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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「百人斬り競争」 東京日日新聞 第一報~第四報の記事

2015年08月03日 | 国際・政治

 「百人斬り競争」の論争については、すでに裁判で決着がついているが、いまだに「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」などという主張が続けられている。 

 当時、南京からこの記事を送った浅海記者は、「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)の中で、
連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのそばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。
 当時の従軍記者には、「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍記者だったからです。…”
と書いている。ありもしない「百人斬り競争」の創作記事を、実在の少尉の名前を使って4回にわたって送ることが、当時の従軍記者に可能だったとは思えない。

 にもかかわらず、2003年4月28日、すでに南京で処刑されている野田・向井両元少尉の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一氏らを提訴した。
 原告の一人、田所千恵子氏(向井元少尉の次女)は、東京地裁の第一回口頭弁論(2003年7月7日)で
私たち遺族は「百人斬り競争」の記事がもとで 長年にわたって苦しんできました。父たちの汚名を晴らし、私たち遺族が長年の精神的苦痛から解放されることを願っています。
と訴えたという。
 また第五回口頭弁論(2004年4月19日)で、原告の1人エミコ=クーパー氏(向井元少尉の長女)が、
父がなぜ見も知らぬ本多氏に、死語もムチ打たれ続けなければならないのでしょうか? 本当の『日本の恥』は、日本人でありながら自らの国や同国人たちの悪口を、真偽を問わず自らの想像で海外にまで撒き散らす者たちのことでしょう
と意見陳述をし、野田マサ氏(野田元少尉の妹)も
「優しく勇気があって人気者だった兄が無実の罪で処刑され、今また虐殺犯として歴史に残ろうとしていることを、私は絶対に許すことができません。兄のためにも、裁判を起こして、真実を明らかにしたい。
と訴えたという。そうした遺族の気持ちはわからないではないが、やはり事実を客観的に見つめることが何より大事だと思う。どんなに辛くても、村山談話の

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
ということは、日本国民すべてが共有しなければならない事実だと思う。そこから出発しないと、先の戦争が再び「聖戦」になってしまうのではないかと恐れる。

  「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と安倍首相は言った。そして、村山談話を継承すると言いながら、先の戦争における日本の「国策の誤り」は認めようとしない。GHQの逆コースといわれる政策でよみがえったかつての戦争指導層の考え方を、安倍首相は、基本的な部分で受け継いでいるのではないかと疑わざるを得ない。だから、同じような考え方をする稲田朋美議員(当時弁護士)が、この裁判に関わったのではないかと思う。

 『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』本多勝一・星徹・渡辺春己(金曜日)に「百人斬り競争」を報じた「東京日日新聞」の第一報から第四報が掲載されている。下記である。

 両少尉は、ともに捕虜の虐殺で話題の多い上海派遣軍、「第16師団(師団長中島今朝吾中将)」に属していた。そして、野田少尉は第19旅団(旅団長草場辰巳少将)・歩兵第9連隊(連隊長片桐護郎大佐)・第3大隊(大隊長冨山武雄少佐)の「副官」であり、向井少尉は同第3大隊「歩兵砲小隊」の「小隊長」である。連日白兵戦の先頭に立ち、日本刀を振り回すような立場ではなかった。したがって、野田少尉自身が地元の小学校の講演で「白兵戦で斬ったのは4、5人しかいない…」「並ばせておいて片っぱしから斬る…」と語ったというが、それが真実である思う。それは「武器を持たない無抵抗の敗残兵や投降兵、一般中国人の殺害」であり、国際法違反の犯罪である。そして、そうした虐殺があちこちで行われたことは、多くの証言で明らかになっているのである。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第一報>「東京日日新聞」(1937年11月30日付)
百人斬り競争! 両少尉、早くも80人 
               
〔常州にて29日浅海、光本、安田特派員発〕常熱、無錫間の40キロを6日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた3日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に断つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた2名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県出身=、一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身=。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
 
 「無錫進発後M少尉は鉄道線路26、7キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿って前進することになり、一旦2人は別れ、出発翌朝野田少尉は無錫を距る8キロの無名で敵トーチカに突進し4名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いたM少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を斬り伏せた」

 その後野田少尉は横林鎮で9名、威関鎮で6名、29日常州駅で6名、合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近4名斬り、記者が駅に行った時この2人が駅頭で会見している光景にぶつかった。
 向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の敗けだ、俺の刀は56人斬つて刃こぼれがたった一つしかないぞ。
 野田N少尉 僕等は2人とも逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

※浅海(一男)=「東日」記者「、」光本=「大毎」京都支社記者(50年頃病没)安田=電信技師。
この取材場所(常州駅頭)で佐藤カメラマンが両少尉を撮影した写真は第四報記事と共に掲載された。

資料2 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第二報>「東京日日新聞」(同12月4日付)
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過


[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに「百人斬り競争」を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬(シノギ)を削る大接戦となつた。

  常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で、壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

  中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負うなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

  野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰うよ。   

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第三報>「東京日日新聞」(同12月6日付)
”百人斬り” 大接戦 89-78 勇壮! 向井、野田両少尉

〔句容にて浅海、光本両特派員発〕南京をめざす「百人斬り競争」の2青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉89名、野田少尉は78名といふ接戦となった。

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第四報>「東京日日新聞」(同12月13日付)
百人斬り”超記録”向井106─105野田 両少尉さらに延長戦


〔紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発〕南京入りまで”百人斬り競争”という珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は”アハハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬つたかこれは不問、結局「じゃドロンゲームと致そう。だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽(タチマチ)ち意見一致して、11日からいよいよ百五十人斬が始まつた。11日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬りドロンゲーム」の顛末を語つたのち、
 「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて、弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになつていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ」
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

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2 コメント

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感情論 (m)
2019-05-24 18:12:42
>”わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。”
ということは、日本国民すべてが共有しなければならない事実だと思う。そこから出発しないと、先の戦争が再び「聖戦」になってしまうのではないかと恐れる。


日本が帝国主義を採用した時の歴史的背景、白人による人種差別・植民地支配、などの状況が分かっていれば、そのような文章を書く気にはならないと思いますがね〜。
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採用? (syasya61)
2019-05-24 22:08:16
m様


>”わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。”
ということは、日本国民すべてが共有しなければならない事実だと思う。そこから出発しないと、先の戦争が再び「聖戦」になってしまうのではないかと恐れる。

あなたは、日本の戦争が「聖戦」であったと考えておられるのですか。


>日本が帝国主義を採用した時? 

これは、いつのことですか? 日本はどこで、誰が、どのようにして、帝国主義を採用したというのですか?


白人による人種差別・植民地支配などがあったので、日本も同じようにして、どこが悪いのだ? ということなんですか。日本の戦争を、被害を受けた側からふり返ってみるということもしないと、真実は見えないのに…。
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