真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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井上馨 尾去沢鉱山事件 

2018年08月28日 | 国際・政治

 古代中国に、戦略が成功する三条件として、「天時不如地利。地利不如人和(天ノ時ハ地ノ利ニ如カズ 地ノ利ハ人ノ和ニ如カズ)」という言葉があるといいます。いわゆる「天の時・地の利・人の和」です。

 大政奉還直前、将軍・徳川慶喜は、その言葉を引いて、「この三つはつねに相関関係があって、ひとつなくなると他のふたつもなくなるものだな」と苦笑した、と「大政奉還 と徳川慶喜の2000日」童門冬二(NHK出版)にありました。「天の時、すなわち運はすでに去った。地の利、すなわち条件もいま非常に厳しくなっている。人の和、すなわちよい補佐役や部下もどんどん減り、次第に孤立している」ということです。その、”補佐役や部下もどんどん減り”に関して、慶喜は黒川嘉兵衛に次のように語っています。

終始一貫してよくわたしを支えてくれた。多くの者が殺されてしまったが、おまえだけは生き残った。それだけに肩の荷が重かろう。が、もうしばらく助けてほしい
 黒川嘉兵衛が返した言葉は
お側にお仕えしておりました中根長十郎殿、平岡円四郎殿、原市之進殿がすべて兇剣に倒れたのちも、わたくしひとりおめおめと生き残っております。これはおそらく上様のお役に立たないために、生命を長らえていることかと存じます。かえって足手まといだと存じますが、このうえは嘉兵衛身命をなげうって最後までお側にいさせていただくつもりでおりますので、なにとぞお気を強くお持ちの上国難の収拾方をお願い申し上げます

 長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロがいかに凄まじいものであったかがわかります。江戸攪乱工作では、幕府を助ける商人や諸藩の浪人、また尊王攘夷の活動の妨げになる幕府役人や学者、唐物を扱う商人その他も殺されたといいます。尊王攘夷をかかげて多くの人を殺害した討幕派は、政権を手にするとすぐ攘夷をすてて、開国政策を進めています。いったい何のための討幕であり、人殺しだったのでしょうか。
 下記の「尾去沢鉱山”官没”事件」は、「日本疑獄史」坂本藤良(中央経済社)から抜粋したものですが、野蛮な殺人をくりかえした人たちの集団が政権を手にした結果、起こるべくして起こった事件のように思えます。

 外遊から帰国とすると同時に、外遊中の山県の汚職(山城屋和助事件)や井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走し、山県や井上を政界に復活させた大久保や木戸、また、西郷を遣韓大使として派遣するという閣議決定を無視する意見を天皇に上奏し、勅許を得て、西郷や江藤など、長州閥に歯止めをかける立場の人たちをことごとく下野させた岩倉などが、明治の元勲として評価されていることは、問題ではないかと思います。その後の日本の暴走は、こうしたことの結果ではないかと思うからです。

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                        一 明治前期

2 尾去沢鉱山”官没”事件

 おかしな大蔵省の処置

 ・・・
 尾去沢事件は、こうした政治状況のなかでおこったのである。
 新政府は外国とのトラブルを極端に恐れた。条約改正にひびくからである。そこで外人に対する負債は政府が肩代わりをして支払うこととし、そのかわり、藩所有の債権を政府のものとして取り立てることにした。
 新政府が南部藩の文書を調べていると、藩はイギリス商人オールトから十一万五千二百八十六ドルを借りており、その金は村井茂兵衛が運用していたように見える証文があらわれた。そこで、新政府は村井にその返済を要求した。
 しかし、実際は、村井は藩に債務があるわけではなかったのである。
 南部藩が官軍に敗れて、七十万両を朝廷に献金するように新政府から要求されたとき、藩はその調達に苦しみ、村井に相談した。村井は、オールトら外国商人との取引があったので、外債を募ることをあっせんし、契約とりつけに成功した。ただし、この外債は、もし違約したときは二万五千両の違約金を払う、という条件つきであった。
 ところが、藩は、どたん場になって、外国商人から借りることをためらい、ついに拒絶の決定をするにいたった。困ったのは、あいだに立って斡旋した村井である。違約金二万五千両を一時立てかえてオールトに支払った。後になって、南部藩はこの金を村井に返済した。その返済のときの書付けにつぎのように記されていた。

