮は対馬を経営した事実があるから対馬は朝鮮領だ」というような八方破れの反論が出ても不思議はないのである。


 こうした「竹島経営」と全く別途に、「松島(いまの竹島=独島)だけを対象とする船団が組織され「経営」が行われたと考えるのは無理がある。いかなる理由からか1661年に大谷・村川両家が、「竹島」とは別個に「松島渡海」の免許を得ている事実はあるようだが、それ以前もそれ以後も「松島」だけのために恒常的に出漁したとは思えない。アワビは、隠岐でも鬱陵島でもいくらも採れたろうし、アシカの油はまださほどの商品価値をもつものではなかった。「松島」には将軍様がよだれをたらしてほしがるような銘木もなかった。川上前掲書の提示する諸史料を総合すれば、当時の日本人の「松島」利用状況は次のごとくであろう。まず第1に、鬱陵島への航行の目標としては必ず利用した。しかし常時は沖合を通り過ぎるだけで、必ず寄港するということはなかった。はしけならともかく、大きな帆船が安全に接岸できるような地形ではなかったし、わざわざ上陸するメリットも、別になかったからである。だが、時には、風待ちの都合、またゆきがけの駄賃的な意味で小船をおろして上陸し、多少のアワビとアシカを採取することもあった。日本側が、直接にはこの程度のそれも一時的な事実を物語る史料をもとに、推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのは、フェアな態度ではない。

 ところで、こうした大谷・村川両家の朝鮮政府の空島政策の間隙をついた「竹島経営」は、ついに1693年にいたり、やはり集団的に慶尚道方面から鬱陵島に出漁していた朝鮮漁民安龍福らとの大規模な争闘事件をひきおこした。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も竹島=独島も朝鮮領土であることを主張して日本人を追い払い、93年と96年の2回にわたって追撃して日本に渡り(1回目について日本側の記録は人質として連行したと称する)、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受けた。川上前掲書などが、安龍福の豪胆な行動をつとめて卑小に描き出そうとしているのを読むと、気恥ずかしい思いがする。ともかくかくして、問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、紆余曲折の後、1696年にいたり江戸幕府は「竹島(鬱陵島)」が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとった。

 この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島=独島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。このため、「竹島」と「松島」を一体とみる通念からして、当然同様に禁じたとみる韓国・朝鮮側と、明文で禁じていないのは渡航を許していたということだとする日本側の主張が水掛け論になっている。だが、江戸幕府が「竹島」と「松島」の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。ただ一つ、1836年の石州浜田の回船問屋会津屋八右衛門の「竹島密貿易事件」の判決文に「松島へ渡海の名目をもって竹島にわたり」という浜田藩家老の言が引用されているものが検討に値するくらいだが、それ自体当時の少数説だし、この事件は、「松島」渡航の可否自体に判断をくだす性質のものではなかった。事実問題として、「竹島(鬱陵
島)」渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていたことは確かである。「松島」単独渡航を積極的に証明しうる史料は一つもない。


 この間朝鮮側でも空島政策が続いており、鬱陵島はともかく、竹島=独島の「実効的経営」がどの程度進行したかは定かでない。ただ安龍福のような行動半径をもつ漁民があとを断つはずはないから、民間の知見はいくらか拡がったかもしれない。それを反映してか、『正宗実録』1796年の項に、突然可支島の名があらわれる。この島名は明らかに可支魚(カジェ=アシカ)に由来するもので、韓国・朝鮮側では、いまの竹島=独島をさすとしているのに対し、川上前掲書は鬱陵島と竹島=独島の間を3日間で往復するのは不可能として、鬱陵島東北部とみなしているが、順風に乗れば3日間の往復も必ずしも不可能といえないし、記述と照合すれば川上の比定に合うような小属島は見当たらない。「実効的経営」の証明にはならないが、可支島を竹島=独島とみなすこと自体はそう無理ではないと思われる。

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