真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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国家による棄兵・棄民 シベリア抑留

2009年03月08日 | 国際・政治
  日本が「満鮮に残留する邦人を国家賠償としてソ連に差し出した」かどうかは、「対ソ和平交渉の要綱(案)」第3項や第4項を読めばおよそ見当がつく(「シベリア抑留対ソ和平交渉の真実は?」で抜粋済み)。また、交渉で作成されたという「7ヵ条の協定」の第7条が「略」とされ伏せられていることは、逆にそれが真実であることを物語っていると考えられる。さらに、そうした労力提供というかたちの国家賠償が、参謀本部の方針であったことが、「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」や朝枝繁春の書き残した『回想』によって明らかである。「検証・昭和史の焦点」保阪正康(文春文庫)よりの抜粋である。
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        第17話 大本営参謀は在満邦人をソ連に売ったのか

・・・
 平成5年(1993)8月13日の全国紙、地方紙に〔モスクワ12日共同〕のクレジット入りである記事が掲載された。このことについては私も拙著で一部触れているのだが、要はロシアの軍関係の公文書館で大本営参謀、朝枝繁春名による公文書が発見されたという内容だった。この公文書は正確には「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」といわれ、同記事によれば、関東軍の総司令部にのこっていた報告書がソ連軍にわたったものと推測される、と記されている。

 ここまで読むとすぐにあることが思い浮かぶ。昭和20年8月9日未明に満州国に対して軍事行動を起こした極東ソ連軍は、すぐに新京(現・長春)の関東軍総司令部に入り、制圧した。その折、焼却する暇もなかったため残された関東軍の極秘文書などを多数、一説では貨車28両でモスクワに運んだといわれている。

 当時(1993=平成5年)この話はロシア側の日本研究者から日本のジャーナリストに伝えられていて、私も貨車28両と聞いて驚いたものだった。防衛庁防衛研修所戦史室(現防衛省防衛研究所戦史部)編で発行されている戦史叢書に書かれた、終戦時の関東軍の実相のくだりが、あれほどページ数が短かったことにも、妙に納得したほどだった。
 共同通信モスクワ支局が入手したこの公文書も押収された中の一つだろうということは、ソ連崩壊後、対日関係文書を追いかけている者には容易に想像できた。
 この
「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」は、その後私もコピーを入手したので、それに基づいて以下記述する。

 この文書は4部構成になっているが、「今後ノ処置」という項があり、その「一般方針」の中に次のように書いてある。きわめて重大な事実である。
 「内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於ケル在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』連側に依頼スルヲ可トス」
 そしてその「方法」の第2項には、
 「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」
 これは何を意味するのか。対ソ戦の停戦後は軍人、軍属、民間人は「ソ連の庇護下に」そのまま満州や朝鮮に土着してもいい、日本国家を離れてもいい、と大本営参謀の朝枝繁春の名で出されていたのである。のちに、この文書こそがシベリア抑留のソ連側の根拠になったと、投じの全国抑留者補償協議会(全抑協)の会長斎藤六郎は主張していた。

 しかし全国紙や地方紙にも掲載されたこの記事のなかで、朝枝は「この文書はわたしの筆跡でなく、偽造されたものだ」と主張し、ただし8月9日に大本営から関東軍にこれと似た内容の電報を打電したことは認めている。同時に「私の独断で起草、打電した」とも発言し、「大本営の意向ではない」と釈明している。
 この「朝枝文書」が国家意志なのか、それとも一参謀の案に過ぎないのか、斎藤と朝枝の間では、解釈が対立した。斎藤によれば、朝枝文書のほかにも、「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見並ニ基礎資料」と題して、昭和20年8月29日に参謀総長の梅津美治郎の名で出された文書(これは公表されていない)があり、これによると朝枝の案は追認されて関東軍総司令部(すでにソ連の手中にあったが)に伝達されたという。斎藤は一兵士としてシベリアに抑留されたことが納得できず、こうした記録や文書にあたっていた。そのため、当時の大本営参謀が実際にどのような戦略をもって「満鮮への土着」を企図していたかについては、それほど深い関心は持っていなかったようだ。

・・・

 ……。そして朝枝は8月10日から関東軍への出張を申請し、参謀総長以下の了解をもらったとある。(朝枝の書き残した『回想』による)自ら起案した作戦案を示しての申請だったという。
 この作戦案は参謀総長の梅津美治郎が関東軍総司令官の山田乙三らに宛てた文書(軍事機密 大陸命第1374号で、8項目から成っている。その第8項には、「細部に関しては参謀総長をして指示せしむ」となっているのだが、この指示文書大陸指は防衛庁戦史室には保存されていない。朝枝は「自分がまとめた細部に関しての指示(文書は残っていない。つまりソ連に押収されたと思われる)を記憶で辿ると、以下のように」なっていると書き残している。この指示は「軍事機密」であったという。
 朝枝の『回想』からその部分を引用しておく。
「大陸命1374号に基づき、関東軍総司令官に対し、その作戦遂行上指示するところ左の如し。


(1)関東軍総司令官は、米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、成るべくソ連をして、速やかに朝鮮海峡まで進出せしむる如く、作戦を指導すべし(朝枝註・当時ストックホルム駐在武官小野寺少将がヨーロッパにおいて入手しておった、米ソ間のヤルタ協定の情報は作戦課迄は伝わっておらなかった。従って、米ソ間で、朝鮮半島に於いては、38度線の縄張り取り決めが存在しておったことは、全く未知であった。もしかかる情報が作戦課迄到達しておったならば、このような大陸指は考えられなかったものと信ずるが)

(2)戦後従来の、帝国の復興再建を考慮して関東軍総司令官は、成るべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを図るべし。之が為、残置する軍・民間人の国籍は、如何様にも変更するも可なり」
 これが作戦課長、作戦部長、参謀次長、参謀総長の諒解を得て、関東軍総司令官に伝えられたのである。ソ連軍を朝鮮半島まで誘導してアメリカとの対立状況をつくれ、大陸(いうまでもないが中国大陸)に日本軍将兵を温存せよ、と大本営は伝えていたわけである。冒頭のモスクワで発見された公文書はまさに「事実」であり、国家意志であったのだ。


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