「一金 二万五千両 奉内借候(ナイシャクタテマツリソウロウ)
                   村井茂兵衛」

 南部藩の慣習で、藩から商人に下げ渡した金には、つねに「奉内借」と書くのがきまりであった。これを、新政府(大蔵省)は、村井の藩に対する債務とかんちがいしたのである。
 それだけではなかった。大蔵省は、幕末に南部藩が村井に鉱山の採掘権を与えたその特権に対する上納金が未だ藩に納められていないではないか、と言い、村井に上納を迫った。
 『世外井上公伝』(「世外」というのは井上馨の号である)第二巻によると、大蔵省は、結局、村井から藩に上納すべき債務残高が四千六百両余、特権に対する分限金が三万一千四百両、と査定し、これを村井から徴収しようとしたのである。
 『世外井上公伝』は、井上馨の立場から書かれているので、そのまま信用はできないが、これが大蔵省の主張であった、ということはわかる。
 村井は、当時経営不振のため、このような巨額な上納金要求には応じられないと、大蔵省の査定に抗弁した。そこで、政府は村井の家産一切を差押えた。窮地に立った村井は、鉱山および付属の設備等の原価での買上げを懇願した。しかし大蔵省はこれを認めなかった。そこで村井は、せめて年賦上納させてほしい、その間、鉱山採掘をつづけさせてほしいと、返済計画書をつくって懇願した。大蔵省はそれも許可しなかった。
 そして、岡田平蔵という男が五万五千余円でこの鉱山の引き請けを願い出ると、さっさとこれを許可した。そのために村井から鉱山を返上させ、それとひきかえに村井に対する差押えを解除した、というのである。
 村井はふんだりけったりのあげく、鉱山を強引にとりあげられてしまったのである。
 鉱山をかわりに経営することになったのが、”鼻欠けの平蔵”こと岡田平蔵。

 鼻欠けの平蔵

 村井は泣く泣く酒田の裁判所に訴えた。だが、あえなく敗訴してしまった。
 地方の裁判所はまだ江藤ら司法省の直接支配下になく、各府県知事の管轄下にあった。したがって、当然、井上らの圧力がかかった、と見てよい。
 裁判まで政治の派閥に左右され、不法がまかりとおるのであった。もはや中央政府に訴えるしかない。村井は、堀松之助を代言人として、中央の司法省に訴えた。それは、江藤新平が辞表を出して却下された明治六年二月のことであった。
 それは、司法権の独立を主張する江藤と、財源難を理由にこれを押さえようとする井上との、激烈な闘争のまっ最中であった。
 村井の訴えを調べて、江藤は、おどろいた。
 井上、山県ら、長州派の政治家は、西郷、板垣、江藤らに比較すると、利権漁りに巧みであった。三井組、山城屋、三谷家、藤田組といった豪商、政商と結びついて、彼らに利権を与えるかわりに、甘い汁を吸っていた。西郷、板垣、江藤らは、井上、山県に比較すると、クリーンであった。
 何とかして、井上らの尻尾をつかまえてやろう、と司法をにぎる江藤は虎視眈々と狙っていたにちがいない。その機会が向こうからやってきた。
 尾去沢鉱山の払下げを受けた岡田平蔵とは、井上の子分である。こんなひどい汚職はない。
 平蔵は梅毒のせいか鼻が欠けていたため”鼻欠けの平蔵”などと呼ばれていたが、きわめて有能な商人だった。横浜での外国貿易で大儲けをした。また井上が造幣頭(ゾウヘイノカミ)を兼務している時、造幣寮に古金銀を分析して納入する仕事を、五代友厚とともにやって儲けた。益田孝(三井物産の初代社長)を井上に紹介したのも、この岡田である。生きながらえたら、相当な財閥をつくったであろう。

 後の話になるが、井上が江藤との争いに敗れ、辞表を出して大蔵大輔をやめたときは、岡田が出資して「岡田組」という会社をつくり、井上を総裁、益田孝を頭取にした。しかし、二ヶ月後、岡田が急死したので、井上自身が社長になり、「先収会社」として再出発した。これがのちに三井物産になるのである。だから、三井物産は、井上、岡田、益田と、そして三井の大番頭、三野村利左衛門と、この四人の合作と言ってもいい。井上と岡田とは、そういう親密な間柄なのであった。
 
 話を戻すと、村井から尾去沢鉱山を没収した(つまり”官没”した)直接の担当者は、大蔵省の川村選(セン)であった。判理局の十等出仕の役人である。
 川村は、村井から”官没”しておいて、他方で、岡田への払下げの稟議書を書いた。

 「岡田平蔵、尾去沢鉱山引受願ノ儀ニ付見取調伺」

 というのである。岡田に二十年年賦で払下げようという案である。それはただちに承認され、尾去沢銅山は岡田のものとなった。
 承認の印を押したのは、大蔵大輔・井上馨であった。

 罪状明白
 ここで、ひとりの硬骨漢が登場する。島本仲道という男である。
 司法大丞(タイジョウ)兼大検事警保頭(ケイホノカミ)というポストがあった。江藤は島本の硬骨ぶりにほれこんでいた。そこで、尾去沢鉱山をめぐる井上の汚職の疑いを徹底して調べろと命令する。
 その報告書が提出された。要旨つぎのようである。

一、盛岡藩大属(ダイゾク)の川井某が、廃藩置県のときに、藩の財産を大蔵省にひき渡すにあたって、村井が提出した受取証に「奉内借」とあるのを、貸付金であると虚偽の申し立てをして、取り立てようとした。ところが、村井の証明によって、それが虚偽であることが明白になったにもかかわらず、大蔵省は、その事実を見て見ぬふりして依然として村井に返納をせまっている。

二、村井が五万五千円の責任があるというが、村井が借入れた金銭などというものは全く存在しない。それにもかかわらず村井の財産を差押えるのは全くの圧制によるものである。大蔵省は盛岡藩の財産をうけついだが、同藩には有名な大森林がある。そのほかの財産も少くなくない。それに手をつければ、藩の債務は解決できるのに、村井の財産を差押えるなどとは全く不当である。

三、大蔵省はこうして不当に没収した鉱山を、全く公売の手続きもせず、山口県人(長州人)岡田某に払下げている。この岡田という人物は、大蔵大輔・井上馨の近親者である。村井が申し出た五ヵ年年賦をとりあげずに、岡田には二十年年賦を許したのは、全く私交私情から出たもので、両者の間に醜関係が存在することは明らかである。

 もはや大蔵大輔・井上馨の罪状は明白であった。

 指揮権発動

 江藤はこれだけの事実がそろえば、たとえ大蔵大輔といえども拘引できる、と思った。
 しかも、前述のように、大物は外遊中である。チャンスである。
 だが、太政官会議にはかると、「井上は維新の功労者のひとりであるから」というのでなかなか拘引を承認しようとしない。太政大臣三条実美には、そういうところがあった。
 江藤は切歯扼腕(セッシヤクワン)した。
 そのうちに、予算問題はますますこじれた。大勢は江藤の側にかたむいた。井上とその部下の渋沢栄一は辞表を提出すると同時に、連名で「建白書」を提出した。この「建白書」は秘密文書だったが、『曙新聞』に全文掲載された。マスコミのスクープだったが、このことから、政府部内の井上、渋沢への批判は強まった。
 かくて明治六年五月二十三日、ついに井上、渋沢の辞表は受付けられ、依願免官の辞令が下った。
二人はそろって大蔵省を去った。

 同時に、江藤は告発により尾去沢事件は、司法裁判所の手にうつった。
 江藤は事件の担当者として、これも敏腕で知られた河野敏鎌、小畑美稲、大島貞敏を任命し、思い切ってびしびしと取り調べをすすめさせた。
 井上は表面上は平気であった。野に下ると、岡田のつくった岡田組の大親分格として岡田平蔵、益田孝、馬越恭平をひきつれて、明治六年八月二十九日、こともあろうに尾去沢鉱山を視察し、江藤らに明らさまに挑戦したのであった。
 鉱山の入り口には、自ら筆をとって、
「従四位井上馨所有」
という高札を立てた(のちに、井上は法廷で、自分が立替たことは否定している。もし井上の証言が事実だとすれば、岡田がデモンストレーションの目的で書いたのかもしれない)
 他方江藤は執念を燃やして汚職をあばこうとしていた。井上の政治生命は風前の灯火であった。
 そこへ、事情を知って、外遊中の巨頭、大久保、木戸が急拠帰国する。
 彼ら文人派は、留守中に、西郷が約束をやぶって江藤を司法卿に起用したことに激怒する。
 とくに、大久保は、かつて自分が眼をかけた江藤が、裏切って西郷に組したばかりでなく、井上や山県を苦境に追い込み、ついに辞任させ、さらに汚職事件で追及していこうとしていることに激怒した。
 大久保、木戸らは、一種の指揮権を発動して井上に対する取調べを停止させ、他方、高度に政治的な手をつぎつぎに打っていく。
 明治六年十月、大隈重信を大蔵卿に任じ、大久保自身が内務卿になり、留守中に跋扈した武人派をおさえる強力な陣容をととのえたのである。

 征韓論の対立

 大久保、木戸は、帰国と同時に、留守中の山県の汚職(山城屋和助事件)、井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走した。そしてこのとき、彼らにとってまことに幸いなことに、汚職問題の影を薄れさせる、大問題が発生したのである。
 それは征韓論をめぐる政界の対立であった。
 木戸は、豹変した。かれはかつて積極的な征韓論者だった。それが帰国後は積極的なアンチ征韓論に変わり、大久保とともに、西郷、板垣ら武人派を追いつめていったのである。
 征韓論。それはすでに幕末におこっていた議論である。欧米列強に対抗する外交政策として、吉田松陰、橋本左内、勝海舟らが主張していた。維新後は、木戸孝允が中央集権の強化をねらって主張していた。木戸は、それによって士族らの不満をそらし、政治を一大改革するきっかけにしようとしたのであった。
 ところが、岩倉、大久保、木戸らの外遊中に、事態が進行した。同じ征韓論でも、板垣と西郷は少しちがっていた。板垣は盛んに朝鮮出兵を主張した。それをおさえるために西郷は、自ら使節の役を買ってでた。自分の政治生命を遣韓大使として問題を解決することに見出したのである。
 太政大臣・三条実美もこれに賛成し、明治六年八月十七日の閣議でそれが決定した。
 そこへ、大久保、木戸らが帰ってきた。もし、この案が成功せれば、西郷の声望が高まり、大久保、木戸の出る幕はなくなる。ここにいたって、外遊派は結束し、西郷の派遣阻止に全力を傾けた。木戸も180度意見を変えて、岩倉、大久保の側についた。大久保、木戸は、いまは国力を培養し、内治を整備するときである。外に対して武力など振うべきではない、と主張した。
 西郷は、閣議決定を早く天皇に上奏していただきたいと、三条太政大臣にせきたてた。他方、大久保はらは、もしそうしたら、自分は辞職し位階も返上すると三条に圧力をかけた。
 三条実美は、どうしていいかわからなくなり、錯乱して病気になってしまった。
 大久保は太政大臣の職務代行に岩倉が任命されるように工作し、成功した。岩倉は閣議決定を無視して、自分は征韓に反対であり、西郷の使節にも反対であるという意見を天皇に奏上した。天皇は、岩倉の意見を容れて勅許を下した。
 
 逆転敗北した征韓論者は、岩倉に対して不満を持ち、これに抗議して一斉に辞表を出し、野に下った。明治六年十月であった。
 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の五参議。
 陸軍部内で山県の汚職摘発に活躍した陸軍少将・桐野利秋、篠原国幹たち。
 司法省内で井上の汚職摘発に敏腕を振った島本仲道、河野敏鎌、小畑美稲たち。
 彼らはすべて辞任したのである。
 こうして政権は、完全に文治派(今は外遊派でもある)の掌握するところとなった。
 今にして思えば、帰国した木戸が、本来の政務をほったらかして汚職のもみ消しにとびまわっただけでなく、反征韓論者へと180度転換した真の理由は、長州派の救済にあったのかもしれない。征韓論の対立そのものが、汚職から世人の眼をそらし、さらに、あわよくば粛正派=武人派を政界から追放するための、意識的な高等政治戦略であったともみられるのである。
 汚職事件は、しばしば政治構造そのものを変える起爆剤となるものだが、山城屋事件、尾去沢事件もまたその役割を果たしたのであった。

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